ブイネット教育相談事務所


2009-02-04 雑感

_ 雑感

テレビ情報をマに受ける人、外食チェーンのお客になる人、進学チェーン塾にダマされる人、テレビゲームを子どもに与えてしまう人たち。私の目からすると、こういった人たちの重なり具合は意外と大きい。よく言えば損得に敏感な人たち、悪く言えば好奇心や感受性より社会対応を優先する人たちと呼んでも良いかもしれない。

テレビを見て、マックを喰い、ディズニーランドを夢見て、進学塾に通う。

これは、文学に親しみ芸術作品を鑑賞し、生のものを食し、自己の好奇心と感受性に基づく自己向上活動をする人たちの逆の存在である。

どちらも正しいと思えるのは、そこで「判断」している「営為」があるからだ。

グローバル社会を受容し、しかも、そこに「弱肉強食」を容認すれば、自らが「弱者」であった場合、「隷従」をも受け入れ得る体勢と言えるだろう。

より多くの人が「不遇」を受け入れ、誰にも迷惑をかけない「趣向」が必要以上に罰せられる社会。

人々は自覚的ではない。

弱肉強食下では、誰もが「狩猟」の対象であることに自覚的ではない。

この「寛容さ」の上にこそ「経済」が成立しているのだ。

しかしもし、私たちが強く根源的に「ダイアローグ」して、私たちに本質的に幸せをもたらせるものは何かと勇気をもって問えば、人の人生はその人にただ一回きりの個人の選択による可能性にあると深く認識すれば、我々には、いかなる政治体制も社会機構も、「無縁」の存在と認識されよう。

ここに我々は「主体」を回復する。

上から与えられた民主主義は「無用」である。我々に必要なるのは、自ら選択する「主体性」である。

「民主主義」は、上から与えられた暫時的概念であり、その本質は「主体主義」であろう。

それを確認し、活動し始めるのが未来人の有り様である。

我々は世代交代をし、そのさらなる発展を願うドーキンス的な存在である。

大画面で繰り広げられる映像も、耳元でささやかれる誘いも、一切は迷いの元である。

私たちは自らのしたいことをするために生まれて来た。

どうしてそれを捨てて世間の基準に合わせることがあろうか。

何が起こっても、昨日の自分の肉体と、今日の自分の肉体の違いは認められない。

同様の肉体と同様の精神が連続していることだけが確認される。

生きて御飯が食べられれば、その次は、自己向上に関する自己選択的な鋭意の実践意外にすることはない。

多忙になった世の中で、「暇つぶし」なぞ存在しない。

多忙を受け入れれば、するべきことは「娯楽」ではなく「自己向上」の時間の創出しかない。

以上は、潜在的な期待に応える「直球」であるが、普段「変化球」ばかり投げているので、これも「変化球」と見えることに密かな歓びを禁じ得ないというのは「冗談」である。


2009-02-07 入試考察

_ 入試考察

悲喜こもごもの入試結果報告が入る中であらためて(主として中学校)受験のことを考えてしまう。

今年はいよいよ公立を避けて中堅以下の私立に進もうとする動きが本格的に強くなった。同時に1月から始まり、2月初旬だけでも10校以上も受験する子どもたちが現れ始めた。

もし子どもを筑駒や開成に進ませて、さらに東大を経て、エリート社会人にすることが正しいのだとすれば、多くの人は自分の遺伝子の交代を諦めて、東大卒エリートの精子や卵子をブレンドした子どもを手に入れてミツバチ女王蜂同様育てるべきであり、それが人類という種全体の幸福に繋がると判断するべきであろう。もちろんこれは「冗談」であり、多くの反論によってあっという間につぶされる意見であることは言うまでもない。

実は自分の能力を超えて子どもに成長して欲しいと強く願い、それを強制的に実行しようとすることは間違っている。そもそも自分の人生に否定的な感触を持つものが、その自分と同一線上で比較するところが間違っている。そんなことを望むなら、とっとと自分が自分の能力を超えて成長しようとするべきであり、でなければ、「確率」を高めるために、どんどん子どもを産み続けることが正しいといえる。子どもを育てるときほど、ある意味、親である自分の成長が感じられる時はないかもしれない。そして、子は親の背を見て育つ。もっとも子どもが自分から夢中になって勉強しているのなら話は別だが。

