2007-06-02 SEOUL紀行ー連載第6回
_ SEOUL紀行ー連載第6回
ソさんとは、12時半に店を出た所で分かれた。途中で、娼婦の斡旋をする男に声を掛けられたが、当然無視。
私の部屋でビールを飲んで、ホテル8階のサウナに行ってみることにする。
サウナ受付で、受付女性が愛想良くなく、二人で20000をワォンかかることに同意することを求める。20000ワォンとは、日本円に換算して1600円くらいである。あっさり同意すると、彼女は、電話をかけて初老の日本語がわかる男を呼び出す。この男が、
「サウナだけか?」と聞くので、
「そうだ」と答える。
サウナは快適だった。水晶と薬草に囲まれた部屋。ミストサウナ。さらに塩漬サウナもある。足だけサウナもある。浴槽は、約20度のものと、41度のものと、44度のものに分かれる。私が41度のに入っていると、田中氏は、44度のものに入っている。この男は、「辛い!」と言って辛い物を喰い、「熱い!」と言って熱いお湯に入るのである。
サウナ後ラウンジに出てビールを注文。ここにも私が望む酒類はない。
疲れ切った韓国人サラリーマン。
彼らは次々に呼び出されて、奥のマッサージルームに消えた。
2007-06-05 SEOUL紀行ー連載第7回
_ SEOUL紀行ー連載第7回
目が醒めると、枕元の時計は午前7時23分。約5時間眠ったことになる。
カーテンを開けるとよい天気である。朝日を浴びた前方の岩山から強い波動が来るのを感じる。この波動の強さは並大抵のものではない。日本でも滅多に見られない強さである。ホテルの位置からすると、都の西北に当たる。時間があれば、ここへも行ってみたいと強く思った。
シャーワーを浴びて、階下で朝食をとる。
10時30分よりプレスインタビュー。朝鮮日報をはじめ、約20人の記者の質問にお答えする。テレビ局のカメラも回る。これでもかというほど写真を撮られる。でもこれもすでに慣れたもの。最近こういうとき、私は「変装」しているのである。
通訳は、珍しく漢字が多い名刺を差し出したキム・ジミン嬢。上品な美人である。「日本語国際会議通訳士」とある。
最初やや敵意を持った記者たちが、私が「教育は国家体制のためにこそある」とか、「人生が90年になった今、単に受験に勝つだけでは真の勝利を手にすることはできない」とか、「兄弟とも言うべきこの二つの国が、自国の国家体制をまとめるために反目し合うのではアメリカの思うつぼだ」といった発言を熱心に書き留めるうち、徐々に親近感を持ってもらえた感触になった。通訳を通じて了解する中に、日本語そのままで了解する若い女性があった。後で分ったが、この人は、キム・ヘースンさんで、日韓の出版社をつないだエイジェンシーの人だった。
会半ばに私には全然分らないが、多分プロモーション用のことを懸命に話した、21世紀ブックのソさんもそうだが、韓国の女性は魅力的な人が多い。ところが、中に、仕事ができそうな仏頂面の二女性があり、この人たちが、「あなたの男の子と女の子を分けて教育するという視点は、性差別ではないのか」と来た。「性差別ではなくて性区別だ」と応じたが、どうも韓国では、日本に約10年遅れてフェミニズムの時代が到来中であるらしい。私の本は、フェミニズムが圧倒的に勝利した後の問題について言及した本なのである。
この後も、何としてでも男尊女卑の見解を引き出そうと努力する。どう書かれたかは分らないが、彼女たちだけが化粧気がないことが日本のフェミニストに通じてオモロいと思った。日本のフェミニストたちの最終結論は、結婚制度の否定である。これは、残間絵里子以外ほぼ世代交代しないことを意味する。
世代交代に積極的でないことは、「負け犬」である。そして私は、「負け犬」の実体は、上野千鶴子女史以外、性的快感が未経験な人たちであろうと男性直感的に客観化している。つまり、究極のフェミニズムは、良いセックスを与えられない男性の責任なのである。しかし、これは、どちら側が聞いても怒ることなので、日本同様しゃべらないことにする。この葛藤を理解されることは不能だから、私もフェミズム女性に免じてインポの精神で行くことにする。この後昼食会になったが、フェミニズム女性たちは早々に去り、残った女性は「美人」ばかりだった。これ以上書くことは日本人のフェミニストにも怒られることなので、ジェンダーを良く客観化する私は、これ以上の言及を避けることに致したい。フェミニストは、渡辺淳一に沈黙するべきではなかった。
