2008-11-03 作文法
_ 作文法
私の作文指導メソッドは、抽象構成作文法と言って、紙の中央に書いたテーマについて、連想して思いつくことをその周りに書けるだけ書き、それを文章に再構成するといったやり方だが、これは、一音一音音読法やサイコロ学習法といった他の私のメソッドと同様にあまりに単純で、ある意味、コロンブスの卵、誰でも思いつきうることであり、「オリジナル」と自称するのはオカシイという指摘もあるが、どうしても勉強ができるようにならないタイプの生徒の指導などから私が編み出したものであることには間違いがない。詳しくは本にも書いたが、抽象画家のコラージュ制作とウイリアム=バロウズのカットアップを参考に、これを書けない子どもの作文法に応用したものである。
この夏も15本ほどの作文を手伝ったが、秋になってそのいくつかが認められて、学校文集に載せられたり、学校代表作となって県の教育委員会に認められて入賞するとか、中には、作文指導塾の雑誌広告の例に使われたたという「大笑い」のケースもあった。この他の生徒たちも学校でほめられたというものが多かった。「友達にはめちゃウケしたけど、学校先生には全く通じなかった」なんてのもあった。
作文が出来上がった時に生徒が心から嬉しそうな顔をするので、子どもたちの作文の宿題を片付けなければならないという重荷がいかに大きいものであるかを再確認したつもりであったが、今にして思うと、「良いのが書けた」という「手応え」だったのかもしれない。
子どもたちの中には、漢字をいっぱい知っていて国語の成績は良いのに作文はどうもという子もいる。どれも真面目な女の子であるが、指導の際に、私から作文の極意を聞くと、一瞬あたかもラミレスに一発打たれた岡本のようにポカンとした顔になる。
―文章は面白く書かねばならない。読んだ人が面白いものでなければ、わざと不味く作った料理のようにいただけない。同時に、紙の上には文字しか書けず、完全な事実のイメージ印象の伝達は実は不可能であるから、何でもできるだけオモロくなるように適当に書くことが大切だ。
文章は書けないが真面目な女の子たちは、そもそもコトバや漢字には詳しいことが多いから、それを使える歓びが増大して付け加わって、結果的に本人の味が出た良い作文が出来上がることが多い。それは何かが弾けた瞬間のようにも感じられる。我々大人は子どもたちの分別のない、まるでモーツァルトのような自在な感性に叶わない。男の子たちも負けず劣らずオモロい作文を書く。やっぱり男はそもそも目のつけどころが違う。しかし、オモロい作文は学校教師にはウケないのが「定番」である。AO入試同様、教師にはオンナがウケるのである。
大脳開発の究極原理、それは物語を初めとする、事実ではないことを適当に書いてしまうことである。これは、「文学的」結論ではなく、「哲学的」結論である。
2008-11-08 主体的になること
_ 主体的になること
諸兄諸女史がこのブログを閲覧購読して下さることを誠に光栄に思う。しかし、先すでに知れた通り、私の実際は受験教育相談に学習指導、それと大衆の部分を対象化する出版稼業。そしてそれを、だらしないことに年中疲れてやっとこさでやっているという有様。その私がレベル低き文章の垂れ流しを続けていると言うのには、毎度いささか忸怩たる思いを禁じ得ない。また、この読者が、我ながら超不思議なことに、だんだん増えると言うから、最早「変化球」の投げようもない。
またこれにごくわずかにレスを加えるものたちは、記事への言及というより自己周辺考察報告に明け暮れる愉快な御仁ばかりと言うから、それも善し。「梁山泊」、誰がアクセスしているかはこれだけアクセス数が増えても書いている側にはてんで分らない。
もうやめるべきか、ホーホケキョ。
ご父兄が多いのかな、同業者が多いのかな、などと思うが、こんなふざけた文章を読んで下さるのは単なる日常生活暇つぶしの一部に過ぎないと潔く認識する。まあ、ウンコも下らないことながら毎日しなければならないことだから、「ウンコと同然」と言われると褒め言葉になりうるのが面白い。
主体的で居続けることはなかなか難しい。主体的で居続けるためには、休息のない好奇心と行動判断、鋭敏な感受性ととその心情表現が欠かせない。主体的で居続けることは疲れる。だからバッチリの睡眠時間が必要である。しかし、主体的で好奇心が強いために、眠る時間を忘れて活動してしまう。