子どもに自分とは別の生き方をして欲しいと願うことは間違ってはいない。でもそれは良い世の中が来ることを願うこととホボ同じである。

子どもの能力を決定するのは教育環境である。

個々の子供には個々の子供なりに成長する権利があると思いたい。そして、その環境を均等に与えるのが民主主義国家による教育と信じたかった。そうではなかったと感じる親がこの入試に多く参加している。

子どもの能力を向上させようとすることは間違ってはいない。しかしその一寸先の、子どもに学歴をつけさせたいという思いは、実は間違っている。また、学歴が得られても幸福が得られるとはかぎらない。しかし能力向上の習慣がつけばその人は常に幸福である。

だからある意味で、その人なりの能力の向上と機会の拡大のため以上の学習努力は無駄と言っても良い。

サービス業は、コアになるもの以外の付随品を多く売ることによって利益を上げる。入場料以外にカネを落とさぬ客ばかりになればディズニーランドも潰れてしまう。

だが、教育でそれをやり過ぎるのはマズい。必要以上の学習を強要され、自由時間を奪われた子どもたちには少なからず「壊れる」ものが出る。

「学歴」のために金を払う親の子どもを預かって、自由時間を取り上げた上で「壊す」。どうしてこんなことが許されるのか私には分らない。でもどうして可能かは分る。

*今月初頭に『公立校で伸びる子は、ここが違う!』(青春出版社)上梓。是非読者諸兄にもお見お知り願いたい。


2009-02-10 「火」について

_ 「火」について

かつて、英語historyが「歴史」を意味することを知って、英語と日本語の最も大きな「機能」の違いを垣間みた気分になったことがあった。ドイツ語のGeschihiteはほぼ「事実」の謂いである。英語の’History’では、「お話」である。しかしこれは現実的な認識である。紙の上に書かれた記述は事実かどうかは確定できないという含みがある。日本語には「歴史的記述」がない。これは言語の性格によることが多いと思う。

「歴史」について考察することは、それが結局言語認識にかかわることだけに「哲学的」である。

「歴史」とは、「これまで」のためにあるのではなく、「これから」の判断のためにある学であることは明らかであろう。

現状未来の判断/実践の役に立たねば、それは「娯楽」と変わらない。

人間を人間足らしめることの本質要素は三つあると思う。

それは、火とコトバと「道具」である。

どれが最初かは考察しても切りがないから、三者が同時に備わった状態を「ヒト」と呼ぼう。

ものすごい天災。たとえば巨大隕石が地球に激突するような事態がなくとも地球は変わる。オーストラリアでは山火事(北部は洪水)である。

そのような事態でも決してなくならない人間の営為。

それは、食水とエネルギーと「ネット」であろう。

こればかりは「捨象」しようがない。

そしてそれを抽象化すると、「焚火」と「食料」と「情報」になる。

かつて「情報」とは、「コミュニケーション」のことであったが、現在では「アクセス」のことである。

つまり、この「情報」には「相手」がいない。相手がいない場合の判断は、究極「自己判断」である。つまり、「情報」は「ナンセンス」である。しかし「情報」が現代人の「実態」である。

この瞬間、我々は「情報」を、「現象学的還元」して、かえって深層的アウフヘーベンを加味して、まるで野に生える草のように客体化すべきである。するとそこに、自分と直接身体空気的に関係ない「情報」は一切が「迷妄」であることが知られよう。

目前に火が燃えさかる。

熱の力により、木が液化し、ガス化し、さらに熱を出して「昇華」する。

我々は、木の枝を「道具」にしてこれと関わる。

究めて偶然の自然現象を自らの手で「制御」する。

バシュラールは言ったか。

この火の中にこそ、我々は「コトバ」を得る。


2009-02-14 漢検問題

_ 漢検問題

財団法人「日本漢字能力検定協会」(大久保昇理事長)が、漢字検定事業で多額の利益を出した上、大久保理事長らが関係する企業と取引していた問題で、文部科学省は9日、京都市下京区の協会本部を立ち入り検査した。文科省などによると、関係4社には2006年度以降、広告や採点処理などの業務委託名目で約66億円が協会から支出されていたという。同省は「必要があれば是正の指導を行う」としている(プレス)。