2007-06-08 SEOUL紀行ー連載第8回
_ SEOUL紀行ー連載第8回
記者会見後の昼食会は、同じ場所でホテルのサービスで行われたが、これはいただけなかった。
「付け出し皿」は、装飾が勝っている結婚式場風。ミディアムで頼んだステーキは、「若者用」。
何と言っても、レストランを的確に判断できる野菜が旨くない。
美人たちもスープを音を立てて飲むことに「好感」を持てた。
美人通訳女性のキムさんに、なんで日本語通訳を目指したのか聞いてみる。
答えは意外なものだった。
「私、幼い頃から漢字が好きだったんです。」
この答えは「消極的」である。
ゆえに、突っ込む。
「だったら、中国語にすれば良かったのに、今日の中国経済の発展を考えれば圧倒的でしたよ。」
私は、彼女の父親が日本語が話せることを推察して質問している。
「本当!こんなこと予想もつきませんでした。」
彼女は極めて優秀だった。
インタビュー直前、最初逢った時に、「あなたは『重層的な非決定』とか訳せますか?」と試してみた。
「折り重なった=「多層的」というニュワンスと、‘non decision’の組み合わせですか。ウ〜ん。訳せますが伝わりません。どうか御加減下さい。」
やはり、日本人ですら容易く理解はしない用語の使用は外国講演には相応しくないようだ。
「日本の同時通訳者たちには、自分自身の価値観が持てなくなる、という職業病的な特徴が現れやすいが、貴女はどうか?」
「あっ、それはあるかもしれませんね。訳しているばかりで考えている暇がありませんから。」
私はこのような敏感な女性たちは、最近日本ではやや特殊な階層にしか少なくなっていると見るが、彼女は上品だがいかにもフツーな感じである。日本で言うと、高校から慶應女子校に入って受験勉強せずに大学進学したって言うグループか。いやいや、日本の大学付属校出身者は、音楽を主体とする何らかの芸術的な素養を、他よりよりいっそう持つ。
しかし、女性のアタマが濁っていないというのは歓びである。私は女性の感受性の源は、濁りのない純粋な反応の賜物だと思う。我々が旨い漬け物を食するとき、女性たちは確実にそれ以上の快感を持っているのである。我々男性には「オモロさ」があるが、女性たちには、我々の感受機能を確実に上回る何かがある。
男性にとって、「敏感さ」は、‘sexy’と同意語である。
Sensitiveとsensualの共有点である。
感受性。それこそは、男性に比べて相対的に動きが少ないという特性により、女性本来の、全く男性が叶わない能力であったが、社会進出をその重要要素として持ったフェミニズムは、あまりにも当たり前なそれを、敢えて捨象して、「インポ」を誘発した。
インポほどコワいものはない。女性に感じる意味がないのである。
フェミニズム女性が、スッポン(「冗談」で間違い。スッピン)を良く好むのはよく分かる。
でも、スッポンポンはなぜあるのか?
私は、キリスト教系白人とイスラム教徒の乱交パーティーを夢見るものである。
2007-06-12 SEOUL紀行ー連載第9回
_ SEOUL紀行ー連載第9回
つまらぬことを書くうちに、ソさんのことを書き損ねた。
ソさんは、記者会見の今日はメガネをかけてこなかった。
メガネをかけない彼女は思いのほかチャーミングである。
彼女はうら若いチャーミングな女性である。
メガネをかけていない段階で見抜けない私が悪い。
彼女は、私に対するプレスインタビューが一段落すると、カメラに向かって、実に見事に早口で本の紹介をしている。
その様子からすれば「ぶっつけホンバン」ではなくて、充分に予行演習がされていることが伺える。
彼女は,私を招待し、より発行部数を伸ばすことを「仕事」にしているのである。
私は、ソさんが、この,「仕事をしている瞬間」に、最も魅力的だと感じた。
女の人は、仕事をしている瞬間と、そうではない時の状態において、異なった魅力を発すると思う。
一生懸命している女性には、賞賛と、なぜかマッサージをしてあげたくなる。
もちろん実際にそうすることはない。
マッサージとセックスは、その根底において共通であるが、やっぱりやや意味が違う。
ともに行動する相手の「コンディション」を思いやるとき、そこにある種の「絆」が生ずる。
性欲も,階級も、「思想」ですら関係がない。
主体的に前に進もうとするものたち。そのものたちに我々はマイナスの波動を送るべきではない。
なぜか?
