2008-12-05 「平泳ぎ」
_ 「平泳ぎ」
相変わらずひどい状態が続いている。
最近考え方を改めることにした。
ヘンタイやキチガイが作家になるのではない。
文章を書き過ぎるとヘンタイやキチガイに近づくのである。
一月中出版予定のゲラ、すでに締め切りを超えた執筆、その最中に次のゲラ。時間がある限り机に向かうが、疲れ果てて最早「クロール」ではとても泳げず、まるで身近の水を混ぜているような「平泳ぎ」で浮いているだけ。
家の中をうろうろ動き回ったりウズラ小屋覗いたり風呂に入ったりしてなんとか書き継ごうとするが、限界は「限界」。外へ。人と話してもどうも話がズレる気がして居心地が悪い。でも,稼業の教育相談は不思議と簡単にこなせてしまう。いっそのこと完全に気が狂ってみたい。気が狂っているのに気が狂っていない今の状況に「冗談」で気が狂いそうだ。
執筆だけならまだ良い。私にはそもそもの涙の教育相談の仕事がある。この上で、ゲラ、テープ取り、そしてそれらのための「腹案作り」があるが、目下腹案を練るヒマはなくてその場に任せて浮かんだ言葉を適当に吐き散らす書き散らす。それを出版社が掃除機で吸って、ゲラにして送って来る。この間多数のメールとやむを得ない連絡電話に襲われる。
よく考えると、自分で全部やった方が良いのではないかとも思えて来る。
しかし、このブログ以外の私の発表物は,「編集」と「リライト」が掛けられる。
私は良からぬことや意味不明のことを書くようなのである。
とにかく本人は死にそうで、風呂でのうめき声を家人に咎められ、息を凝らしたストレッチと瞑想を繰り返し、午後から事務所へ出て教育相談二件。風邪をうつされたっぽいので、帰宅後サウナに出る。サウナ後、放置した携帯を見ると、出版社3社より着信。「実はすでに終わっているのだよ」と思いつつ、なぜか数時間の「漬込み」。
明日朝からのさらにその次の本のためのインタビューの腹案を練らなくては、と思ったが、こりゃやってられないので、ブログで遊んで星空散歩に出ることにする。
2008-12-07 鴻池官房副長官発言について
_ 鴻池官房副長官発言について
鴻池官房副長官の発言が話題になっている。
鴻池祥肇官房副長官は6日、大分県杵築市の講演で、「日教組が悪い、という中山さんは正しい。文部科学省、あんな役所いらんと思うくらい、ろくなやつがおらん」と述べ、中山成彬・前国土交通相を擁護したうえで日教組や文部科学省を批判した。中山氏は麻生政権の発足直後、日教組批判や成田空港をめぐる発言などで辞任している。鴻池氏は、日教組について「学校があるのに『今日、日教組の会合だ』と言っていなくなる。まして『君が代を歌っちゃいかん』(と主張している)」と指摘。「教育とは未熟な子供を立派な大人にすること。ひとさまに迷惑をかけないこと。そういう教育の基本理念が教師にも、教育委員会にも、文科省にもない」とも語った。(朝日新聞)
これはオモロいが、実はこれは中山氏の言説の土台が、「正論」20年9月号の編集部の川瀬弘至氏の文章にあったと同様、同誌21年1月号の義家参議院議員の文章をふまえた言説であることに気づく人は少ないと思う。
しかし私はこれは政治家特有の引用として警戒するべきだと思う。彼ら政治家が考えることは地域における選挙効果だけであって、教育の本質問題を語るのではない。「あんな役所いらんと思うくらい」という言葉には、「あることは前提だが」というニュワンスが隠れている。つまり、「翼下ながら情けない」という言明である。こんなことを間接的に公に述べたって、何の意味もないことは明らかである。問題は最前線で戦う子どもたちが、左右両派閥の「具体的利権」の間にあって、未来型の教育を受けることができないことであろう。
「人材予算を投入せよ」という日教組の要求は正しい。しかし無能人材をそのまま組織内部に包含することは倫理的矛盾である。そして、ここに必要なのは徹底的なリテラシーの向上に寄与するメソッドの提案であるというのが、私がアウフヘーベンするところである。
子どもを「見殺し」にするという観点からは、文科省も日教組も同罪の存在である。しかし、文科省権益の温存を容認する自民党も、日教組をその構成員に抱える民主党も、この問題に本気で触れようとはしない。私は知る。このままでは子どもたちの「一斉暴動」が起こることは時間の問題である。