漢字検定試験。これは日能研模試よりはるかに儲かるだろう。でも、御時世がら、官僚が「利用」できにくい。だから「公益法人」と称して民間がやる。すると、文科省が協力して結果的に大きな利益を上げる。収益は、約4000円を250万人が払って受けたとすると100億円!その他テキストも売れまくりだろうから「大成功」であろう。民間が金儲けに成功することが歓迎されることは明らかな世情であるが、これを素人考えで官僚に天下りさせないから黒字が出る。

料金が高すぎることを容認したのは明らかに文科省官僚であり、彼らが相応の「キックバック」を受けているのはノーパンシャブシャブ的に当然なのに、第三者機関ではなく、彼らが「立入検査」する。彼らにそんな資格があるわけがないのにこれを容認する政府はいったい何をやっているんだろう。まあ「政治家」だってこんなオイシい話に乗らないはずはない可能性が高いが。

センター試験では、約1万8千円で50万人=90億円集めるが、毎年見事に収支はゼロ。なぜかと言えば、余分な金は全て天下りした官僚の人件費になって償却されるからである。センターで1万8千円ならば、漢検で4千円取ってもどうということはないと思うのは当然の解釈であろうが、2000円の「誤差」は、「30億」の黒字になって現れてしまう。文科症官僚は思うだろう。「そんなの30人の給与と退職金に当てれば合法的に済むのに」。これでは「円天」首脳部と同レベルの発想である。

私はジャーナリストではないので、これ以上細かに記述する気にはなれないが、何が行われているのか「一目瞭然」なはずなのに、なぜかメディアはその「本質」を突くことはない。金儲けした「結果」を非難するのであり、金儲けした「システム」を解明しようとするのではない。ここには「公的ディズニーランド」の無能高学歴的メディアの「技」がある(大学入試問題利用可能)。

金儲けを悪いと言えば、この資本主義社会自体が成立しなくなってしまうので、政府の権力で金儲けを成立させ、そのおこぼれを官僚ファミリーが味わうことのみがいけないとはっきり書くべきであろうが、なぜかそれは書かない。広告収入が目当てならば、タダで配布するべき水準に近い。

「公益法人」が、マクドナルドやディズニーランドのマネをする。もはや腹の皮がよじれるほど可笑しいが、これが世の「実相」であるらしい。

税金を徴収した国民に「金をバラまく」という政策がどれほど卑しい発想であるか分ろうというものである。「払えなかった人」たちにのみ恩恵を施すのが社会福祉の「王道」ではないか。それを、「経済効果」とかぶせる。「無駄遣いして下さい」と言うのではあまりにも国民をバカにし過ぎる。でも、それが分って行動している政治哲学の小沢が正着を唱えるとも信用できない。だからこそ、森が動き、小泉が「爆発」する。そして「電波芸者」氏が自民党を再評価する。

私は、インチキ法人天下り財産等没収法の制定を提案する。

郵政民営化なんてどうでもいいことだ。宅配業者に任せれば済むことだ。

この事実が一般に認識された瞬間に、我々は不当な権益に甘んじて自らそれを改善できない人たちに遭遇する。

生産的ではない営業行為、実際価格を偽る販売行為。既得権益を守ることで成立する生活手段。

ここにおいて、誰が「悪徳」を自覚的に実行しているのかは明らかになろう。

最近このブログについて、「たとえ冗談と称しても、危険である」と伝える人が多いが、読者諸兄は如何お思いであろうか。「止めろ」という御意見があればいつでも止める所存である。

以上、完全とは言えないまでも「冗談」で書いた。


2009-02-17 焚火教育

_ 焚火教育

昨年、何とか受験学習とテレビゲームで情報過多の子どもたちを、凝縮された実体験で効果的にリフレッシュしたい、という一念で焚火教育を始めたが、子どもたちからのあまりに大きな反響に驚いて、ほぼ月に1回の割でこれを続けることになってしまった。そして、子どもたちへの「焚火効果」が直接的に非常に大きいことを痛感した。

「ねえ先生、今度の焚火はいつ?」

「V-netの教育よりも焚火教育の方がいい!」

「V-netに通えなくなっても焚火だけは参加させて!」

何ということであろうか。

男の子は、「学問」より「遊び」を優先させる。

焚火が精神と感受性の両方に良いことは、アタマではなくカラダで分ることなのだ。焚火は直感的に良い。それは、一度やったものには全員分ることなのだ。そしてヒトとは、火と道具を扱い、コトバを操る存在なのだ。

