2009-01-02 謹賀新年’09
_ 謹賀新年。
読者におかれましては、この混迷して先が読めぬ世情下、何がいったい正しいのかを、教育という視点を持って共に考察して行こうとする好奇心ゆえに、このお粗末な拙ブログをクリック下さると存ずる次第。
しかし、私は学才的ではなく、また明晰な思考をものするでもなく、ただただ市井の人々の相談に身を投ずるに過ぎぬ存在である。
経済も政局もひどいが、教育もある意味でそれ以上にヒドい。
資源である石油が半年間で乱高下する。
誰がやっているのか知らないが、デリバティブやファンドが大損する。
これに大量資金を投入する政府は、間接税を上げざるを得ないと認識する。
何も悪いことをしないでそもそも低賃金に甘んじた上で、リストラされて喰うに困る人々。
恥知らずの二世議員と、自ら生産しないで税で喰う驕り高ぶる官僚。ちょいとばかりレトリックに優れるからと言って人をバカにするメディアと企業。
そして、我が国の未来を左右する教育には、国家は全く資金を投じない。
どうしてこんなことが続くのか全く理解不能であるが、我々は、アキハバラ的な事件にも、イスラエルの空爆にも全く「無力」である。
苦しみを訴えるものが救えなければその社会内での存在の意味が限りなく「欺瞞」になることは必定だ。我々はグローバル社会においてより良く遠方他者の境遇を直感しなくてはならない。
なぜゆえに我々は他者の「狂気」を解放できないのか。
否、「狂気」であることを自覚させられないのであるか。
「弱者」を「弱者」と切り捨てれば、論理的には、最終的には「強者」以外の誰もが、地上に存在しなくなることは明らか。
太陽が照り過ぎて、金星同様生物が住めない環境になるのと同じだ。
そんなことはあり得ないことである。
弱者切り捨ての考え方はエコロジカルでないからこそ誤っているのである。
「弱者」は賢くすべき対象である。
今年は新たに、どんな子供でも伸ばす教育メソッドの開発を心がけたい。
文科行政が変わらないからしょうがない。
今年こそ、経験的倫理観を語れぬ大人が、死ぬほど痛い思いに苦しむ年になるに違いない。
そして、「支配」に甘んずる大人を尻目に、賢い子供たちは、自ら覚醒して自己の魂の最大限の向上に身を投じ始めるであろう。
それが「生存」を第一義に掲げる生命体のなす技ということだ。
既成の判断を超えた決断。
自己の成長を実感する営為。
他者との関係の認識。
精神の真の健全さ。
それにはアタマが生理学的に良くなる技術―「瞑想」が欠かせない。
苦しみや悩みは単なる気のせいでどうでも良いことである。
考えても始まらない。
何となれば、いずれ「象は満ち、気は転ずる」。
過去を追うことも未来を願うこともできない。
あるがままの自己存在の究極的確認。
自らのアタマの状態を、自らの意志と感受によって改善しようとすること。
「自然は目に見えるこころ、こころは目に見えぬ自然」の認識。
我々は、自然の認識以上のことができない
新年おいて、相変わらず誠に至らぬ我が身ながら、最大限の自己向上を今年も心がけたいと思う。
読者諸兄には、本年もよろしくお願い申し上げる。
新年巻頭につき、ややマジに書き過ぎた。
2009-01-03 苫米地英人内田樹茂木健一郎
_ 苫米地英人内田樹茂木健一郎
12月の中旬以降、ほとんど休みなしに連続一日4〜5件の面接/指導セッションを続けた。
すると、20日過ぎに朝家を出る時、嫌な気持ちが強くなる自分を自覚した。しかし、自分は自分より苦しんでいるものを助けることが仕事である。「考えることは良くない。一切は気のせいだ。淡々と仕事をこなして行こう。」と自分に言い聞かせて自転車に跨がった。
24日を過ぎると、朝寝静まった家族の中、一人で起きて入浴瞑想して朝食をとり、事務所へ出、ここで連続的に仕事をして帰宅しようとすると、今度は「家に帰りたくない」自分がいる。でも寄り道して風邪など引くわけにはいかないから、帰宅入浴食事+アルコール摂取をすると、もう目を開けていられなくて12時前に床へ就いてしまう。寝床で、アリオストの『狂えるオルランド』か『マークトウェイン自伝』か『バガバッドギーター』を読むうちにそのまま「水没」。目が醒めると8時。