いくら風呂に入っても抜き切れない。こうなって来ると、散歩しかない。
散歩をすると考えが良くまとまる。昼間の散歩は植物が気を満たすが、夜の散歩は自己想念を解放してくれる。
「沈黙から思想を、闇からヴィジョンを」と言ったのはバルザック大先達であるが、そのためにはパリ市街の深夜散歩が欠かせなかったことだろう。
主体的になるとき、人は「孤独」である。
2008-11-11 涙
_ 涙
女の人の流す涙ほど男を当惑させるものはない。
職業柄か、常に女性の涙に接するが、「理性」で対応できないゆえに「了解不能」である。
我々男性には、涙を流す「理由」がある。
苦労した上での「勝利」の歓喜、大切なものを失った悲しみ、至らなかった自分への悔しさ、そして、芸術的な感動。
しかし、女の人はそれ以外の「理由」で涙する。
「神秘」の涙が流れてしまう。
そして、その本当の理由は、我々男性には永遠に分らぬものであり、それが分るなら、作家も作家をやめて、オカマかヤクザになった方が良いかもしれない。
男にとって、女の涙は永遠の謎である。
それにはほとんど「理由」がない。
まるで子どものように、処理できない感情のスイッチがあるとき突然入る。
とめどもなく頬をつたう涙。
涙を忘れさせる次のアクションが取れない自分が情けない。
最近私は苦しい。仕事があり過ぎて心を休める時間がない。
そこへ連日のように、女性たちの流す涙、涙、涙。
若くて魅力的な男であれば話は美しいが、私は中年の疲れたハゲ男であるからそれは実際「喜劇」であろう。
「滑稽」を客観化するのでは、女の人の理解には至れない。
息子は母親の心が分らない。
母の心はアタマではなく心で感じるしかない。
2008-11-14 流行作家並み
_ 流行作家並み
満月近地点を迎えてやっと少し楽になった。
この半月はきつかった。仕事、相談が集中して、さらに「涙」もあれからまた二連発。
「追加を書く」と約束した原稿を、「後は、インタビュー主体で」と勘違いして、結局慌てて書かなければならなくなった。
遊びたい、遊びたい、旅に出たい。旅行に行きたい。でもその逆にしなければならないことばかり増える。涙は出ないがうめき声ならとうに出している。もし来春も一人旅が許可されなければ、その時は離婚をしてから出かけよう。
進学塾に合わず、母親が苦労して見つけた個人塾もクビにされた小学5年生。人の話をある程度長い時間連続して聞けず、字をいくら言っても読めるように書けない。自分の日常の事件を上手く説明できない。
で、私が個人指導。ところが、一対一でやってみると普通の子よりやや落ち着きがないが、音読もサイコロも一生懸命やって上達する。問題は作文であるが、これは字が汚いのと、書いてあることが意味不明のため、なかなか納得できるものが書けない。毎回物語を一つ書いてくることになっているのだが、超まとまりのない、オチも終わりもないものになってしまう。
ところが昨日、驚くべきことが起こった。定刻前にやって来た彼は、
「家を出る時まで作文の宿題を忘れていたので、今行きの電車とバスの中で書いた。」
と言う。
「えっ、どうやって?」
「ほらバスの手すりにこの筆箱をおいてその上に原稿用紙を乗せて書くんだよ。」
と、四角い筆箱を指す。
さぞかしひどい字になっていることだろうと思って作文を見ると、この子にしては意外と分りやすい字で書いてある。
内容は、オカメインコのチビが僕の家にくるまでと来た後の様子。誕生日は、分けてくれた人に問い合わせたそうだ。これでインコが、「チビ」は言えても、「ヒガシガオカ」のガが発声できないことがオチになっているから一応完結している。
子どもがバスの中で原稿用紙に書き込んでいる姿を想像する。同時に、この子の母親がそれをできないことも想像する。
私はこの子の「大成長」が非常に嬉しくなって、
「すごいな。流行作家並みではないか。」と言って、アタマをなぜてやろうと手を伸ばすと、素早く上体をひねってそれをかいくぐり、
「ラッキー!」
と、歯をむき出しの大笑いで、両手でピースサインをして応える。
カラムボードでも上達が速い。油断すると負けてしまう。
焚火の時も率先して火を飛び越えていた。
そこには「問題児」の面影が微塵もなかった。
2008-11-17 物語作文教育
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ここのところ、音読作文教育の効果が大きいことが連続的に確認されて我ながら嬉しいことが多い。