しかし、現代の都会の男の子たちの集団をあらためて間近で観察すると、いよいよ本当に「ヒドい」ことが見えて来る。

小学校高学年なのに周囲への配慮や気遣いはほとんど見られない。自分のことしか考えられない。しかも嘘つきで、はっきりと現場を咎められない限り、自ら過ちを認めることは絶対にしない。つまり「反省」というものがほとんどない。バレなければ良いと思っている。

そして、これが一番マズいのであるが、何ごとに関してもやりっ放し、責任感と言ったものの発達は全く見られない。食べ物の包み紙や袋は必ずそこに放置。お百姓さんから借りた器具や道具はそこへ置きっ放し。自分の食べた後を片付ける気は毛頭なし。

気がつくと私は、「用務員」になって、彼らの立った後のゴミと道具を拾い集めている。

学校教師もほとんどこの境遇であろう。何せ一部ではなくて全員がやりっ放しの無責任であるから、どうしても教師が片付ける必要性が出て来る。「教師」というより「保母」に近いのかもしれない。行動から見た精神年齢は5歳か6歳である。

このことは多くのことを教育コンサルタントに考えさせる。

自己の行動に反省感がなく、しかもやりっ放しで無責任。自己の欲望に直裁に行動するが、面倒臭さを避けるために平気で嘘をつく。まあこれから少しは修正されるのであろうが、彼らが「勉強」できるようになるのは容易いことではない。

私は、好奇心に基づく学習を奨励するものであるが、それでも試験ができるようになるには、努力、反省、誠実さ、責任感、連続性が欠かせないことは明らか。その学習の基となるものが備わらない者たちの集団がそこにある。

少子化社会。狭い家に少数で住む。お手伝いよりお片づけの習慣がない子どもの親の顔が知れる。

私は、お片づけとお手伝いの習慣がない子が良い成績を取るようになることは難しいと思うが、親の無自覚をつくづく恐ろしいと思う。

だから私は、よりいっそう子どもたちを追体験の場に引っ張り込み、そこで体験的に学ばせることが欠かせないと思ってしまう。畢竟、焚火教育を止められない。

疲れないボランティアはない。ご家庭のご理解とご協力をお願いしたい。

*次回は3月20日の予定。次次回は4月中旬で、父兄も参加する楽しい会にする予定。

*全国各地、焚火カタカムナ音読出張講演マジで承ります。

*2月23日より関西滞在。相談希望の方は事務所に連絡して下さい。


2009-02-20 秋風

_ 秋風

最近いろいろなことに飽き始めて来た。

そもそも、あらゆることに関する自分の飽きっぽさが他人をはるかに凌いでいるという自覚があるからこそ、いかにして飽きないでいるか、すなわちできるだけオモロいことを追求し、ワンパターンにならないように留意して来たつもりである。つまり、私の身の回りにあることは飽きないことばかりであるはずなのである。

しかし、世の中飽きずにやり続けられることは意外と限られる。だから我々は今やっていることにいつしか必ず飽きる。我々は情報に飽き、仕事に飽き、友達に飽き、恋人に飽き、女房に飽き(飽きられ)、勉強に飽き、趣味に飽き、遊びに飽き、しまいには自分にまで飽きそうになる。あきれられるべきことである。

一年で一番快適で過ごし易いのは何と言っても秋であろう。実は清少納言もそう思っていたに違いない。しかし、それを「アキ」という。autumnやfallの深い感じはなく、まるで「終わり」とでも言っているようである。春は惜しむが、秋は終わっちゃうのである。

その飽きが来た。

問題は、情熱を失ったのではなく、これまで対象して来たはずの多くの事柄に好奇心が持てなくなることである。しかもその中には意外と長く続けて来たものがまま含まれる。すると退屈が生まれる。

しかも、これが忙しくてヒマのない生活の中で起こるのである。

これは我が人生上、女房以外にもっとも恐れるものなので、即座に退治しなければならない。そして、人類発案したもっとも崇高なヒマつぶし、つまり、「哲学」を始めるのである。こういうときは、自分が相手であるから最初は「直球」にする。

Dー最近いろいろなことに飽きるのはなぜか?

*記号Dについては、この度文庫本化が決まった『中学入試国語記述のコツのコツ』を参照して下さい。

このダイアローグの答えは、いかにも無責任で、ここには書きたくないことであった。

―それは世の中がオモロくないから。

そうかもしれない。G7記者会見で中川が記者団やカメラに向かってゲロをぶちまけるなんてことが起こればそれはオモロいが、そんなことは決して起こらない。

いやそれは冗談だ。メディアや新聞が面白くないことが原因の可能性はある。

もう一度、今度は関西弁でやってみよう。

D−最近いろんなことをオモロないと感じるのはなんでやろか?