つまり、毎日8時間寝てしまう。当然、ゲラ、原稿、メール、連絡といった全てができない状態になる。暮れが近づくにつれて、いよいよ出版社からは情け容赦なくゲラが送られて来る。すでに出版企画は、9月頃まで毎月1冊のペースであるから、片付けなければ溜まる一方である。一昨年は、「春になったら10日間の一人旅に出よう」と思い描いて何とかこれを乗り切ったが、「社長」に一人旅を禁じられて、ガーデニングとウズラ小屋でお茶を濁した。また、定期的に焚火を行い、休みの日を多くしたが、その多くは執筆時間に振り分けられた。12月は焚火に行くことができなかった。その結果、「うめき声風呂瞑想」を開発した。今年はもう、休むこと以外に旅行に出かける気力もない。
ついに仕事納め、すぐゲラ執筆を開始するが、これが全くできない。
31日は実家で8時間、1日は外出後自宅で9時間、2日は何と10時間寝てしまう。通常私は8時間連続眠ると次は3時間睡眠になるが、もはや寝ようと思えばいくらでも寝られるのである。
起きている間は極めて不機嫌で、誰からも話しかけられたくない。まるで坊主のように瞑想を繰り返す。密かに私は怖いのである。もしもいつか書けなくなってしまう日が来ることが。
しかし、3日朝、家族寝静まる中起床入浴朝食後、ゲラ加筆を行うと何とか仕事が進む。勢いでメール解答、諸処懸案を片付けると、午後から外に出たい心境になった。
V-net諸君を励まそうと、吉祥寺リンデで大量にサンドイッチを購入。一駅乗って西荻で飲み物とミカンを購入。
事務所へ出ると、そこにはなんとV-netプロ教師全員がおり、新年ながらいないはずの高木さんもいる。サンドイッチ牛乳は全員に大歓迎された。
帰宅途上、啓文堂で、このところ注目している著者の新刊本を3冊を買う。苫米地英人『残り97%脳の使い方』、内田樹『街場の教育論』、茂木健一郎訳『脳にいいことをやりなさい』の爆発的売れ行きを示す教育本である。この3人は、かねて私がどうあがいても叶わないと思う人たちで、全て超高学歴者たちである。
先ず内田樹本を読む。これは残念な本であった。機会があれば詳しく述べるが、現場が分らなくなっている学者の本だった。私には「現場」から分り切っていることばかりだったが、それ以上はなかった。次に、Dr.苫米地を紐解いた。洗脳が分っているものが洗脳的に書いた本であるが、そこには「池田大作」以上の本質的な覚醒のメソッド伝達はなかった(これは「皮肉」。私は学会信者ではない)。ホメオスタシス(環境への同調機能)のことがきちんと書かれていたが、私から言わせれば、僭越ながら、そのことはカタカムナ対向発生=フトマニで、すでにより深く「抽象化」後であった。この人は抽象化の正しさを語るが、自己以上の抽象化があることに盲目的である。「自然は目に見えるこころ、こころは目に見えぬ自然」(FOUR WINDOWS)よりも、チベット仏教を深めては捉えていないと思った。中沢新一と同レベルである。
茂木健一郎訳は、「脳にいいこと」7つの絶対ポイントと題して、
1ネガティブ思考の「大そうじ」をする。
2プラス思考で脳をポジティブな回路をつくる。
3何ごとにも愛情表現を忘れない。
4全身の細胞から健康になる。
5瞑想などで脳を「人知を超えた大いなる力」につなげる。
6目標をもち、脳に眠る才能を開拓する。
7つき合う人を選んで、脳に良い刺激を与える
を掲げる。
4は何を言っているのか意味不明であるが、後は当たり前の既存哲学のブレンドである。5の瞑想は、私にとって必要不可欠の「排出行為」であり、「人知」にも「大いなる力」も捨象したところにある。
私は結論した。これらの人はかなり優秀であるが、バカな私と同様、本を出し過ぎて疲れている(ホメオスタシス効果による)。
