ブイネット教育相談事務所


2009-02-10 「火」について

_ 「火」について

かつて、英語historyが「歴史」を意味することを知って、英語と日本語の最も大きな「機能」の違いを垣間みた気分になったことがあった。ドイツ語のGeschihiteはほぼ「事実」の謂いである。英語の’History’では、「お話」である。しかしこれは現実的な認識である。紙の上に書かれた記述は事実かどうかは確定できないという含みがある。日本語には「歴史的記述」がない。これは言語の性格によることが多いと思う。

「歴史」について考察することは、それが結局言語認識にかかわることだけに「哲学的」である。

「歴史」とは、「これまで」のためにあるのではなく、「これから」の判断のためにある学であることは明らかであろう。

現状未来の判断/実践の役に立たねば、それは「娯楽」と変わらない。

人間を人間足らしめることの本質要素は三つあると思う。

それは、火とコトバと「道具」である。

どれが最初かは考察しても切りがないから、三者が同時に備わった状態を「ヒト」と呼ぼう。

ものすごい天災。たとえば巨大隕石が地球に激突するような事態がなくとも地球は変わる。オーストラリアでは山火事(北部は洪水)である。

そのような事態でも決してなくならない人間の営為。

それは、食水とエネルギーと「ネット」であろう。

こればかりは「捨象」しようがない。

そしてそれを抽象化すると、「焚火」と「食料」と「情報」になる。

かつて「情報」とは、「コミュニケーション」のことであったが、現在では「アクセス」のことである。

つまり、この「情報」には「相手」がいない。相手がいない場合の判断は、究極「自己判断」である。つまり、「情報」は「ナンセンス」である。しかし「情報」が現代人の「実態」である。

この瞬間、我々は「情報」を、「現象学的還元」して、かえって深層的アウフヘーベンを加味して、まるで野に生える草のように客体化すべきである。するとそこに、自分と直接身体空気的に関係ない「情報」は一切が「迷妄」であることが知られよう。

目前に火が燃えさかる。

熱の力により、木が液化し、ガス化し、さらに熱を出して「昇華」する。

我々は、木の枝を「道具」にしてこれと関わる。

究めて偶然の自然現象を自らの手で「制御」する。

バシュラールは言ったか。

この火の中にこそ、我々は「コトバ」を得る。