この答えもヒドかった。

―歳とったんとちゃう

本当は東北弁でもやってみたいが、これはできないので、インチキ長崎弁でやってみようとする。

D―最近いろなことをオモロない思うんはドナイシテバッテバイ?

―そいが普通タイ。いい年して遊びたがるのはアホのすることタイ。

標準語しか知らない我が身が恨めしい。英語でやってみよう。

D―Why do I get bored with many things these days?

―Because you’re stupid.

長崎弁と同じ答えである。

ダイアローグにも飽きて来た。

私はやはり、政治や社会のトップ層がバカすぎることがメディアを通じて確認され続けていることが大きいと思われてならない。

*28日西荻ホビット村(電話03−3332―1187)で『超音読法―カタカムナ音読会』


2009-02-27 ゲーム少年

_ ここ数年、何人かのゲーム少年の指導をした。

彼らを診た結論を言うと、親は絶対にゲームを買い与えるべきではなく、特にネトゲをやるのを見たなら、即座にコンピューターを使えない状態にすることが正しいことになる。本人たちも、「このまま続ければ、『廃人』になるからもうやらない」と言う。

メディアは書かないが、ゲームのやり過ぎ乃至はオンラインゲームの長時間接続は確実に子どもを壊す。ゲームをやり過ぎた少年たちは必ず後悔する。そして、受験で遊び時間を奪われた子どもたちと同様、いささかわがままなことに、それを容認した親を憎むことすらある。しかし、それは、「遊び」への後悔ではない。「ゲーム」に対しての後悔である。

ゲームのやり過ぎによるドーパミンコントロールが不全になることによるもっとも大きな弊害は、英単語や漢字や社会知識などを記憶できない状態に陥ることである。同時に彼らは自己脳内の「鮮明な画像」と「連鎖する力」を失うのである。なぜならそれをゲーム画面が供給するからであろう。明らかにゲームは海馬を「機能不全」にする。彼らは言う。「急にゲームに夢中になっていたことがフラッシュバックし、何も考えられない状態になる」。

本年度、文科省は脳についての解説を多用した。しかし、ゲームの危険性については一切指摘しなかった。テレビが子どものリテラシーを奪い、ゲームが子どもの記憶力を奪うことは明らかなのに、これをあえて規制しないで来た。しかもすでに京都医療少年院医師の岡田尊司さんがこれを明らかにしているにも関わらずである。まあ子どもを壊す進学塾詰め込み教育も容認するのであるから、もとより彼らの「無自覚」は中教審委員同様であるが。

充分な学力がないのに進学塾に通わさせると、半数以上の子どもが「情報過多」で壊れる。もし進学塾の厳しい詰め込み教育に耐えたとしても、多くの場合、自ら発想することのできない、他者境遇を想像できない、学歴だけの「エリート」ができる。そして、誰が示唆したかは知れないが、彼らが社会的に「害」をもたらす存在であることは、中高一貫公立校をつくり続けようとすることからも明らかであろう。

これが明らかなことなのに、メディアは決してこれを書かない。これは憶測するに、メディアを司る者たちの多くも、実は高収入を願って闇雲に学歴を求めた人たちの「集団」あるからだと思われるのは「冗談」であろうか。「左脳訓練偏重」で、「右脳発達が未然」なものには未来を語る資格がないというがおろか、現状の分析報告が不能な存在であろう。

数年前、朝日記者の質のあまりに低さに耐え切れなくなって、日経購読に移した。しかし、日経記者の能力のなさも目を覆わんばかりである。彼らを統括する首脳部も「しがらみ」にまみれた高学歴無能者であると思われてならない。高級官僚と同じである。読者の多くが「バカ」と判断する記事を流し続けていれば、やがて自民党と同じく「権力」を失うことは「自明」であろう。もちろん、テレビはすでに飽きられても、マックとディズニーランドは客を集めている。そして、「任天堂」も。