この瞬間、私は二つの新たな出版企画を得た。
それはともかくとして、この人たちの共通項を抽象化すると、大文学が書けないからケチ出版に埋没している、つまり私と同様の人材である。
いや、ひょっとすると私はこの人たちよりマシかもしれない。
それは、私にはドス黒い「冗談」があるからである。
もしも、いつの日か、対面することがあったら、すかさず我が変化球を試してみたい。
今これを書いている瞬間に回復した。
3冊の著者と読者に感謝する。
2009-01-07 タクシー殺人、ホームレス殺人
_ タクシー強盗殺人、ホームレス殺人
1日、2日に続けて、3、4、5日と、軽く8時間以上寝てしまう。6日でやっと正常の6時間に戻った。
しかし、これからは、約一月間、延々一日4〜5件をこなし続けなければならない。
出版予定は、ややずれ込んで、『公立で伸びる子は、ここが違う!』(青春出版社刊)が二月初頭、『成長力』(三笠書房)が二月末、『一人っ子を伸ばす親、壊す親』(アスコム)が3月初頭、その後、キャンプ本、遊び本、働くママ本‥…と9月まで毎月刊行の予定が詰まる。もちろん手中には多くの企画がある。
これではもう、教える仕事(特に音読!)と両立しなくなるのは時間の問題である。いずれ教育相談のみになる日も近いと思う。教育は、私のように忙しくて余裕のない人間がするべき職業ではない。これでは完全な指導ができない。私はもっと時間をとって、より充実した本を作るべきであると思われてしまう。
2月28日、奇しくも誕生日にホビット村で『超音読法』講演決定。5月中旬に「自然育児友の会」、5月末に「あなたと健康社」での講演も決まっている。
派遣労働者の解雇と犯罪が増加している。坂本哲志総務政務官が、東京・日比谷公園の「年越し派遣村」に集まった失業者らをめぐり、「本当に働こうとしている人か」と発言したことが問題になっているが、おそらくはエリートコースを歩んで来た勤勉者の彼からすれば、つい本音を口に出してしまったということなのだろう。自身の努力により、ニューリベラリズムに無意識的になるのはコワいことだと思う。
資本主義的市場原理社会の究極の「本音」が、「弱肉強食」であることは言わずと知れたことであろう。この場合、「強者」から見れば、「弱者」は、「先を見据えての努力の足りなかった人たち」と認識されるはずである。これはある意味で、「革命」を是認する思想で面白い。ニューリベラリズムには、他の多くの「思想」同様、意識的に捨象された事柄への「無意識」が内在するのである。つまり、「多くの人にはすぐには意識化されないことが前提として含まれる」のである。ここでややこの項を教育コンサルタントの経験から考察してみたい。
一部の例外を除いて、一応完全ホームレスの人たちのある部分が「まともに職に就く気がなくなってしまった人々」であることは先ず疑いがなかろう。「生活ができない」とは、収入がないだけではなく、蓄えも金を借りる知人もなかった人たちである。もしくは長期に仕事に就けなかった結果、蓄えがなくなった人たちであろう。健康を害する、仕事に精神的に耐えられないなど、さまざまな理由はあろう。しかし一般に、人間社会は、善良で不運な人にはそんなに冷たくない。もちろんある程度以上のコミュニケーション能力が前提ではあるが。
「派遣労働者」
彼らの多くは、家庭の事情により、公立学校で下3分の1以下になり、高校に通い続けることができなかった人たちである可能性が高い。普通真面目に努めれば、公立でさほどヒドい成績にはならないし、ある程度我慢すれば高校卒業資格を得ることは、現状の日本では誰にとってもそう難しくはないことだと思われる。またもし、「自分はどうも勉強に向いていない」と感じれば、学歴を用いる以外に収入が得られる職業選択も可能であろう。飲食店経営などはその代表と言えよう。また各種の職業的資格を得る道も良いだろう。この点「自由」主義はありがたいが、でももし、その人に社会的判断力が備わらない場合は、「自由」において、選択すべきことは、「生き甲斐」より「安楽」になってしまうことは読者もご実感の通りである。そして、もし、親がその状態であった場合、子どもはどうしたら良いというのであろう。