それは,よりオモロいことが起こる可能性が高いからである。
「対向発生」の根本義は、オモロいことと感じることについてである。
このことから言えば、オモロいことと、感じることこそは、同等の次元にあるといえる。
敏感な女とオモロい男。
オモロさが分る女と敏感さが分る男。
「エロス」には両者が欠かせないと思う。
これらに意識的になることが、「深化」の本線なのであろう。
すると究極、フェミニストたちの言うように、「結婚」はナンセンスなのである。
「社会契約」と「セックス」のどちらが優先事項か?
それはやってみないと分らぬことなのである。
2007-06-19 SEOUL紀行ー連載第10回
_ SEOUL紀行ー連載第10回
記者たちとの食事の後はやっとのことで緊張から解放される自由時間。
我々はチョンボクキン(景福宮)に向かった。
読者はPターンというのをご存知か。右側通行で左折混雑を著しく嫌うらしい韓国では、一遍右折してターンするPターンがあるのである。
道路標示に「Pターン」と出る。絶対左折できないということである。
韓国の運転は、日本同様、かなりその国民性を表す。
できるだけ割り込みはさせない。隙あればより有利な車線変更するのである。
この状態で、「待ち」の必要な左折車線をもうけると割り込み合いで収拾がつかなくなる。
ゆえに、「Pターン」とあいなる。
景福宮は、1394年に太祖李成桂によって建設され、1592年に豊臣秀吉の侵攻により焼失。1865年に大院君によって再建されるも、1910年の日韓併合で敷地内正面に朝鮮総督府が立てられ、興礼門は破壊され、光化門は移転された。この経緯について、筆者は、柳宗悦の「光化門」を読んで知っていた。私は、このことを、旧日本が韓国に対して行ったことの中で、最も恥ずかしい事件であったと認識する。もし、米軍が、皇居二重橋の辺りに総督府を建てたとするなら、どう思われるか。それは詮方なき「恨み」となって日本人の心に蓄積されたことであろう。同時に、もし、日本語が禁止されて、英語を強要されたとするならどうするか。これも忌まわしい呪いとなって残留したことであろう。個人の趣味同様、文化について侮辱されることは、婦女子の陵辱同様、許しがたいことであろう。それを日本人は平気でやってしまった。何という傲慢なことであろう。こういうことがなければ、「靖国」の問題もそう大きなことになっていなかったに相違ない。私はその「現場」を一目見てみたかった。
さて「景福宮」とは、明らかに「景色が佳い宮殿」とのことである。
だが、その意味は、思った以上に深かった。
2007-06-22 SEOUL紀行ー連載第11回
_ SEOUL紀行ー連載第11回
携帯電話の世の中で、運転手付きというのは誠に具合が良い。入り口で車を降りると、車は勝手に駐車場に向かいそこで待機する。我々はどんどん目的地に近づく。運転手のリーさんは、30歳くらい。寡黙である。一見博打打ちに良くある痩せたタイプだが、時折見せる笑顔の表情から幼い子どもがいることが推察される。
同様に、通訳兼秘書付きというのもなかなかよろしい。入場券など買う困難がない。ソさんが切符を買いに行っている間に、もう一人のキムさんと田中さんと、どんどん興礼門へと歩く。1995年金泳三大統領の決定によって総督府の建物を壊して再建した興礼門前では、衛兵が並んでいた。この衛兵たちは、魔女のような黒い帽子をかぶり、ヒゲを蓄え、旗棒を突き、微動だにしないのである。韓国へ来てすぐ感じたことだが、この国の男たちには徴兵制から来る何かの匂いがつきまとう。
しかし、私が心魅かれるのは、左手方面から来る波動である。そしてその先には、ホテルの窓から見えた例の山がある。私はぐんぐんその山の方へ歩いた。何という強い波動だろう。日本のいかなる山で感じるものより強い。諏訪より強い。玉置より強い。いったいこれは何なのだ。麓は緑に覆われているが、山頂は黄色い禿げ山である。明らかに一つの鉱物からなる大きな岩の塊である。私は一度で了解した。なぜソウルがここにあるのか。どうして李成桂はここに宮殿を建てたのか。それはこの山の波動があるからである。英語で魂と同じ意味の都の名前が分る。奈良よりすごい。明らかにソウルは、この山への信仰によって成立した都なのである。