「東京新聞か産經新聞に変えよう」と提案すると、家人は「日経のままで良い」と言う。この件については、日経が好きなものは、普段エロがない禁欲的な生活をしているのに、少しはエロ小説をさりげなく読みたいと思う、中学生レベルの人たちなのではないかと疑われてしまうほどだ。日経朝刊の女流エロ小説は、編集者の意を受けて無理に書いている感じがしてオモロくないことこの上ない。彼らが「見下す」スポーツ紙やフライデー紙との境目は、いったい何なのであろうか。女性作家のほとんどが、萩野アンナ慶大教授同様、「冗談」というものを「了解」しないのは、本当にお気の毒なことであるが、またそれ以上に、その担当の編集者たちが「インチキインテリ」であることを自覚できないことはもはや文春新潮的に「絶望的」である。またそれを受け入れる読者も「バカ」としか言いようがない。とてもではないが金を払って読む小説ではない。「文学」からはほど遠い。ディズニーランドと同レベルの状態である。大衆を完全にバカにすることと、それでも自分のメッセージを伝えようとすることは、芸術活動においては異なる。芸術までをもバカにする大人がバカを自覚できない中で、子どもたちの不満が喩えようもないほど鬱積するのは当然のことであろう。

経済を自然環境破壊に優先することはすでに充分に見て来たが、一国の未来を担う子どもたちを壊して平気でいることを公に伝えるものがいないのは、「末期的」である。メディアが「バカ」であれば(「バカ」である自覚がなければ)、するべきことは「無視」しかなくなるはずだ。私は以後一切、大新聞記者を「ジャーナリスト」とは呼ばないことにする。「『芸者』になれなかった、『一種のサラリーマン』と捉えることにする。文科省官僚、学校教師同様、「組織を逸脱してからものを語れ」と言いたい。

私は断言したい。

子どもを進学塾に通わせて、同時にゲーム熱中を容認する親は、ほぼ「キチガイ」であると。

彼らは「情報」というものの客観的認識に著しく劣る、すぐに焚火をすべき存在であると。

彼らは「アタマが良くなる」ということよりも「成績や学歴が良くなること」を優先するのだ。

私はこれを「キチガイ沙汰」ととらえて止まないが、周りがやる通りに自分もやる世間はだいたいそんなところなので、チャリンコiPod少女同様、これを「許す」ことにする。

_ *焚火は3月22日に変更


2009-02-28 「上品」な「冗談」

_ 「上品」な「冗談」

京都に行って来た。

その理由は、私の書いた美術評論を読んで、「この人に会いたい」と言った「貴人」がいたからである。

私は、「貴人」に差し支えがあるので、ここに詳しい内容は書けないし、また大したこともなかったと申し上げたい。

で、バルザック的好奇心に満ち満ちた私がそこに見たものは、「上品」ということについてであった。

世の中には、「上品にやろう」としなくても、「上品」な人たちがいる。

この「上品さ」は、「型式」ではなく、身に付いた「習慣」であり、文句なしに「美しい!」と感じさせるものである。

私は上品さの大切さを思い、かなりのレベルの生花茶人の母に育てられた家人にそれを伝えた。すると彼女は、「そうよ、もっと心がけて下さい」と言う。

朝、例によって、うなり入浴瞑想を行っていると、洗濯物を干し終わった家人が、脱衣場の扉を開け、

「なにこれ」と叫ぶ。

「これ」とは、入浴前に床に脱ぎ捨てた私の下着のことで、

「もっと上品にやってもらいたいものだわ」

とも言う。

上品も大変である。

なにせ、風呂の中でも上品にすることを要求されるのである。

私は実は、ウォシュレットの少ない京都で、久しぶりで痛んだ肛門の静脈瘤を指でほぐしている最中だったのである。

風呂から上がると、尋ねた。

「貴女は、お風呂の中で御ならをされたことがありますか?」

「あるわよ」

「以後お風呂の中でも下品なことをするのを止めるようにして下さらないか」

ここに伏兵がいた。

すかさずバカ息子が口を挟んだのである。

「お父さんはそういうことを口に出すことこそが下品である自覚がないんじゃん」

「上品な冗談」!

このブログではそんなことは顧慮して来なかった。

したがって、このブログの読者は、「下品」を容認する寛容な読者であったことになる。

父兄の方から、マークトウェイン自伝を読んだ息子さんが、

「松永先生は、『ふざけたりオモロがったりすることが、決して不真面目なことではない』といっているのだ。」と言ったのを知って、「やっぱり冗談が分るのは男だけだ」と、自分を慰める今日この頃である。