いかなる資格試験でも、多少の「学力」が必要なことは言うまでもない。少なくとも書かれていることが理解できなければ、試験の受けようがない。「リテラシー」である。通いつけの理髪店のご主人によると、「今は床屋にだって、最低高校卒業資格が要ります。そうしないと専門学校に入学できないからです。」だそうだ。つまり、高校を卒業しないと、資格を取るための専門学校にも行けないし、当然大学に行くこともできないことになる。
私は、教育コンサルタントとして、これまで何回高校中退希望者を説得して中退させなかったか数えれば切りのないほどである。またもしすでに中退していた場合、素早く大検をとらせるようにしてきた。
「高校中退」とは、「中卒扱い」ということである。この人たちは、そののち雇われた場合、信じられないほどつまらない、ロボットにでもやらせた方が良さそうな、でも今のところ人力の方が低コストの、超単純作業を、安い賃金でやらされることがほとんどである。つまり、奴隷中の「奴隷」の「境遇」になることが多い。そしてそうはならぬように踏ん張るのが、バイトで稼ぐ力がある「フリーター」であり、もしもそれもできず親が余裕がある場合、「引きこもり同然のもの」になると思う。
では、高校を中退する人たちとはどんな人たちであろうか。ここで一概にすべてを括って言うことはできない。「大別」することもできない。
しかし、教育コンサルタントは知る。本来健康であるのに高校中退するものたちには確かな共通点がある。
タクシー運転手は、「自身」の生活のためより「家族」の生活に働くものであろう。もちろん、若き日より目指してその職業に就いたとは到底考えられない。あくまで国家の「保護」より自ら働くことを選択した人たちである。
この人たちと仕事をクビになった若者が同車する。共産党と創価学会、非差別組織と共産党、阪神ファンと巨人ファン、ヤクルトファンと楽天ファン、自民党支持者と民主党支持者、過激派組織とカルト教団、苫米地英人と茂木健一郎、高級官僚と巨大新聞記者、前衛芸術家と大衆芸術家、直木賞と芥川賞、ユダヤ人とアラブ人、私は永遠にこれを続けられるが、立場的に近いものどうしが、自己差別化のためにいがみ合うことが多いことは、多くの人が意識化し辛いことだと思う。究極、男は女と張り合っても意味がないし、女が男と張り合っても意味がない。同様に、親が子供と張り合っても「意味」がない。
善い左翼人もいれば、善い右翼人もいる。善い日教組もいれば、善い文科省役人もいることだろう。 しかし、ここに「約束事」がある。周囲を気遣わぬワガママやキレ、自己統御のできぬ人、ある程度我慢して働くことができないもの、約束を守れないもの、自己の世界に囚われて他者の世界の空想に乏しいもの、こうしたものは、人に雇われることはできないということだ。
書き始めてみると長くなってしまった。
この項何回かの「連載」とすることとする。
2009-01-11 他人のブログ
_ 他人のブログ
書くこと以外にほとんどコンピューターを使わない私にとっては極めて珍しいことだが、最近、ネット上に公開されている他人のブログを読んでいる。
それは苫米地英人、茂木健一郎、内田樹の三氏のものである。佐藤優のものがあればそれも読んでいることだろう。(以上以下敬称略、ペンネームと見なす)
これらはどうも、個人の余計なことが書かれていて、実際の著作よりオモロいことが多いのである。
「内田樹」は意外と真面目で不器用なオッサンで、「養老猛」と違ってそこにかえって人間的に好感が持てる。つまり、「開高健」の嫌なところがあるようでいてそれがない。「ケチ臭さ」が東京的にない。単にウイスキーを飲まずに焼酎ばかり飲んでいるせいかもしれないが‥‥。また鷲田清一よりも明快である。しかも知識の正確さは素晴らしいものがある。