マスコミも文科省も教職員組合も、そして政治家も皆「アホ」。どうして我々は税金を取られているのに、子どもの教育を行政に委ねることが全くならないのか。塾と私立に金を取られねばならないのか。無能教師に甘んじなければならないのか。しかも未来的には期待できない学歴教育のために。君たちには、子どもたちの怒りと呆れと苦しみの声が聴こえないのか。教育を生業にする私に言う資格はないが、もうちょっとしっかりしてもらわなければ本当に困るのではないか。ちょっとアタマが悪すぎることに自覚的になって欲しい。
国家公務員が子どもを公立に通わせることを義務づける法案を提案したい。
以上当然のごとく「冗談」で書いた。
2008-12-10 「禁句」
_ 「禁句」
平均的日本人が、日本の学校教育並びに受験ヒエラルキーを目指しての勉強の大半が「ほぼ意味がない」と気づくのは、普通いったい何歳ぐらいのことであろうか。
奥手であった私の場合は、20歳、2浪後に大学に入学した時だった。私は、「たかだかこのような環境でこの程度の人材を用いて教育を与えるだけなのに、やけに努力を要求する難しい試験を課す。それにかくも長き時間をとられるなんて、自分は学歴社会にまんまとダマされていた」と強く噛み締めていた。日能研の高木氏がご子息を下から上まで成城学園で済まそうとしたのは実によく分かる。私も成城に住んでいれば、そしてもし成城学園に金持ち子弟が多くなければ、同様のことを志したに違いない。
時代下って、この件の認識につき、今の子は異様に早い場合がある。
それにしても、今様社会では高校2年くらいまでに、現状日本の勉強が「意味がない!」と喝破して、ただ合理的に入試合格を勝ち取るか、別の生き方を模索するかのどちらかを始めるようでなければ、ちょっと「オツムが弱い」といったところが「フツー」であろうか。私ならここでSFCを目指し、ダメなら外国へ出る。
S君は、両親の離婚もあって苦労を知る中3生。頑張ったが要領の良い女子に及ばず、内申を少しずつケチられて、結局中途半端の換算36。家庭の事情でこれに応じた都立に行くしか選択肢がない。
S君は言う。
「僕はもう、日本の学校が嫌になりました。ついでに言えば日本が嫌になりました。つまらない。くだらない。バカバカしい。やってられない。心とアタマに悪いと思います。」
教育コンサルタントの私には、「学校をやめたい」という相談も多く寄せられる。どうしても我慢できずに退学して大検資格を取るなんて言うのは私立公立に関わらず数多く目にして来た。
これらの子どもたちのほとんどは、社会的に物を見る能力の高い者たちである。つまり、物の実勢価格をリアルに知るタイプである。つまり、「マセ」ているのである。
苦労人のS君もマセていた。彼には学校や塾で行われていることがつぶさに客感化されてしまった。そして、こういう生徒は高2までに中退を選択する可能性が大だ。そこで私たちは、ストレスの少ない都立工芸などの技術を与える学校を模索した。
そして、私は、教育コンサルタントとして、とんでもない提案をした。
「都立農芸高校というのがある。これはオール3以下でも行ける学校だ。しかし、この学校は、現代東京で最もストレスを与えない学校である。何せ、日に3時間しか教室での授業がない。残りは体育芸術、そして、長靴を履いて畑で農業研修だ。それも学校の目の前だぜ。しかも君のうちからチャリで5分だ。入学金は確か6千円くらい。月謝も1万円以下。交通費ゼロ。通学時間ほぼゼロ。校則ゆるくバイトも可。それよりこの学校ならではのオモロいバイトがあるかも。好きなことをする時間も充分ある。それで高校卒業資格がもらえる。それにちょっと気をつけていれば君は学年トップで、推薦入学や留学も可能だ。次に面白いことが見つかればいくらでも変換可能だ。」
それでも彼は中3生らしく悩んだ。
「いったいこの決定を、どうやって頑張っている友達や塾の先生に伝えるのだ?」
彼は毎日面倒を見てくれる超安い私塾に通っていた。この塾頭を彼は尊敬していた。やっとのことで切り出した。
