2007-03-31 公立炎上
_ 公立炎上
『公立炎上』(光文社ペーパーバックス)を読んだ。筆者は公立高休職中の国語教師。岡田尊司以来、久しぶりで自分が書きたいことを書いてくれる筆者に出会った感触。ただ最後まで読むと、元ポルノ映画研究家で嘘つき寺脇のレトリックを読み切れていないところが疑問だった。
元文科省生涯教育課長、内閣官房の寺脇とは、一度だけ「対峙」したことがある。
平井雷太主催のパネルディスカッションで、適当にお茶を濁す寺脇に、会場にいた私は問いを投げかけた。10年ほど前の杉並公会堂でのことである。
「貴兄は、最近の中学生が、『自分の理想とする教育の仕事ができないことが分り切っているのに、わざわざ教員採用試験を受けて教職に就いた大人など信用できるわけがない。』といっているのをどう思うか?」
これに対して寺脇曰く、
「そういう人もいるし、そうでない人もいると思う。」
こういった発言こそが寺脇の本質であり、山崎同様、極めて官僚的なレトリックで国民を欺けると高家に構えているのであることを我々は絶対に忘れてはならない。
さらに、私は突っ込んだ。
「ふざけてもらっては困る。はぐらかさないで欲しい。私の質問に真面目て答えて欲しい。貴兄は、生徒が信頼できない無能教師が、全体の半数以上である実体をどう思うのか?」
答えに窮した寺脇は、「ご意見を参考にさせてもらいたい」と解答した。彼は分っていなかったのである。平井はその後、「私の会に来るなら、事前に質問を教えてくれよ」と言ってのけた。その後平井は文科省相手に目論んだビジネスをしそこなった。
その寺脇が、
「ゆとり教育の意味を現場が分っていなかった」と、全面的に教師の責任にするのである。
教師が無能であることは事実だが、それを捉えず実行不能な命令を下して現場を混乱させた責任はどこにあるというのだ。
自らの失政について土下座することがない文科省官僚はさらに質が悪い。
我々は絶対にダマされてはならない。彼は、文科省の責任を極小化するための「大使」である。
本当は、彼がするべきことは、「切腹」である。広島県の校長を見殺しにして平気であるのは彼ではないか。
いかなる意味においても、文科省には、教師に責任を押し付ける資格はない。
教師と文科省の両方に責任があることを忘れてはならない。
文科省のまずするべきことは、教科書検定の廃止と、センター試験の廃止であるはずだ。教育委員会の権限など、どうでも良いことだ。これほど確実なことを実行出来ないのは、自らの天下り利権を捨てる気がないからだ。
『公立炎上』の結語は、「最早公立は民営化するしかないから、エリート候補は、私立に通うべきだ」と言うものである。ひょっとしたら著者は、文科省とグルかもしれない。我々は、自らの過ちを決して詫びることのない文科省を、子どもたちのために絶対に許すべきではない。光文社編集部は「かつがれた」のではないだろうか。
末筆ながら付け足させていただくが、私は、教組幹部に「自己批判」を要求する立場である。私は「愛国者」ではあるが、「右翼」ではない。『正論』に寄稿するが、断じて「天皇崇拝主義者」ではない。私は未来を担う子どもたちに申し訳なく思う大人の一人であるだけである。