茂木健一郎には頭が下がる。これほど真面目に物事に打ち込みながら成長し続けた人材は稀であろう。いつか家庭教師時代のことについてインタビューしてみたい。そして我が音読について伝えたい。その上で感受性の本質について話し合いたい。もちろん教えを請うのは私の方である。
苫米地英人は「天才」である。彼はすでに「次元」を超えてしまった。彼は未来的ビジョンを強くもって活動している。「フリーメイソン的」と呼ぶ人もあろうが、フリーメーソンだって「世代交代」が必要である。そして、「次元を超えている」からこそ、「芸人」である。彼には「芸」の素養がある。「直球」だけの無意味さを熟知している。私はこれを彼に教えた人は「偉大だ」と思う。現代最先端英語了解→数学言語獲得→脳機能習得→応用。この一直線は「天才」をもってしてしか達成できないプロセスであろう。ある意味で、福沢の「外国語修得→経済学了解→出版/教育→一万円札化」以上の合理的なプロセスがある。そして、この人は「迂回」しない。
しかし、これほどまでに「本質」に近づいたこの人にだっていまだ分らぬことがたくさんある。
面白いのは今のところ、この三者間の対談が成立しないことである。そこに、「フェティッシュ」なものを感じないのは強ち私だけではないであろうが、いささか興味深いことである。
「連載」にしよかと思うたが、その力と時間がないとわきまえ、「結論」のみを記す。
子どもに、自らやりたくない環境を設定し、自らやりたくない学習を全体的に強いれば、必ずついて行けないものが現れる。「社会」というよりも、「教育」に背いた者を、「経済的奴隷状態」に収束させることを容認する背景には、安楽安全に優先する「価値」の捨象がある。その対象の想起を怠る者が、「因果論的解明の業」を繰り返すのである。畢竟、本当の幸福の追求には自覚的ではないのである。
以上「冗談」で書いた。
2009-01-14 「学歴」と「レトリック」について
_ 「学歴」と「レトリック」について
たとえば教職にあるなど、ある程度学識的であるはずなのに、レトリックがいまいちな人たちは、どうして生まれて来るのであろう。今やすでに見えたこと。普通一般に、学歴を上へ重ねることの実態は、文章の書き方に上達する道に他ならない。高学歴でレトリックが苦手な人たちは、資格獲得のために暗記学習に走った人たちがその多くであろう。
また、これが学歴が「中途半端」な人たちの層により多く顕在するするのも事実である。
そして彼らは、レトリックの力が不足されるからこそ、自身のその状態への認識が得られない。そしてそれを「認識」できない。
彼らにとって、「資格」が無力であることを追体験することは地獄以上のものがあるだろう。なんとなれば、彼らにはそれを覆す「能力」がないのだから。
レトリックの力は、「暴力」以上のものがある。
受け身の相手に、こちらのいいようにある観点を強調する。もちろんレトリックに劣る相手はこのことに気がつかない。
「特定の神が実在する」
明らかにこれは「ウソ」であるが、「ウン」と言ってしまうことは容易い。
これは「信じた」のではなく、「信じたことにしてしまった」ということである。
つまり、相手の希望する「金額」で商取引が「成立」したということである。
デリバティブー高価なランジェリーとコロンの香。
こちらがうっとりした瞬間に、相手が「商売」していると認識できないのは、レトリックの力の問題である。
ああ、世界金融恐慌で多額の資金が導入される今、そんなことなら世界の苦しむ地域に余すことなく寄付してやるべきだったと思われてならない。なによりも、農業への資本注入は、確実に地球温暖化の抑制にプラスになるということだ。太陽電池パネルや風力発電よりも、有効な植生構築の方が実は「科学的」なはずだ。地球上、光合成に勝るエネルギー処理があり得ないことは自明の理である。