「先生、僕いろいろ考えたんですけれども、僕はもうこのオモロくない日本の学校の勉強に我慢して行くことができないと思います。だから、自宅近くでストレスのない農芸高校に進みたいと思います。」
進学塾なら必死になって引き止めるところだが、この塾長はなかなか人物だった。
「僕もね、最近、偏差値を考えない進学はかえって良いような気がしていた。」
と、塾商売上がったりの「禁句」を平気で口にしたという。
それにしても、S君の自己紹介カードの趣味の欄には驚くべき言葉が書かれていた。
「焚火」である。。
これは私のせいではない。焚火のせいである。
2008-12-13 センター国語
_ センター国語
センター現代文の得点法の解説を希望する理系学生に授業をした。この生徒は苦学して、バイト代で私の授業料を払おうとするものである。動物好きで、獣医志望である。
彼は見た。本文を読まずに選択肢だけ見て私が予想した解答が全て正解であることを。
受験プロのテクニックからすれば、センター解答を選択肢を読むだけで80%以上当てるのは当然のことである。普通の試験でも70%なのだから、マークしかない選択肢試験など答えが見えない方がオカしい。ある程度の力があれば、本文を読めばほぼ満点になる。だからこの試験はすでに「無意味」なのである。
エンピツで解答欄を塗りつぶす試験。これをやられる方がどんなに不愉快であるのか感じる力がないものだけが、こんな試験を存続させることができる。我が国の学力低下原因の「本丸」が、実はこの試験なのである。そしてこの「利権」を享受するものはごく一握りの人たちである。ということは、この試験を利用する私立大学は皆アホだということになる。
彼は憤った。彼は理系的論理思考ができる学生だから、私の選択肢を取る根拠の解説を聞いて、この試験に意味がないことを悟ったのであろう。私は口にしなかったが、ひょっとして「それ以外のこと」に感づいたからかもしれない。
V-netの理数担当のU氏は、理科系大学卒業後、国立大学医学部受験を志し、数学理科はほぼ満点級なのに、センター国語で得点できないために毎年「煮え湯」を飲まされている「苦学」している者だった。
私のやり方を聞いて、彼も憤った。というよりもあまりの自分の愚直な努力の無意味さに気づいて、悔恨の涙を流した。そして、私と同様、一般教育への「復讐」のために個人指導の道を選んだ。
文系知性が理系知性を場面的に説得することに優れると言えばそれまでであるが、センター試験はある程度のリテラシーを前提とした場合、全く意味のない試験であるのである。マークシートを利用する限り、これは出題者側にとって、「対処」のしようがないことなのである。
本文があるのに選択肢だけでほぼ完勝が可能である試験は、ある程度のリテラシーがあるものにとっては意味がない。意味がないことを続けることに無自覚なものには、カフカの「城」でも読むことをお勧めしたい。それも暗い気分で読むのでは効かない。大爆笑で楽しんで読むことをお勧めする。
学歴ヒエラルキー、これは明治政府が思いついた科挙の積分。本当の頭の良さは学歴とは比例しない。当人の知性と感性の度合いによって決まる。これこそ「胴元」文科省が唱えるべき道であろうが、安定して良い収入を得ようとすることが目的の高学歴者は、「利権」の意味を読み違えた「公務員」になる。創性に優れた建築家にはならない。誰も思いつかなかった切り口に気づく「ジャーナリスト」にはなれない。
「精神と感性のない高学歴者」。これほど我が国を蚕食するものはない。
未来ヴィジョンを突きつけて、これに即座の解答ができぬ者。これこそ、「自己判断を捨象した知識人」と言えよう。彼らはリテラシーのみに優れるのである。そして、こういう人たちの一部が、いささか古い言葉であるが、「総括」しなければ、事態は全く改善されない。
たとえ改善されなくとも、自らの立場が良いことを優先するもの、それを「保守」という。
この概念は左右に共通する。この人たちは、「新自由主義」が、「差別」をやや前提にした思想であることを解析できず、与えられる情報以上の「選択肢」があることを捨象し、メデイアと政治と経済活動のカモとなる役割を果たす。