しかし、稼業の半分がこのデスクでの原稿書きであり、会って話すのは原稿をやり取りする編集者ばかりだし、子どもとの間でも原稿を読み合わせてやり取りしているから、いつでも原稿が目の前にある。必ず自分か相手の原稿の「over」で会話する。つまり、原稿を前提に人と面接する。書いていることだって、このブログの他にメール含めて多岐に渡るから、長崎チャンポン、何が入っているのか分らない。おまけに会う人の50%はこのブログの読者であるらしい。
こうなると、何をどこに書いて、何をどこでしゃべったのかの記憶が危うい。文体同様、無責任きわまりないことだが、最近ただでさえ劣る知的能力が歳とともにまるで髪の毛のように抜けて行く気がする。酒の飲み過ぎだろうか。いや違う。むしろ、追体験的な遊びの不足であろう。私は、目の前の子どもたちのように、時間を気にせず、自由な気分で遊びたい。一人旅に出たい。
私の価値観では、「退屈」は罪である。考える前の行動が正しい。動いた後にこそ、本質的なアイディアが生まれるのだ。創性とは、まず「動く」ことだ。しかし、こうしてオモロいことが目の前に連続すると、「自発的」ではなく「受動的」になりがちである。他人は羨むことが多いが、よく考えると、私にはとんでもないことである。人間は情報を超えて活動していなければならない。これは、「老いた」ことなのであろうが、若い者が我が農業以上に発育するのを現前にするのは、他のことに換えられぬ快感である。
やんちゃな弟がいる小学5年少女。父親が無理矢理やらせようとし過ぎてすっかり勉強嫌いになったところでV-net教育相談。話してみると、自分の世界をはっきりと持つ感性豊かな少女である。しかも、既成の類型に収まらないタイプの「美人」である。そして、この手の女性にほぼ共通の、「本能的算数嫌い」である。当人たちにとって見れば、すでに充分「いい気分」のところへ、ぐちゃぐちゃした数値計算なんて「本質的な快感の邪魔の邪魔」、のタイプである。嫌いだから当然前に進まないし、自分からやる気も起こらない。これを仕事で疲れて帰宅した父親が怒鳴りつけて指導する。結果、単なる「嫌い」が「大嫌い」になる。
何回か音読のレッスン。心純粋にきちんとできる。で、最もアタマが良くなる学習法の物語作文へと移った。ダンスの素養は音読学習に確実に効果的である。
「君は数少ないファンタジーが書けるタイプの女の子だ。そして世には、君の頃にそれを書かないために、一生書けなくなってしまう人が多い。だから今度までに架空の物語を書いて来て」
最初の作品は『お正月星』。これは年中お正月である星の家族と学校の姿。これが当たり前のようなんだが、書いたものを読んでみると何とも言えず微笑ましいんだなあ。母親の話によると、けっこう長い時間かかって書いているとのこと。だが娘はこれを否定する。イラスト付きなのが嬉しい。この子は物語をお菓子を作る感覚で書いているのである。
状況が好転したと見て、東大女子学生を紹介して教育環境設定。優しいお姉さんを得てニッコニコ。これで教えることから手を引いた、仕事に疲れた父親も、「これからはもう、娘のテスト結果は見ません。遠くからゆっくりと見守ることにします」と、これまで見たこともないようなにこやかな調子で語る。
で、前回のことだ。
なんと、一挙13枚!である。
加筆原稿も含まれるが、最新作の『キャンディー星』は、章ごとに手の込んだイラスト入りの10枚の大作である。会話が多く、内容豊かで超楽しい。このくらいの年齢の子には珍しく、一つの世界が大体定まった視点と観点で語られる。本人も楽しくて手応えがあるらしく、いくらでも書けるという雰囲気。ということは、これからどんどんアタマが良くなり続けるということだ。
教育環境設定成功。
ウソが書けるとはもう記述問題は怖くないということだ。そして、ウソが書けるとは他人のウソも見破れるから選択肢取りは楽勝になる。そして、男にダマされない女になる。紫式部、晩婚の可能性もある。
作文は抽象構成法で書き下ろせるが、物語はあらかじめ腹案を練らないとまず書けない。そして、この腹案を錬る時のアタマのハタラキの習慣化が「知性」に灯を点すのだ。
古典名文音読と物語作文教育の効果ははかり知れない。
正しいことを識り、自由に自分のやり方で表現できる。
