2007-08-29 皆既月食下
_ 皆既月食下
「平行四辺形の対角線は互いに他を二等分する」→「互いに中点部分をつないだ二線分の外殻を結ぶと平行四辺形が現れる」
このことに、他人に教えられずに自ら気がつく人はまれであろう。
我々は、「明文化」された言葉によって、「知識」を得る。
したがって「教育」には、その「前提」として、「知識」を持つものと持たないものの間に、「支配」、「非支配」の関係が内包される。
言うことを聞かないものには教えない。「教える」とは、「既定に知るものを」である。
反面、すでに分っていることの修得だけが「教育」と思い込むと、その時、「未来的可能性」が排除される。
賢さとは相対的で、新しい「知恵」が発見されれば簡単に覆る。
私はこのことを現象学的な命題にしたい。
トーマス=クーンのパラダイム理論も、この命題の認識に集約できると思う。
ゆえに、「支配的な教育」は、常に、「能力開発」を「抑制」する。
つまり、次世代が賢くなることを容認しないのである。
こういった考えの人は、自らを幸島の年老いたオスザル的存在であることを自覚しない。
彼らは新しいもの=これから生まれてくるものに興味がないのである。
言わば、「現世利益」にしか関心が持てない人たちなのである。
「文化の進化」を信じれぬ人たちなのである。
真のリアリスムは、ロマンティシズムの認識を内包する。
リアリスムは、「柔軟性」なしには現象しえない。
言うことを聞くか聞かないかで、教育的「意欲」を決定することは間違っている。
そもそも言うことを聞かないものの方が新しいことを求めている可能性が高いのだ。
「支配」することによって成立する教育、それは最早完全に過去の産物である。
「教育」とは、本質的に「縁」の産物である。未来への「信仰」である。
言い換えれば、「どうしても素通りできない」と直感できないものは、「学」とは無縁のものたちなのである。
彼らは飽くことなき3次元的活動に停滞しよう。
「転回点」を予知しない「愚者」である。
断っておくが、これは「知」というより「直勘」の領域である。
以上考察により、私は、「教育改革」は限りなくあり得ないと結論している次第である。