イデオロギーを超えての現状認識。現場の子どもたちの「溜め息」の音に深く耳を澄ますこと。
これには、言語の不完全さと自己リテラシーの客観化が不可欠であるが、その枠に入る人は実質的にあまりに限られよう。だからこそ、ここで逆転的に必要とされるものは、知性より感性、mindよりheart、「アタマ」より「ココロ」であろう。そしてそれがマークシート試験の延長線上にないことは明らかであろう。
塾に通っても、四角いアタマをマル坊主にされるだけで、感じる力を伸ばすことはできない。
子どもたちが生まれるはるか以前から感じていた。この国の教育はヘンである。
2008-12-15 サイクロン特許獲得
_ サイクロン特許獲得
サイクロンが特許になった。特許は生まれて初めてのことなのでなんだか嬉しい。
特許を取った感想は、特許を取るには少なからぬ時間と少なからぬ金がかかると言うことだ。有能な弁理士に頼んだのであるが、出願書類を見て、これは自分にはできない仕事だと確信した。特許を取るのは企業ばかりというのも当然だと思った。これが三年以上前のことである。そしてこれが長期間の審査を経て、「同一のものが過去にある」ので却下。「そうじゃないだろ」と再審請求すると、今度は即OK。何せ弁理士が極めて清廉な人なので、再申請求料と成功報酬を快く即支払うことにする。その他諸々で80万円近くかかったことになる。
なぜ特許を出願したか。それは周囲の者に強く勧められたからである。
私だってビビる。何せこれは誰でも思いつくべき極めて単純な思いつきだからだ。しかし私は、算数暗算においてこれより優れたメソッドは向こう何十年も現れないと思う。何せ単純過ぎる。しかも子どもはそれが驚くべき学習教材とは気づかずに遊びでのめり込む。これ以上合理的な算数暗算メソッドはあり得ない。サイクロンに習熟すれば、その先代数の延長の数学学習に後手を取ることはまずないだろう。私がビビるのは、これが言語を超えて全世界で利用可能な教材であることだ。しかし、すでにサイクロンは特許庁のページでウェッブ掲載されているから外国の人が見てこれを真似することは可能だろう。サイクロンさえ手にすれば、どんな子どもも居ながらにして算数学習力を伸ばすことができる。私はこれがどんどん広まることを期待する。いつか飛行機で隣り合わせたインド人と勝負してみたい。
サイクロンは、カタカムナ音読法、抽象構成作文法と同様、全ての教育機関が採用すべきメソッドである。いずれ時間の問題で知らない人がいなくなってしまうと思う。
サイクロンについて詳しくは、ページ左の「松永メソッドーサイクロン」をクリックして欲しい。
2008-12-18 ダマることについて
_ ダマることについて
私は、しゃべる場合は「善意」だが、「ダマる」場合は「悪意である」人間であるらしい。
この事実は、わが人生上、実に多くの「不利益」を私に与えて来た。
高校生のとき、ある友人の女性問題について、私がこの先の成り行きを微妙なところまで推察して語った内容ピッタリにことが推移すると、これを聞いていた友人の一人が、「そこまで分っていながら、アドバイスしなかったのは『見殺し行為』だ。」と言う。この結果,「松永の見殺し」という陰の呼び名がつけられたこともあったが、これがそもそもの「黙る」ことが「悪意」であることの初めであったかもしれない。
しかし、口に出すか出さないかは個人の自由裁量である。ましてや私のように普段必要以上にしゃべっている人間が黙ることは、家族を含めた全ての人が大歓迎するところであろう。ところが、私は、しゃべることはやめられても、その前提の「観察」をやめることはできない。「裸」である人間を、そうとは知られずに密かに「観察」しないでいることが普通できようか。
この憂さを晴らすのが秘密で書くことである。書いても口に出さなければそれが表に現れることはない。事実私はこのブログでも、意識的に書かないことにしていることがいくつもある。
すると、さらに観察力は、「捨象したある観点」により、よりいっそうシャープになってしまう。そしてこれを基にした観察を「冗談」で書いて人に見せると多くの人が激怒する。どうしてセルバンテスやトウェインが笑って許されるのに、日本では許されないのであろうか。