私はこの両者を運良く同時に自分が見つけてしまった偶然の理由が永遠に分らない。
2008-11-21 作文メソッド
_ 作文メソッド
『子どもを無理なく志望校に入れる方法』改訂版、扶桑社より上梓した。
まだ無名な頃の、あまりに過激な部分をソフトに書き直して、多くに受け入れられるように編集し直した。加筆訂正はしたが、「若書き」の要素を多く残したので、それなりに直接的刺激的な部分も多々あるのでなかなか良い本である。どうぞよろしくお見知りおき願いたい。『超音読法』は意外なことに年配者に受けているという。この後『源氏物語本』、『一人っ子子育て本』、『公立中学に通わせ本』、『成長力』、『働くママ本』、『遊び本』と続々製作中なので、合わせてどうかよろしくお見知りおき願いたい。
v-netには受験以外の相談もある。小学校4年で、塾にも通わず中学受験もせず教育相談。
猛烈算盤塾に通い過ぎて算盤の以外ことが、特に言語コミュニケーションが劣っていて心配である、とのご相談。
合ってみると対人反応不全。頭の中がどうなっているのか検討もつかないないので、「目を閉じると頭の中に何が見える?」と聞くと、「算盤の玉」と言う。週6日、毎日の算盤通いではやむを得まい。極めてシャイな上にほとんど言葉を発しない。「まあ」しか言わないと言っても良い。とにかくカタカムナ音読法。月に2回一回1時間で授業。じっくりと音読に取り組みながら作文指導。徐々に作文指導を取り入れて2年。今回、中学受験はしないが試しに一流中学の問題をということで、記述と選択肢の海城中入試問題をやらせてみる。
これが驚き、選択肢は一つしか間違えない。しかも、解説を始めかけると、「あっ良く読んでいませんでした」とすぐに気がつく。記述問題は一応書いてあるが、辛くつけると5割の出来。抽象構成的重要事項抜き出しの繋合わせを教えると、自分で紙に向かって書く。出来た答案は、重要事項に加えてさりげなく自分の意見が加えられた上出来の正解答案。
本人には悪いが、この子は国語がさっぱりできないために相談に来ているものである。その彼が一流校の入試問題をほぼ間違いなくこなす。長年進学塾に通った生徒ができない問題を当然のようにこなす。いったいこれはどういうことだろうか。
音読法のベースがあり、作文が書けるようになれば、一流校の問題も怖くはない。
相変わらず口数少なく、必要最小減のことしか口にしないが、最近身の回りのことを相手に通ずるように話せるようになっている。
私はこのメソッドを売りたいので、前向きの進学塾などはよろしくアクセスして欲しい。
2008-11-25 偏差値詐欺
_ 偏差値詐欺
受験における偏差値は、ウルトラできるものがその下を受験する場合、もしくは自己偏差値よりも一段階下を受験する時にしか目安にならない。合格の可能性60%の偏差値とは何たることか、その偏差値では約半分しか入っていないということではないか。80%とはスゲエ、でも20%はどうして落ちちゃうの。こうなると、公開模擬試験による偏差値データはあまりあてにならないことになろう。
どうしてこんなことになるのか。
それは公開模擬試験が、多くの層のものに同一の問題を解かせるものだからである。
開成志望の子どもに、出るわけがない基本問題や、選択肢だけの国語問題なぞやらせても意味がない。受けるなら、難関校向け公開模試か、開成オープンのようなものであろう。ところがこれがまた怪しい。前者は開成以外の学校の受験者も受けるので、開成用の試験にはなっていない。後者は、忙しい中雑に作られた採点し易い出題が多くて質が悪い。開成や麻布の先生が心を込めて年に一度作ったものに遥か及ばない。
偏差値である程度の「学力」は測れても「合否」は測かれない。我々は心に刻むべきである。このことを敢えて口に出さないレトリックによって進学塾は家庭をダマす。小学校低学年の偏差値になんぼの意味があるか。それは生え始めたヒマワリの背の高さの差を細分してチェックしていると同様である。ほとんど営業レトリック用と言って良い。
合否は実際入学試験の出来不出来で決まる。
これに最も大切なのは、精神的肉体的コンディションである。睡眠バッチリストレスゼロ。ヤル気満々、ここでの大勝負にすべてを賭けようという高揚感。同時に絶対にミスをしないという緊張感と自己抑制。周りはおおむね、わざわざ寒い中、他人の合格を決定するために参加しているマザコン連中。これに受かれば一発逆転、いざ乾坤一擲の勝負!
