2008-12-18 ダマることについて
_ ダマることについて
私は、しゃべる場合は「善意」だが、「ダマる」場合は「悪意である」人間であるらしい。
この事実は、わが人生上、実に多くの「不利益」を私に与えて来た。
高校生のとき、ある友人の女性問題について、私がこの先の成り行きを微妙なところまで推察して語った内容ピッタリにことが推移すると、これを聞いていた友人の一人が、「そこまで分っていながら、アドバイスしなかったのは『見殺し行為』だ。」と言う。この結果,「松永の見殺し」という陰の呼び名がつけられたこともあったが、これがそもそもの「黙る」ことが「悪意」であることの初めであったかもしれない。
しかし、口に出すか出さないかは個人の自由裁量である。ましてや私のように普段必要以上にしゃべっている人間が黙ることは、家族を含めた全ての人が大歓迎するところであろう。ところが、私は、しゃべることはやめられても、その前提の「観察」をやめることはできない。「裸」である人間を、そうとは知られずに密かに「観察」しないでいることが普通できようか。
この憂さを晴らすのが秘密で書くことである。書いても口に出さなければそれが表に現れることはない。事実私はこのブログでも、意識的に書かないことにしていることがいくつもある。
すると、さらに観察力は、「捨象したある観点」により、よりいっそうシャープになってしまう。そしてこれを基にした観察を「冗談」で書いて人に見せると多くの人が激怒する。どうしてセルバンテスやトウェインが笑って許されるのに、日本では許されないのであろうか。
私はこの原因を、日本人が割と同一言語内で同一人種だと安心する島国的性質から、隣国人同様、人の言葉をマに受ける思惟習慣があるからだと思うが、これは逆に儒教が「支配」に役立つことを暗示しよう。日本人は日常の場ではあまり冗談を言わないのだ。だから逆に、決めつけて考えることが好きなのだ。
このことが、目の前の相手が「変化球」しか投げない場合、理解不能の対象と決めつけることと結びつくのである。だからこそ、日本人は、平和になるとエロが好きになるのであろう。エロは読み手に分り易い。元禄西鶴がエロばかり書いたのはそのためであろう。蜀山人もバカらしくって「狂歌」を詠んで憂さを晴らすしかなかった。同様に基角は芭蕉の背後に隠れて真価を得ることはない。漱石デビュー前同様、「阿蘭陀俳諧」はまるで理解されないのである。芭蕉の「軽ろみ」も理解されない。
日本人は観念ではなくて実感だけを好む。
もちろんこれはある意味全ての民族に共通であるが、あまりに四季の移り変わりが美しいので、これを感じているばかりで抽象思考が発達しないのである。この結果、日本人は「ラブレー的冗談」よりも「吉本的実際ハメ外しパフォーム」を好む層が厚いと言える。頭の中でやる高級な冗談は流行らないのである。『源氏』がもてはやされるのは、その複雑な「補象」ともいえる。
私は黙るとき、かえって罪の意識の感触を禁じ切れない。
黙っているとき私は、とんでもないことを考えてしまうから。
だからそれを口にすることはマズいことになってしまう。
そこで、「冗談」で語っていることにする。
_ 世の中はいつも月夜に米のめしさてまた申し金のほしさよ(蜀山人)
_ これは本気ではなくて「冗談」で詠んでいるのである。