私はこの原因を、日本人が割と同一言語内で同一人種だと安心する島国的性質から、隣国人同様、人の言葉をマに受ける思惟習慣があるからだと思うが、これは逆に儒教が「支配」に役立つことを暗示しよう。日本人は日常の場ではあまり冗談を言わないのだ。だから逆に、決めつけて考えることが好きなのだ。
このことが、目の前の相手が「変化球」しか投げない場合、理解不能の対象と決めつけることと結びつくのである。だからこそ、日本人は、平和になるとエロが好きになるのであろう。エロは読み手に分り易い。元禄西鶴がエロばかり書いたのはそのためであろう。蜀山人もバカらしくって「狂歌」を詠んで憂さを晴らすしかなかった。同様に基角は芭蕉の背後に隠れて真価を得ることはない。漱石デビュー前同様、「阿蘭陀俳諧」はまるで理解されないのである。芭蕉の「軽ろみ」も理解されない。
日本人は観念ではなくて実感だけを好む。
もちろんこれはある意味全ての民族に共通であるが、あまりに四季の移り変わりが美しいので、これを感じているばかりで抽象思考が発達しないのである。この結果、日本人は「ラブレー的冗談」よりも「吉本的実際ハメ外しパフォーム」を好む層が厚いと言える。頭の中でやる高級な冗談は流行らないのである。『源氏』がもてはやされるのは、その複雑な「補象」ともいえる。
私は黙るとき、かえって罪の意識の感触を禁じ切れない。
黙っているとき私は、とんでもないことを考えてしまうから。
だからそれを口にすることはマズいことになってしまう。
そこで、「冗談」で語っていることにする。
_ 世の中はいつも月夜に米のめしさてまた申し金のほしさよ(蜀山人)
_ これは本気ではなくて「冗談」で詠んでいるのである。
2008-12-22 橋下知事の文科省批判
_ 橋下知事の文科省批判
橋下大阪府知事が、全国学力テストの非開示について、文科省をバカ呼ばわりしているが、この方面筆者の方がはるか昔から「先輩」であることは、読者も良くご存知のことだと思う。「後輩」に告げるが、キミはまだまだ甘い。
全国学力調査テストは、学力の調査を目的に行われるものではない。学力調査なら全国でやらなくても抜き打ちでかまわないはずだ。これを予備校などにやらせれば年間予算は1億未満で済んでしまう。実際は初年度100億以上の予算を組んで開始されている。これはセンター試験同様、文科省OBの職場を作ることが目的の政策なのである。
学力調査なら、データを開示してそれを有効活用するのが当然であるが、すれば当然競争が加熱することを避けるために非開示だという。これはこのテスト実施を決めた中山元文科大臣の競争原理を求める発言と矛盾する。だから、やはり、初めに学力調査の大型予算を取ることありきなのである。ちなみに実際試験の受注は、某有名教材メーカーである。
日本人男性の生涯所得の平均は2億から3億の間であろう。年収500万円で50年働くとすると2億5千万円稼ぐことになる。高給サラリーマンでも、4億円までは行かないことだろう。しかし、高級官僚たちは、そもそも安からぬ収入の上、宿舎提供などの様々な便宜を与えられ、局長まで行けば、大企業役員と同様、年収2000万円を越える。その上で企業や法人に天下れば、最低1200万円の年収を得、数年後には公務員退職時と同じくらいの退職金を得、さらに法人などにも天下り続けることができる。天下りを受け入れる企業はこれによって国家予算を使う仕事を受注する。ともあれ、こうして高級官僚出身者たちは、高給サラリーマンたちのざっと2倍、平均的日本人の3倍の生涯所得を手にしていることになる。
今回、20年度の文科省の予算案を見ると、全体比率を抑えられた上で、人材費を極端にケチり、建設や製品導入のようなところに多くの数値がついていることが分る。思うに、人件費以外の文科省予算のほとんどは天下りと関係のある企業が受注する形になっているのではないか。人件費を増やしても自分たちには何の「ペイバック」もない。