こう仕上がっていれば、偏差値は10くらい簡単にひっくり返る。つまり偏差値は関係ない。
しかし、このためには、受験校の過去問題の完全研究と対策練習が欠かせない。たとえば、一校あたり過去十年分これをやるとすると、4教科1年分まあ最低10時間はかかるから100時間かかることになる。これを2で割ると50。つまり一日2時間で2ヶ月近くかかることになる。3校分やれば半年かかってしまう。塾へ通う子どもにはこれをする時間はとてもないだろう。だから私は、2学期からは塾へ通わずにじっくりと過去問対策に専念しよう、と提言して来た。今、塾の勉強に疲れた覇気のない少年がいる。聞けば、「塾が受験直前までやるなと言うので、過去問はやったことがない」と言う。また塾では、過去問解説は行わないそうだ。つまり、通う意味が全くない。ボロボロになるほど疲れて通っても意味がないことを告げるのは辛い。同時に、自分たちの「営業」のために、特定校の問題研究の指導を行わず、最後まで無意味な冬期講習を受けさせ、通学が困難な第2志望の1月受験を勧める方針に、憤りを禁じ得ない。塾のすべてが悪いとは言わない。しかし、受験の事情がよく分からないご家庭を、お客様のご要望ですからとダマし続けるのはいただけない。
2008-11-27 文科省指導要領ー「書くこと」
_ 文科省指導要領ー「書くこと」
以下に文科省指導要領から、「書くこと」についての項を抜粋する。
*
B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 経験したことや想像したことなどから書くことを決め,書こうとする題材に必要な事柄を集めること。
イ 自分の考えが明確になるように,事柄の順序に沿って簡単な構成を考えること。
ウ 語と語や文と文との続き方に注意しながら,つながりのある文や文章を書くこと。
エ 文章を読み返す習慣を付けるとともに,間違いなどに気付き,正すこと。
オ 書いたものを読み合い,よいところを見付けて感想を伝え合うこと。
*これは抽象構成法のことを言っているに他ならないと私は思ってしまうが、これを読んでも教師の多くは具体的対処を思いつかないことだろう。言い訳は充分に用意されていることであろうが、指導要領は「メソッド」を提示しないで済ますものであることは明らかであろう。*
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 想像したことなどを文章に書くこと。
イ 経験したことを報告する文章や観察したことを記録する文章などを書くこと。
ウ 身近な事物を簡単に説明する文章などを書くこと。
エ 紹介したいことをメモにまとめたり,文章に書いたりすること。
オ 伝えたいことを簡単な手紙に書くこと。
*これも普段私が主張することと同様であるが、一番大切な文章構成の仕方が具体的には書かれていない。なぜだろうか。「指導要領に過ぎない」ということだろうか。これでは現場の教師たちの中で実際どう指導したら良いのか分る人は稀だろう。突っ込んだことを書かない優等生的文章。妙に不親切である。ひょっとすると現場が指示通りにできないことを「確認」することが本来の「目的」なのかもしれないとも思えて来る。もしそうだとすれば、相変わらず文科省には、本格的な改革の意志がないことが暗示されまいか。しかし、現象学的には、「彼らは上部組織のアホに付き合わなければ出世の見込みがない連中らしい」と冗談で記述できる。
指導要領には、「だから言ったでしょ」はあっても、「こうすれば良いのだ」はない。彼らはなぜか「消極的」である。教師たちが「抵抗」するからであろうか。
かつてのミスター文科省TERAWAKI氏によれば、「ゆとり学習や総合学習において、文科省の方針は正しかったが、現場がそれについて来れなかった」とのことであるが、現場がついて行けないことを前提にやることにより、教師たちに責任を押し付けようとする魂胆がミエミエである。そもそも教師たちは、能力がないことをできるだけ捨象しようとする教組の倦怠モードで、余分なことや新しい教育については、常に塾以上に「後手」である。しかし、リテラシーを高めることに協力的でないことは、文科省の方針と一致する。つまり、自分よりバカでなければ教育を与えないという考えである。私はこの場合、教組も悪いが、文科省は非常にマズイと思う。塾もそうだが、リテラシーに劣るものをカモにするのは、時が経過した時に言い訳の効かない事態を招くと思う。