モノではなくて、カネでカネを得ようとすること。もしこのことが「正しい」とするならば、我々は他者の「内臓」を金で買うことができるということになろう。
「共存」とは、不要な自己利益追求を捨象することである。
真にレトリックに優れるものは、「自と他の関係」の「本質」を識る。
コトバだけでは何も現象しない。
コトバに付随する、あるいは先行する「行動」がなければ現象しない。
祈る以上のことがあるのである。
2009-01-17 「防腐剤的学級崩壊」
_ 「防腐剤的学級崩壊」
生徒たちから学校授業の状況報告を受けると、さすがに10年以上前にいささかこの事態を予測していた私も心底肌寒く感じる。
全ての学校ではないし、全ての授業ではないが、公立でも私立でも「防腐剤的学級崩壊」は大きな広がりを見せているようだ。
生徒たちの教師判断の基準を聞くと、一に「授業内容=教科指導能力」、二に「人間性=ウソ、ゴマカシ、エコヒイキをしないこと」と、昔から変わらない。
読者お気づきであろうが、本来両方とも「努力」でほぼ解決が可能な事柄のはずである。
「鏡」という漢字が思い出せなくて立ちすくむ国語教師。声が小さくて何言ってんだかさっぱり聞き取れない英語教師。教科書の足りないところを解説するのが仕事のはずなのに、黒板に教科書と同様の内容を写す数学教師。真面目にプリントを作っては来るが、「10分で」という声でやってみれば、クラスの半分が5分以内で終わり、残り半分はいつまでたってもできない。
現在のところ、学校教育の場に、「有能」な教師は、どこでも半分もいないだろう。いや、「二割」以下かもしれない。彼らは、相手があって成立する職業の客観化ができていない。
「学級崩壊なんてしない。授業中はただ静寂が支配する」と口にする、ややレベルの高い地域の公立中2生。「誰も授業を聴いていない。内職、読書、パズル、落書き、「雲見」、空想、電子ライターで刺激し合い、誰もしゃべらない。」
読者はなぜかお気づきか。
今、実は、学校では「耳栓」が流行っているのである。「睡眠」や「読書」が容認されるのであるから、次は「耳栓」である。その次は多分、i-podとDSであろうが、この生徒たちの決定的な方向性は何を示すのか?
その答えは単純である。
「聴くに堪えない」である。
落語家ならば「失業」である。
ストリッパーなら、「引退」である。
昔、かつての「文科省のプリンス」の寺脇氏(現在は京都造形芸術大学教授に「天下り」中)と杉並公会堂で客席から対峙したことがある。
―問う。貴兄は、現在の中学生たちの多くが、「自分の理想とする教育をすることが不可能なことが予め分っているのに、敢えて教職試験を受けて教師になっている人を軽蔑する」と思っていることをどう捉えるか。
寺脇は言った。
―そういう人もいるし、そうでない人もいる。
私が彼を「文科省のやらせスパイ」であると見抜いた瞬間であった。
―ちがうぜ。そういう生徒が多いということにあんたはどう思うかと聞いているんだ。
彼は詰まった。そして口にした。
―参考にさせていただく。
文科省が「参考」にしなかったのは明らかである。
いや、「鈍い」と言うか、「勇気ある」と言うか、驚くべきことである。
「敵」が「必敗」なのを見る時、「憐憫の情」を禁じ得ないのは私だけであろうか。
すいません。以上、「冗談」で書きましたです。
2009-01-20 「受験振り込め詐欺」
_ 「受験振り込め詐欺」
なぜか1月入試の埼玉県の中高一貫私立校と進学塾と深い結びつきがあることは、多くの人が良くご存知のことであろう。生き残りたい私立、生徒の受け口を増やしたい進学塾。結果的に塾が特進科の設立を勧め、問題作成から「偏差値操作」に関するまできめ細かく指導を行う。試験も一校あたり5回も行ったりする。