教育改革には人材投入のための資金が欠かせないことは明らかなことである。辞めさせるにせよ別の仕事に就かせるにせよ「資金」がいる。そしてそれには同時に大きな改革案が先行しなければならない。いや違う。そもそも抜本的改革などする気は毛頭ないのだ。だって、もしそんなことをすれば、彼らが長年積み重ねて来た高収入への道が閉ざされることになってしまうではないか。そして、彼らにも家族がいる。
権力とは、分配権と人事権を行使する力のことである。どの省庁でも行われている国家予算の食い潰しと天下り、大分の教育委員会のやっていることは文科省のマネに過ぎない。それも親から見れば子どもの世界のように金額的には小さいことである。大分県で教師になっても生涯収入は3億に届くまい。世情的に「戦死者」も多い。
子どもたちが爆発する前に、文科省は「自決」するべきであろう。いずれ地方分権化が進めば、各省庁の大量のリストラが始まるだろう。国家公務員法を改正すれば良いだけのハナシである。そして、学校はもう地域の我々の手で運営するから、さっさと天下り先にでも転職して欲しい。もしも教える力があれば教師として雇ってあげて、学級崩壊がいかに恐ろしくて精神に悪いものであるかを生身で味わってもらおう。どうする?いじめの理由が、親が文科省に通っているのに有名私立を目指してサッピックス日能研通いをしているからなんて事件が起こったら。あるいは、そういう子がストレスのためにいじめの首謀者だったりしたら。今の時代じゃ、一人の教師が見られるのは5人以下の子どもって説もあるから、文科省の役人がボランティアで教師をやったら。
ワハッハ、橋下君も和田君も、「冗談」でこれくらいやっていただきたい、なんて。それにしても最近、文科省の悪口を言う人が多くなって来て、確信犯的本家としては、なんだかウレしいようなサビしいような気がする。河合塾と日能研が合弁会社を作ったが、出資比率は2対1。なぜかな〜?高木さんは読みが深いからねえ。中高一貫公立向けのコースの売れ行きはいかがなものであろうか。
まだ出し足りないが、冗談も休み休みすることにする。
2008-12-25 メリクリアラバクブダガチャミ
_ メリクリアラバクブダガチャミ
不況なのか時代なのか、街にクリスマスのムードが濃くない。このことはお正月が「区切り目」ではなく「通過点」に過ぎなく感じられることで再確認されよう。
そもそも私はクリスチャンではないのでクリスマスは関係がない。また、そもそも太陽暦の正月は、太陰暦を重視する私にはどこかしっくり来ない。
なんちゃって。受験稼業には師走の年の瀬も正月の松飾りも本来無縁である。「大掃除」もしたことなく、「片付け」のみである。文化風習の衰退を寂しく思う資格はない。
正月は休む。何せ、冬休みに入る前から年内は連日朝から晩までの指導と相談。そして、その後1ヶ月間は、風邪を引くことも許されず走り続けなければならない。でもゲラは読まなければならない。編集者たちは正月休みを取るのかしらん。
疲れて来ると焚火を想う。あの炎とエネルギーに癒されたい。焚火だけが人に会い過ぎの今の私を救う。
今日は仕事前に花卉店に行き、庭の花をもう少し増やそう。
ウズラの卵も採らなければならない。現在ウズラは4羽逃げて1羽水没、メス2羽しか残っていない。ちなみに飛び発ったウズラは鳩と異なり二度と戻って来ない。自由と引き換えに生存を掛けた生活を選んだ。と思うと、我が身のようにも思われて、多少救われる気もしないではない。私もどこかに旅に出たい。
_ 居辛さに 鶉ズラかる 師走かな
_ *稲城で、6年制私立中1男子英数学生家庭教師希望。V-netに御連絡乞う。
2008-12-27 「年度末学級崩壊」
_ 「年度末学級崩壊」
新聞で教師の精神疾患の増加が報告されている。
中3二学期。内申点が決まると、「年度末学級崩壊」が始まる。しかしこれはすぐに冬休みに入るので、「一時停戦」。三学期に入ると、推薦決定組と私立一本狙い組が活動を再開。公立受験内申点ガッポリ女子も「内職」に勤しむ。そして、私立高入試が終わると、「戦闘開始」。これはまだ公立高受験生がいても始まるのが通例である。最早彼らの我慢の臨界点を超えてしまうらしい。教師の方では内職容認や「自習時間」にしてしまう者もいる。都立高入試が終わると、学校は、合唱コンテスト、球技大会、社会科見学の連発と、その対策に余念がない。つまり、授業をしないで集団行動させるのである。このガス抜き効果は意外と大きい。こうして、卒業式の頃は高校進学ニッコニコの春の気分で、日の丸君が代以外にはそう大したことなく無事義務教育が終了する。