トップの自分たちに能力がないことを、下部のものにそれがないことにはめて、自己責任を逃れることを考える文章。彼らはこんなことが、我々に見抜かれないと、進学塾同様に思っているのであろうか。バカにするのもいいかげんにしろと言いたいが、こう書いたところで彼らにはそれを汲む気持ちすらないであろう。「えっ?どこが悪いの?」というのが本音であろう。
私たちからすれば、管轄能力がないものが管轄をし、指導能力がないものがそれを誤摩化すのであるから、ほぼ「同罪」である。
不思議なことは、双方がそれに自覚的でないフリをすることである。
どうして平気なのか、精神構造が社会と逸脱していることは明らかだ。
反省の弁は決して聞かれるべくもないが、70年以降、公教育は、できるだけリテラシーを低下させることをその要素に含んだことは明らかである。
麻生のアホは、その証明であろうか。
安倍も福田もそうだが、実は能力がないのに、「名誉職」を得るために、地位に就こうとするものは、平気で国民を侮辱することを前提にするらしい。さすがワセダ「裏口入学」の森の弟子である。
これ以上、我が国の若者をバカにしようとするのはやめて欲しい。
慇懃と謙虚が異なることを深く噛み締めて欲しいと思う。
リテラシーのないものにはその違いが分らなくとも、我々が積極的にそのことを書く。
ただし、「冗談」で。
2008-11-30 「嘘つき」
_ 「嘘つき」
アクセス数がまた急増したので、「調整」のために、末期的進学塾公開模擬試験のマネをして、問題量を多くし、「受験者」の「踏み絵」を自主的に図る。
どうも文科省は「ヤバい!」らしい。にもかかわらず、「反省」は書けないから指導要領はあのようになるらしい。まあ煎じ詰めれば、揚げ足取りにできるだけ合わないことだけが目的の無自覚「延命レトリック」なのであるが、これを、当の教師たちが精読すると、彼らも知らず生徒対処にこれを用いるようになる。「けむにまく」といったら言葉は単純だが、要は嘘をつくことを自己容認することである。この意味で、「指導要領」のレトリック効果はマコトに大きい。
最近のやや知恵の生えた小学上級生はほぼ全員「嘘つき」である。「冗談執筆業」のこの私がそれを見破れないわけがない。臨床個人指導体験30年の私が目の前にいるのだ。と、気張ってみても、悲しくなるくらい彼らはすでにとりあえず「嘘つき」なのである。
我々大人にとってこれは苦しいことであるはずである。実際、メディアに映る大人社会は上から下まで、ウソ、イイワケ、スリカエ、ゴマカシの未曾有の頻繁踏襲である。
中学生3人に問うてみると、彼らがそうなるのは、親と学校の先生のせいと全員が答える。
正直に答えると、次は理由をほじくる。で、そのことについての自分の意見を求める。そしてその時に、相手がいつも通りの自分を自覚しない、臨機応変のないワンパターンのバカだと思うと言う。ここでもし正直に「ただオモロそうだからやった。」と言うと、相手は「理解不能」になる。そしてタメイキをついたりする。体罰がゼロだから、先生方もなす術がなかろう。体罰のみリテラシーを越える。しかしリテラシーに劣る者は親も教師もそれができない。つまり、「進化」しつつある子どもに対応できないのだ。おい、文科省官僚、一度でいいから代りにこれをやってみな。
「学校の先生に本気で受け答えをすることは無理!」という子も数多く出現する。オモロいことに理由はない。その理由を聞くのであるから、「アタマが悪い」ということになってしまう。「自分は冗談とかは分りません。ましてその対処など、「冗談」でも出来ません。」と、映ってしまう。つまり、「了解」や「感受」がないのである。
「マジでやったらバカバカしくてやってられない」と中3生たちは言う。彼らには、塾の教師の言うことを真に受けているヤツもバカに見えると言う。「どうせ塾の先生もお金をくれる人の言う通りにやっているだけ。それなのにそれが分らないんだなあ。」恥ずかしくて自分の仕事を辞めたくなる。