「特進科」2回に、一般受験3回。最初の特進科は「25募集」と打って、「滑り止め校」であるにもかかわらず、合格者数は「27」。これは、偏差値つり上げを目論む作戦である。合格者の中で入学するものは10%もいないだろう。「相変わらず良うやるよ」と思っていると、特進科受験後二〜三日して学校から電話がかかって来て、「繰り上げ合格したから入学を希望する場合は、明日までに入学金40万を振り込んでくれ」と言われる。
これは明らかにヘンである。より上級の私立を目指していたが運悪くそれに落ちたものを拾おうとするのが「滑り止め校」の戦術であるはずだから、合格者を多く出すのが当然なのに、試験を5回も行ってさらに「確約金」を取ろうとする。この学校は入学手続きを2月4日まで猶予する決まりを設けているが、同時に「一度いただいた入学金は返さない」と明記してもいる。
多方式で多くのお客を集める受験をして大きな利潤を上げている教育機関の代表は、東の横綱早稲田大学と西の横綱立命館大学であろう。まあ他の大学も大して変わらないが、単なる紙に書く記号主体問題で、予備校模試の10倍近い金額を集めるのは「無恥」であるが、さらにそれを何回にも分けて一回あたり3万円以上取るのは「悪辣」である。1大学5学部4方式で受ければ、受験しただけでざっと50万が消える計算になる。どう考えても、最初に5万円払ったら何回でも受けられる仕組みに変えるべきであろう。しかしこれも、50万人以上を集めるマークシート方式で、3教科受験すると1万8千円のセンター試験をお上がやって「お手本」を示すから文句の言いようがない。
ともあれ、上がやれば下もやる。しかし、子どもたちの多くの時間と労力を奪って、「就活」では決してあり得ない高額の受験料を何回にも分けて集めようとする。おまけに入学金を前倒しで払えと言って来る。未来の信頼のための「教育理念」よりスネ毛丸出しの「経営理念」を優先する。
私は、1月の中学入試を禁止して、2月下旬と3月上旬に限定するべきだと思う。
私立学校は、信頼のおける教育理念を提示することができなければ、中高一貫公立が一般化する中で生き残りをはかれないと思う。自分たちの学校経営のために公教育の場をズタズタにすることが平気であったしっぺ返しを受けるのである。
2009-01-25 オバマ就任演説
_ オバマ就任演説
ああ、私はあらゆることを深くは知らない。おそらくこの事実は私を生涯苦しめ続けることだろう。チョムスキーを筆頭とする多くの人は私を嘲笑うであろうが、私はオバマの演説に「感動」してしまった。言ったことの実現は難しかろうが、この「真面目さ」は差別する側だった白人には成し難いことである。パフォーマンスにこだわり過ぎるのが、ひねくれ者の私には臭いが、カタカムナ音読法の宗家としては、言語パワーにはなみなみならぬものがあると言わざるを得ない。日頃、「レトリックとリテラシーがヒエラルキーを決定する」と
唱えて止まない私も、これにはたまげた。彼は英語を、ほぼ一音一音法をふまえて誤りなく発声できるのである。「ゴスペル的カタカムナ音読法」と呼びたいくらいだ。
彼は「愛国者」である。
真性のナショナリストである。
だから、多くの人に受け入れられる。
もし彼が、この後も多くの人が受け入れざるを得ない提案と実行を連続するならば、地球環境が変わってしまう。資本主義の形が変わってしまう。
イスラエル(ユダヤ人)がガザから撤退したのは、オバマからの「命令」からではない。
イスラエルは、オバマからの徹底的なメッセージの方向性に、ユダヤ人的に予めの計算ずくで臨機応変に「対応」したのである。
アメリカには本当に驚かされる。
まさにアメリカはアメリカになろうとするのであり、日本は日本でいようとするのである。
アフリカ系が大統領になる。
「国体」を考える日本の右翼は大脳錯乱に陥るであろう。
「血筋」なんて関係ない。
全て国民全体が選ぶ。
たとえ過去において信じられないぐらいバカな指導者を選んでも、その後には「天才」を選ぶ。私は、プーチンも江沢民も「天才」だと思う。
我が国はどうか?