田中さんに聞いてみる。「あなたはこの波動を感じるか?」。「いや残念ながら全然」。キムさんに聞いてみる。彼女も了解しない。どうして彼らはこれほど単純なことが分らないのだ。ソさんも分らない。日本と同様、多くの人がこの人間が当然持っているべき感覚を私と共有しないのだ。私は、山に魅かれて魅かれてしようがない。何としても近寄りたい思いを禁じ得ない。有名なのは宮殿背後の北岳山とのことである。いやいや、そちらもなかなかであるが、本当にすごいのは、西側の山である。その名を仁王山という。「あの山に行きたい。どうやったら行けるのか」。「後で運転手さんに聞いてみます。とりあえず、景福宮を見学しましょう」。
興礼門前には、中学生たちと思われる子どもたちが団体で押し寄せて来ていた。私はやや気が進まないが門をくぐった。私の好奇心はすでに他のところにあったのである。
2007-06-24 SEOUL紀行ー連載第12回
_ SEOUL紀行ー連載第12回
興礼門をくぐると、白い石畳が広がり,その先に韓国最大の木造建築物の勤政殿がある。光化門も興礼門も勤政殿も、反り返った二重の屋根瓦がかぶさる建築物である。勤政殿では即位式などの大礼が行われたという。さらにその奥に王が政務を執ったという思政殿、学問所である千秋殿と続く。さらに、康寧殿、交泰殿、慈恵殿と王の在所が続く。いずれも思いっきり派手というのではなく、仕事や生活がしやすいことが優先されているように見え、しかもどれもが床下がオンドルになっていることから、冬期はかなり寒いことが知られる。建物群の北側には、大きな灯籠のような形をした赤いオンドル煙突がある。
それにしても宮中がこうして自由に拝観できるというのは面白い。この国の皇族子孫は今どこで何をしているのかと思ってしまう。以前に京都御所を見学したいと思ったことがあるが、事前の申し込みがなければ見られないということで諦めた覚えがある。しかし、たとえ事前に申し込んだにしても、規制が厳しくてこうは自由に見させてくれないことだろう。
2001年12月、明仁天皇は、「私自身としては桓武天皇の生母が、百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と発言した。これは、ワールドカップ日韓同時開催を意識してのお言葉であろうが、極めて重要な発言である。だが、我が国では、その時もその後もほとんど取り上げられなかった。天皇の「失言」なのであろうか。私は、この天皇の、歴史的真実をねじ曲げて国家的アイデンティティーを保とうとするあり方に反論する姿勢に強く賛同する。どうして歴代の天皇名が、古代より中国名なのか、多くの人々が不思議に思ったことだろう。どうして平安貴族には漢籍の勉強が欠かせなかったのか、理由が知りたいと思った人も多いことだろう。なぜ繰り返し遣唐使が派遣されたのか。どう考えても日本人の元は、漢字を知る民族の大陸からの侵入によるものなのである。桓武天皇といえば、平安遷都を定めた人物であり、古事記の編纂(改編)にも深く関わった人物とされる。長い間の混血で、我々の遺伝子にも大陸系の血が混じっていることは明らかであろう。その証拠に、朝鮮人と日本人は驚くほどにており、言葉も近いものがあることは明らかである。建築物や民族的な舞踏などの音楽も驚くほど類似している。この二つの民族が「兄弟」であることは明らかである。戦争が終わってすでに60年以上が過ぎようとしている。両国家の政治的主要部が、自国のアイデンティティーの主張により、求心をはかるのは幼稚なことではないか。私には、天皇がそう思ったとしか思われない。両国の問題は大きいが、互いに兄弟である事実を認めて積極的に仲良くすることを考えることが子孫のためになるのは明らかであろう。韓国の一般人はどう見ても親日的である。日本で流行っていることを取り込むことが大好きだ。そのことは、日本の教育コンサルタントの本がベストセラーになっていることでも伺い知れるというものだ。逆に日本人も韓国の文化が大好きだ。焼き肉、キムチを口にしたことがない日本人は皆無であろう。それどころか、我が家のクソガキに「何か食べに行こうと思うが、何がいい?」と尋ねれば、決まって「焼き肉!」と答える。余計な考えがなければ、我々の味覚はそれを求めてしまうのである。また、今回知ったことだが、キムチなどに含まれる唐辛子が最初に朝鮮半島にもたらされたのは、秀吉の朝鮮侵攻の時だという。密かにこれを聞いて私は愉快な思いを禁じ得なかった。私の老母は、異常なほどの韓国ドラマのファンで、その録画コレクションの増え方には驚くべきものがある。彼女が涙を流してそれを見る姿には、異国のものを見ているという感覚がほとんどない。
