ブイネット教育相談事務所


2008-12-13 センター国語

_ センター国語

センター現代文の得点法の解説を希望する理系学生に授業をした。この生徒は苦学して、バイト代で私の授業料を払おうとするものである。動物好きで、獣医志望である。

彼は見た。本文を読まずに選択肢だけ見て私が予想した解答が全て正解であることを。

受験プロのテクニックからすれば、センター解答を選択肢を読むだけで80%以上当てるのは当然のことである。普通の試験でも70%なのだから、マークしかない選択肢試験など答えが見えない方がオカしい。ある程度の力があれば、本文を読めばほぼ満点になる。だからこの試験はすでに「無意味」なのである。

エンピツで解答欄を塗りつぶす試験。これをやられる方がどんなに不愉快であるのか感じる力がないものだけが、こんな試験を存続させることができる。我が国の学力低下原因の「本丸」が、実はこの試験なのである。そしてこの「利権」を享受するものはごく一握りの人たちである。ということは、この試験を利用する私立大学は皆アホだということになる。

彼は憤った。彼は理系的論理思考ができる学生だから、私の選択肢を取る根拠の解説を聞いて、この試験に意味がないことを悟ったのであろう。私は口にしなかったが、ひょっとして「それ以外のこと」に感づいたからかもしれない。

V-netの理数担当のU氏は、理科系大学卒業後、国立大学医学部受験を志し、数学理科はほぼ満点級なのに、センター国語で得点できないために毎年「煮え湯」を飲まされている「苦学」している者だった。

私のやり方を聞いて、彼も憤った。というよりもあまりの自分の愚直な努力の無意味さに気づいて、悔恨の涙を流した。そして、私と同様、一般教育への「復讐」のために個人指導の道を選んだ。

文系知性が理系知性を場面的に説得することに優れると言えばそれまでであるが、センター試験はある程度のリテラシーを前提とした場合、全く意味のない試験であるのである。マークシートを利用する限り、これは出題者側にとって、「対処」のしようがないことなのである。

本文があるのに選択肢だけでほぼ完勝が可能である試験は、ある程度のリテラシーがあるものにとっては意味がない。意味がないことを続けることに無自覚なものには、カフカの「城」でも読むことをお勧めしたい。それも暗い気分で読むのでは効かない。大爆笑で楽しんで読むことをお勧めする。

学歴ヒエラルキー、これは明治政府が思いついた科挙の積分。本当の頭の良さは学歴とは比例しない。当人の知性と感性の度合いによって決まる。これこそ「胴元」文科省が唱えるべき道であろうが、安定して良い収入を得ようとすることが目的の高学歴者は、「利権」の意味を読み違えた「公務員」になる。創性に優れた建築家にはならない。誰も思いつかなかった切り口に気づく「ジャーナリスト」にはなれない。

「精神と感性のない高学歴者」。これほど我が国を蚕食するものはない。

未来ヴィジョンを突きつけて、これに即座の解答ができぬ者。これこそ、「自己判断を捨象した知識人」と言えよう。彼らはリテラシーのみに優れるのである。そして、こういう人たちの一部が、いささか古い言葉であるが、「総括」しなければ、事態は全く改善されない。

たとえ改善されなくとも、自らの立場が良いことを優先するもの、それを「保守」という。

この概念は左右に共通する。この人たちは、「新自由主義」が、「差別」をやや前提にした思想であることを解析できず、与えられる情報以上の「選択肢」があることを捨象し、メデイアと政治と経済活動のカモとなる役割を果たす。

イデオロギーを超えての現状認識。現場の子どもたちの「溜め息」の音に深く耳を澄ますこと。

これには、言語の不完全さと自己リテラシーの客観化が不可欠であるが、その枠に入る人は実質的にあまりに限られよう。だからこそ、ここで逆転的に必要とされるものは、知性より感性、mindよりheart、「アタマ」より「ココロ」であろう。そしてそれがマークシート試験の延長線上にないことは明らかであろう。

塾に通っても、四角いアタマをマル坊主にされるだけで、感じる力を伸ばすことはできない。

子どもたちが生まれるはるか以前から感じていた。この国の教育はヘンである。