ブイネット教育相談事務所


2007-07-07 SEOUL紀行ー連載第18回

_ SEOUL紀行ー連載第18回

クイズは、予想通り好評だった。これは、たとえば、「息子がしかっても言うことを聞かない。どうするべきか?」といった、子どもの教育上の判断を3択で問う遊びで、日本の女性雑誌で特集され好評だったのを再構成して、正面スクリーンに映しながら解説を楽しむ授業バラエティ風番組なのである。皆さん順調かつ積極的にお答え下さるが、筆者にとっては、この国では「わんぱく小僧」より「秀才読書型」が、我が国より多小、女親あこがれの対象になり安い傾向があることを肌で感じたことが面白い。もちろんこれはより知的階層の願望かもしれないが、ともかく知的で上品なのが好まれるのである。韓国ドラマを見よ。知的かつ上品かつ誠実そうな男が女性の好みなのである。これは徴兵のある世の中では得にくい人材であろう。この潜在的フェミニズム的方向性は、当然日本で観察されたごとく、「男のインポ化傾向」である。韓国版名の意味は『ママもっと小さい声で話して』で、高度成長少子化の中で、男の子がインポ化することが問題になっているようだ。するとここに知的な秀才というイメージがジーザスクライストのようにたち現れて来る。どうしてこの人たちはこうも「倫理的」なのであろうか。同時に「韓国」は、日本の人が行っている先行社会実験をじっと見守っているのです。

私は、倫理は真の愛の部分集合だと思う。そして、性は愛の構造要素だと思う。男が男でいられるのがハッピーで女が女でいられるのもハピネスでなければ楽しくない。フェミニズムには、「男をできるだけ愛さない」という意識要素が必然的に付加されてしまう。ということは、フェミニズムの本当の反対語は「マザコン」ということもあり得るのか?これは面白い。マザコンとは、ゼネコンとはゼネゼネ違って、男をできるだけ自立的に判断行動コンストラクションできなくさせる運動。あれっ?じゃあフェミニズムとマザコンは同じことになっちゃうじゃない。どういうことだろう。残る考えはただ一つ。マザコンとフェミニズムは対偶的関係にあるということ。マザコンが「太陽」でフェミニズムが「月」と喩えられる可能性もあることになる。二つの同一傾向にあるものがあるということは、さらにはそのモデルになるシンボルがあるはずであるということである。フェミニズムとマザコンの同根であるもの。実はそれは、男が女の心を愛さないことではないか。今、男たちは、愛し方の足りなかったことを「反省」し始める。はたして韓国の男性はどれだけ賢いか?それが楽しみである。儒教のイスラムと共通する特徴は、Femineを「捨象」する「傲慢」である。フェミンには「匂い」があった。そして、その反発は「インポ」。我々個々は、実は、支配者以前に、「第3の要素」を捨象してしまっているのではないのか。女と語る時、我々は「男」を捨象する。いや、もっと「男性」になろうとする。でもそれは、「インポ」ではない。実は、「受け入れている」のは、女より男なのだ。我々には構造的な欠陥がある。我々は、女性の子宮なしには、遺伝子の世代交代をできない。女性に「お願い」しなければそれをできない。私は、この「考察」をもとに、「東アジアは実質的に女系社会である。どんな場合でも、子どもの「所有者」は母親であることを免れえないという観点を得る。「特攻隊」も残ったのは母親の「哀しさ」である。「無念」と言っても良い。だからこそ、「生き残り」はグレて見せなければならなかったのである。しかし、母親たちがチンコの考え方を改める時が来た。それが今回の出版の成功の理由ではないか。女の人は最終的に誰かのメッセージを期待するのである。これは男女を問わず、人間の「本性」であろうか。何かを思いつくよりも、何かを真似することの方がはるかに合理的なのである。私は、このことの集積が「文化」なのではないかと思う。良いことを広めること、それが文化なのである。

ゲーム後、人生は90年、「60歳以降の幸せは、趣味と子孫を持つことで保証される」といういつもの哲学を掲げ、「絶えず向上する習慣がつき、同時に女性とのコミュニケーション能力に優れる男を育てようとすることが正解」であると語って、ちょうど90分で切った。