2007-03-11 ムジナの「内省」
_ ムジナの「内省」
前々から考察して来たことではあるが、やはり「作家」とは、娼婦以上に社会階級的に劣る存在ではないのか。
「作家」は大衆を避けずに、大衆と「混浴」して会話を交わすのである。娼婦は、まず顧客と「入浴」しない。
最近、出版計画の多い私に対して、同業者的意見として、ブログなどで抽象思考結果を垂れ流すのは得策ではない、と助言する人たちがある。それは正しいと思って、密かに誰にも見せない小説を書く。
現時点で、出版企画案は10本以上を数える。考えただけで気が遠くなる。比較してもしょうがないが、バルザックよりルーベンスを思う。ルーブルで見たルーベンスは、「仕事」だった。しかし、ドレスデンで見たルーベンスは「芸術」だった。ボードレールの、「ルーベンスは忘却の河(レテ)」は、パリの「ルーベンス」を指すのだ。ドレスデンのそれではない。
ともあれ、10作以上とは尋常ではない。
すでに私の見解は、「4人以上の親になれる子ども」or「学歴より、読書と賢さを」と、決定しているので、それを分りやすく多種に書き散らばめることになる。
『男の子』はなぜ売れたか?
それは何らかの「核心」を突いたからであろう。
しかし、その「客観化」は容易くない。
私は、「新しき親友」の言に従い、深夜小説を記す。
そのペンネームも、その作品名も、誰も知ることがない。
それでかまわない。
しかし私は、小説を書くモードに入った瞬間、アイデア自由の存在と化す。
私は、独り物語るとき、「私」である。
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