私は、例えば、共産党と公明党のように、似たものどうしはその差別化のために互いに非難し合う習性があることを知っている。学校でも、成績が近いものどうしが張り合う。つまり、人間には、似ていると反発を感じるという習性があるのだ。このことに自覚的になることにより、それを利用しようとする政治的プロパガンダに両国民が乗せられないことを心より願う。また安直な手口を用いて飽きることのない政治家を心からバカにすることもお薦めしたい。同時に、両国に共通の「儒教主義」の相対化、客観化をお勧めしたい。
2007-06-26 SEOUL紀行ー連載第13回
_ SEOUL紀行ー連載第13回
景福宮を見学中の中学生たちを観察する。彼らは中学2年生くらいか。男女共学である。男女ともにメガネをかけている子が多いことから、おそらく私立の進学校の修学旅行であろうと推察する。教師と生徒の関係は良好であり、教師たちは尊敬されつつ親近感を持たれて、古の日本の師弟関係が偲ばれる。気になるのは、勉強のし過ぎのせいか、男女とも顔が冴えないところである。特に女子は、街で見かける大人の女性の華やかさからは想像もつかない面立ちである。
かつて筆者は、アジア〜ヨーロッパ大陸横断旅行中に、日本の子どもたちの顔が最も子どもらしさを欠くことを観察した。同時に日本の電車の中で見る大人たちの顔が最も醜いことを観察した。子どもたちの顔は、インドでもアフガンでもトルコでもイランでもギリシアでもイタリアでもフランスでも、現地の子どもたちより表情が劣ることが観察された。大人、特に大人の男に至っては世界最低と言っても良い表情だった。この観察により、筆者は多くの日本人が目指す方向性と決別する決心をし、就職せずに今日に至ることになった。日本と似た韓国も、人々の顔が悪い。特に子どもの顔がマズい。でも大人の女性には美人が結構いる。
景福宮を抜けると、そこに新しい国立民俗博物館があった。李朝などの民俗が分りやすく展示されて面白いが、英語に比べて日本語の解説文が充実していない。やはり公の場所では、いくら観光客が多くとも、日本人は歓迎されていないのだ。これも日本語強要の恨みかと思いたくなる。
見学途中で、ソさんが、「時間がないので、次の場所に移動したい」と言う。「山に連れて行ってくれるのか?」と言うと、「それは明日。これから先生お望みの、国民墓地へご案内する」と言う。
2007-06-27 SEOUL紀行ー連載第14回
_ SEOUL紀行ー連載第14回
国民墓地は、ソウル南の漢江の対岸の丘にあった。入り口に厳めしい兵士の姿。運転手のリーさんは「イルソン見学」のようなことを言っている。どうも日本人でここを訪問するものは多くはないらしい。私は靖国問題を鑑みて、韓国では戦没者をどう祀っているのか見てみたいと思ったのである。
車を降りて、タナカさんと通訳女性二人と歩く。すごい!斜面のずっと上まで兵士の墓が整然と続く。米国アーリントンと似る。至る所にあるスピーカーから、粛然とした韓国語のナレーションとどこか美空ひばりの歌に似た音楽が流れる。
各墓には、埋葬年月日が記される。1950年代が多い。朝鮮戦争だ。1960年代も多い。ベトナム戦争と思われる。韓国では、復興のために多くの兵士が「輸出」され、戦没しているのである。この辺りは、憲法の違いで、軍隊を持たなかった日本との有り様の違いが見える。平和憲法では、兵士が死亡することは限られる。
それにしてもものすごい数である。意外なことに、ソさんもキムさんも、初めてここに来たと言う。ソさんに尋ねる。
「韓国には、祟りの思想がありますか?祟りとは、現在の私たちのために命を落とした人たちの呪いがあるという思想です。」
この答えは意外というか、当然であった。
「もちろんです。私は粛然とした気持ちになりました。」