中学校の女子になると、いかに教師に気に入られるかのテクニックも局所的に深く伝えられていて、少女たちの多数はほぼ完璧に「演技」することができる。陰でその少女たちが、男子学生以上に教師たちを軽蔑している言葉を平気で口にするのを耳にするのは、我が身にとっても恐ろしいことである。ちなみに、「ハゲ」は決定的蔑視の対象である。―わが身世に経る長めせしまに。人間性に対する顧慮は微塵もない。私は若者が好むお菓子に脱毛剤を混入すべきだと思うが、これを書いただけでもタイホされるかもしれない。ちなみに私がここに「自殺する」と書けば、これを読んだ瞬間に警察かNPOがやってくるのであろうか。私がここに書いただけでタイホされるなら、殺人事件を扱った作家を全て拘留すべきである。
ともあれ、暢気な人には信じがたいことだが、ほとんどの子どもには、うるさい大人には本当のことを言わないでテキトーに済ませるべきだというアメリカ仕込みの「共通認識」がある。
しかし、ここはアメリカではなく「日本」である。かつてはお互い日本人だから信用し合えると感じられる「日本」だった。それが顔見知りの相手同士でも信用できない。できるのは相手の「事情」を知ることだけ。生きにくいことこの上ない。「善意」が通じない。
株を買う時には、他の誰かが損をすることの「期待」が必ず部分にあろう。
私たちは世で生きて行くために、ほとんどの局面で嘘と方便を使い分けなければならない。義理人情なぞ、使っているヒマがない。言語能力がないものをゴマカさなければ己が利を得ることはまずない。
困るのは、その「社会常識」を学んだ子どもたちが、分別なく対人関係の日常ほとんどの局面でそれを用いることだ。アバウトでファジーと言えば聞こえは良いが、これは純粋さを伴う賢さの「捨象」である。言わば、彼らは、「向上」よりその「場しのぎ」を選択する者になり易い。これでは金は入っても徳は得られない。人生生涯総合計算結果集計的に「損」である。何となれば、「幸福」は美しく生きなければ得られないからである。でも、金が入るなら年金の支払いは持続されるかもしれないとも思えて来る。
だが、子どもたちは、その先行きの恐ろしき「ワザ」を容認せざるを得ない。
というのも、すでに労働大人社会では、それがとうに正しいことであったはずだからだ。たとえ「上」たる相手の要求が愚かでも、これに「下」の自分が実直な意見を述べれば、結果絶対「損」である。身分が上のものには、へりくだるか、仮面を装うしかないのが人間社会の「掟」である。「バカ」でも「上」なら逆らうことは「損」である。この「バブル」はやがて崩壊するであろうが、最前線では今も根強く現象し続けている。
レトリックという身分制度がその「レトリック」そのものによって討ち滅ぼされようとしている。
バカなレトリックが、これまで通りに効くと思って使う者は、上から下まで「バカ」に映る。こういうのを「冗談」ではなくて「善意」で、「滑稽」と言おうと思うが、問題は子どもたちへの「影響」である。
中3二学期授業期末テスト終了直後内申決定3日前の情景。
―先生、73点じゃあ「5」は無理ですよね。
―う〜ん先ず無理だ。
―でも、A子は一学期73点で、5ですよ。僕は同点で3でした。
ここで先生は答えられなくなってしまい、何か理由を述べて職員室に急に帰った。
しばらくして、ホームルームで、
「成績は一年からの積み重ねということもある」と言った。
この言葉は、男子学生たちからの「大爆笑」を買った。すでに彼らは「大人」なのである。
逆に教師は「復讐」の決意を新たにしたに違いない。彼らは少なくとも女子には信頼されていると最後まで思いたいのだ。これは水商売の女にダマされる「旦那」の原理である。
事情に詳しい教育コンサルタントは知る。女の子の親より男の子の親は付け届けが下手であるということだ。つまり前々からの「積み重ね」が足りない。私は教師に、「返された」という話をこの30年間耳にしたことがない。ちなみに警察が「受け取らなかった」という話は多く耳にする。先生が「家庭教師」という形で「買収」されていることも良くある。
ま、「天下りのマネ」と言えば可愛いが、子どもが「嘘つき」になるのは、もはやしかたがないことであるようだ。
ではどうするか。
私にはその答えは簡単であるが、誰もそれに気がつかないのが世の悲しさである。
(初心者用注―このブログは「嘘」ではなく、「冗談」で書かれている)
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