安倍福田麻生。続く小沢も「小人物」。とてもではないが「愛国者」とは思われない。
オバマはより強い「ナショナリズム」を打ち出した。
アメリカを見習うなら、大統領制に移行すべきではないか。
それこそが中国と北朝鮮に先んずる道であると思うが。
オバマは、史上ない政治献金を利用したメディア戦術でクリントンを逆転して当選した。
この演説を与えるために。
しかし書いたのは本人ではない。リンカーンはゲチスバークの演説を行きの乗り物の中で書いた。そして政治献金の大半は企業からだった。彼はこれを裏切れるか。
ともあれ、麻生氏が、「いいなあ英語は、漢字がなくて」と言ったというのは冗談ということにしておこう。
2009-01-27 v-net通信
_ V-net通信
以下配信希望が少なからずあるので、紹介する。
_ V-net通信 受験生諸君へ ‘09 1月
_ さあいよいよ、諸君が長らく待ち望んで止むことのなかった「ゴール」が目前に迫って来た。
「ゴール」が近づいてワクワクしない者はV-net的ではない存在であろう。
「不安」を口にするものは、落ちた場合のことを考える陰気な存在である。
健康とコンディションのこと以外に注意することはない。
諸君は、親の見栄や世間体ために受験するのではない。
同時代にあって、どうしてもここで学校以上に先行した学習が必要と判断選択し、上の学年での充分な力を修得しようとして「ゴール」を次々に通過しようとする人たちの一人である。
だから、受験が終わっても「学習」は終了しない。そこには、より好奇心に深く結びついた次段階の学習への区切り目があるだけだ。
_ 1、 苦手教科の合格必要最低点を切らない得点法を再確認せよ。
2、 国語深い音読、算数涼しい計算忘れるな。
3、 12時前には必ず寝ろ。
4、 考えるべきことはコンディションの自己調整。最大限の状態で最大限の実力が発揮できれば後は「天命を待つ」心境がすべて。
5、 1月23日朝、月が最遠
●26日17時、新月(金環食)
2月8日朝、月が最近
◯9日24時、満月(半影月食)
_ つまり、2月9日頃まで月は2週間おきに、月と地球と太陽が完全直列状態となり、引力が次第に強くなる。最後までミスなく、揺るぐことなく実力を発揮したものが確実に合格し易いのが本年の様相である。ことさらコンディションのことを強調するのはこのためである。「守備」が大切である。
_ 諸君の健闘を祈る。
2009-01-30 前田記宏
_ 前田記宏氏(宮崎県延岡出身。東大法卒25歳「ニート」。昨年11月29日に、自分のブログで文科省官僚並びに東大教授の殺害予告を書いて「恐喝容疑」で逮捕。本年1月6日再逮捕)の言説を読んで少し驚いた。「子どもにどうでもいいことや嘘ばかり教えたり、子どもを欺くことで子どもを操作し、最終的にはシステムに食わせようとしている」 「子どもを欺いて大人の都合の良いように操作するためのものであり、理想を真面目に信じた子どもに対する裏切り」
これは私の通常の言説のある部分に近い。
以上は、ほぼ「事実」であり、本来私は国家教育とはそういうものであるとはるか昔に結論している。
だからこそ、我々に第一に必要なのは、好奇心と感受性が一体化した状態、やりたいことをする自由時間とやりたいことが絶えずある状態の確保なのである。
しかし、この能力は、無自覚な受験勉強をすれば弱体化されてしまう。ついには、エリートほど発想力がないという今日的な状況を招く。無能な金融エリートではない、無自覚な「金融奴隷」である。
だがな、私は敢えて思う。
―ダマされるものが悪い!
なぜなら我々には不断の判断の機会が与えられているからである。
そして、たとえ無自覚的であったとしても、「それ」を知る機会はふんだんにあったはずである。
自分のやりたいことへの究極ダイアローグが未然なものは、「情報」の無自覚な奴隷になる。
前田氏は、ダマされたことに気がついたのであるから「幸福」な人である。
でもその次を思いつけないところが悲しい。「殺人予告」では、「マンガ」と変わらない。
この人も10代大半を創造的ではない不毛な学問に明け暮れて、回復できないほど脳の損傷を受けているのかもしれない。
まあこの人はこの後評論家として出版物を出す活動になる可能性が高いと思うが、「怒り」より「理念」を優先させるべきこと、「真面目」より「遊び」を優先させるべきこと、その他◯○××切りもないが、忘れてはならないと不肖ここに謹んでお伝え申し上げたい。
それにしても、ブログに書いただけで逮捕ならば、殺人事件を扱う作家を皆タイホして欲しい。
また年間3万人の自殺者代償として、何人か政治家と官僚に切腹して欲しい。
それとも、ひょっとして、これって、もっとヤバいことの前兆なのかな、何ちって委細冗談。