授業を少なくして集団行動を多くさせると子供は教師にストレスをぶつけない。授業が嫌なのは明らかである。なぜか。それは彼らにとって学校授業は単に内申点を取ることだけが目的の「労働」だったからである。しかもそれは、少なからぬ屈辱にまみれた劣悪で能力の向上が体感できないものらしい。つまり、必要以上の支配に甘んずる「准奴隷状態」といえる。彼らの認識では、能力と点数は比例しないという。他の要素が内申を決定する。そしてそれは女子に有利だ。手の込んだ出来上がり水準の高い提出物、教師に絶対に軽蔑を見抜かれない完全演技。男子の半分近くは内申を取ることを捨てしまう。
大人になれば彼らだって、馬鹿な相手だからと言ってその目の前でバカと言うとバカの壁を越えることを知るだろう。だいいち、その頃には己のバカさ加減も知るから人にそれは言えない。しかし、男の子は違う。裸の王様。自分たちを支配する馬鹿な大人を見ると、からかってやろうとすることが多いのである。しかも彼らには内申点の恨みがあるから、けっこう情け容赦がない。内申点の脅ししか使う能力のなかったものを総攻撃するのである。
中3とはいえ、中には教師より論理思考能力やリテラシーの優れるものが多く出る。特に成績優秀者は間違いなくこのたぐいであろう。彼らに「シナリオ」を書かれて挑まれた場合、教師は手ひどい目に逢う。
中年ヒステリー論理的思考ゼロで、内申点えこひいきしまくり、授業は聞くに堪えない国語女教師。2学期最後の授業はほとんど誰も聞くものがなく、クラス中が授業中に内職に走る。ここでも女子は優れる。彼らは内職用の記憶カードを作って来てそれをノートにはさんで前の者の背に隠れてこれを覚える。ところが毎度おアホな男子の一人、数学天才君は堂々と数学の問題集を広げ難問に没頭し、周囲を顧みることはない。コソコソしない分だけ潔いが、これが教師のターゲットになる。ちょうど見回りに来た教師が言う。
―何をしているんですか!
―数学だよ。
―今は国語の時間です!
―あっそ、国語と同時にやっているんだよ、勉強の邪魔だからあっち行って。
教師が怒って問題集を取り上げる。すると、生徒は机の中から塾の英語問題集を取り出して始めようとする。
―今は国語の時間です!
すると生徒は黙って、となりの男子生徒を指差す。隣には英語問題集を広げる男子生徒がいる。
これに教師は見事引っかかって、今度は隣の生徒に噛み付く。
―何やってんですか!今は国語の時間です!
すると、隣の生徒がまた別の、英語の問題集を広げている生徒を無言で指差す。
教師はまだ気づかない。
―キミも!今は、国‥…
と言いかけると、当然のように生徒は別の生徒を指す。もちろんそこにも英語の問題集を広げている男子生徒がいる。見回すと周りの生徒が皆英語の問題集を広げている。呆然と立ち尽くす教師と大爆笑。この時は、「しかたがないわね」という顔で苦笑する優秀女子も含めて、クラス全体がまとまって笑う。
これらは、予め打ち合わせしていることが明らかなのであるが、教師はそれに気づかない。あっけにとられて何を言おうか口をパクパクしていると、ここでタイミングよく授業終了のチャイムが鳴る。数学天才君が、まるで見事パズルを解き終わった時のように、教師の後でVサイン。男子生徒は一斉に廊下に出てしまう。
毎年夏休み前などに国語科が勧める図書に漱石の『坊ちゃん』が入るは常のことだが、「禁書」にしないのは彼らの鷹揚さの現れか。問題は、指導要領や評価基準、カリキュラムなど、上から押し付ける形で教師が自由に教育する機会を制限し、型に従わせることだけに終始する文科省システムが、現在の子供たちが全く受け付けないものになっているということだ。いくらでも対処法がありそうなものなのにそれができない。
新指導要領や文科省予算の内訳を見ても、彼らが既成の路線を改める気がないことは明らかである。
『教師が病気にならない方法』を執筆したいが、どこか出版社でご希望のところはあるまいか。
以上全て「冗談」で書いた。