またしても、韓国人と日本人は同じである。国のために死んだ人に申し訳なく思うのである。したがって、この思想習俗は、両国に共通の儒教思想にその源があると推察される。先祖を敬う発想が、戦没者に申し訳なく思う思想と結びつくのだ。
二人の韓国人女性は、露骨に暗い雰囲気になった。
中央に大きなレリーフの慰霊塔がある。命をかけて国家を守る男たちの姿の像である。
キムさんの解説では、主に警察関係者で命を落とした人たちのためのものであるとのことである。
さらに上に石でできた霊安室のようなものが見える。そこを指して登る。
兵士の墓の前では、遺族であると思われる人たちがお弁当を広げている。これも実に日本的な光景である。
霊安室には灯りが点り、お線香の台がある。ここには着いたばかりの人の遺骨がいったん納められるらしい。
お線香を捧げて手を合わせた。
さらに左手の丘にも墓地が広がるが、時間の関係で下を目指し、霊廟のような所に行き着く。
中に入ると、3センチ×15センチぐらいの名札が数限りなく果てしなく並べられている。いったいいくつあるのか分らないほどだ。その前には、多く写真や花が捧げられている。キムさんによると、遺骨が出なかった人たちの墓という。
駐車場に戻ると、バスがやって来て、中学生たちがだらだらと下りる。男子だけであるが、一目であまり勉強ができないタイプの子どもたちと知れる。勉強ができる子は景福宮で、出来ない子は脅かすために戦没者墓地なのかと思いニンマリするが、修学旅行では両方を見学することもあり得ると思った。そこへさらに、パトカーに先導されたバスが。中にはマスクをして遺骨を抱えた軍人たちが見える。この国では遺骨を持つ時は、マスクをしていないとヤバいという信仰があるらしい。今この瞬間も戦没者たちが運ばれてくるのだ。これに比べれば、我が派遣兵士たちの任務の平和なことよ。韓国の男たちは今も次々に死んでいるのである。この事実を看過してはならない。靖国には、新たに死んだ人たちが次々に祀られることはもうないのである。
夜の講演の準備のために、ホテル帰ることになった。私が分ったこと、それは、第2次大戦後、韓国の男たちの方がはるかにひどい目に遭っているのことである。このことの理解を前提に我々は態度を決定するべきである。
2007-06-29 SEOUL紀行ー連載第15回
_ SEOUL紀行ー連載第15回
5時過ぎにホテルに着いた。講演は7時からである。準備は全くしていない。ホテル近くの会場には6時半に入ることになっている。
「すいません。準備のために1時間ほど部屋にこもります。」
「では1時間後にロビーでお待ちしています。」
部屋で考えをまとめる。普段私は講演のために文章を書くことはない。おおよそのメモを作り、聴衆の反応に従って随時話すことを変えてしまう。私の座右の銘は、臨機応変、変幻自在、出前迅速である。
しかし、出国前、あまりに多忙だったので本当に何も考えてはいない。とは言うものの、以前に女性誌で袋綴じ特集した「子育て3択クイズ」を利用することになっているので、その前後の話を考えれば良い。韓国人気俳優が来日した時の「皆様今日は、ペヨンジュンです。よろしくお願いします」を、旅行本についている「すぐ使える旅の韓国語」を利用して作り、それを覚える。「皆さん」が出ていないので、「レディース&ジェントルマン」で逃げることにする。
「レディース&ジェントルマン。アンニョンハセオ。チョヌン マツナガノブフミ ハンミダ。チャルブタッカンミダ」
私は、覚えることは大の苦手なので結構手間取る。なかなかすらすらよどみなく言えない。何度も唱えていると、自分が韓国人になったような気がして吹き出しそうになる。
後は同時通訳の人に任せよう。演題は「男の子を伸ばす母親はここが違う」である。韓国の人に受け入れていただいてとても嬉しいとか、そうだ、景福宮と国民墓地に行って来たことも伝えよう。えーと、景福宮はキョンボクキン、あれあれ国民墓地は出てないぞ、キムさんに聞かなければならないな。
自己紹介に、日本の砂場遊びの考察、儒教倫理的土壌、少子化、日本の教育事情、親はどうすれば良いのかを語り、クイズの時間にする。それで、人生90年の哲学を語っておしまいにする。これで約90分で調整すれば良い。てなことをしていると、1時間経ってしまった。慌ただしいことこの上ない。