2009-03-03 ウズラ考察1
_ ウズラ考察1
愛知でウズラのインフルエンザが問題になっている。
うちのウズラは大丈夫であろうが、この際ウズラについて総括してみる。
最初、ウズラの雌を6羽購入して、一階が池面と砂場、二階が巣、三階が植物園兼運動場、池にはドジョウがいる鳥小屋に放した。
ウズラは初め一階にだけいたが、やがて梯子を使って上層階に行くことを覚えた。
ウズラは、ニワトリと同じキジ科で、ちったあ飛べるが空中に浮かび続けるような飛翔はできない。またほとんど大声では鳴かない。
先ず1羽が池の隙間に落ちて水死。次に、餌を換える時に一羽外に出て、そのまま約3m飛翔して、臨家の敷地に姿をくらませた。鈍いので簡単に猫の餌になったと思う。
メスが4羽になったところで、若いオスを買って来て入れた。
これがヒドい。鳥に期待しても始まらないが、「節操」というものがまるでない。目に入るメスと片っ端から交ろうとするのである。
やり方は、メスの背後から後頭部の毛を嘴で挟み、動きを封じてこれに乗るのである。この結果メスは、飼い主同様、皆後頭部ハゲになった。
ところがやがて重層階へのジャンプを利用して、オスから完全に逃げ切るメス、つまりオスに何としてもやらせないメスが複数出た。
オスはまた極めていいかげんなことに、目に入ったメスを片端から襲うのであり、視界から消えると次に目に入った他のメスと交ろうとする。まあそんなものと言っちゃあそれまでであるが、同じオスとして哀しいことこの上ない。
しかも彼は、メスがどうしても近寄らなければならない一階餌場の近くで常に張り込みをしている。そして空腹に耐えられなくなったメスが餌場に下りると、これを襲う。食事中を狙うこともある。しかしほとんどのメスは、「徹底抗戦」、何としてもオスにやらせない。しかし、メスの中に、安定して餌が喰えれば、後からオスが乗って来てもかまわないというメスが出る。こうして「つがい」が生まれる。これはよく考えるとメスがオスを選んでいるとも言える。
ある日、餌のために戸を開けた時に、このオスが脱出した。オスは、ホウと思うほど高く飛翔していつもの隣家に落ちて行った。
オスがいなくなった。
するとメスはどうなるか。寂しがるか。退屈するか。それともレズビアンにでもなるか。
しかし実際は、「パクス/フェミニーナ(女の平和)」。オスに襲われる危険性がないので、メスは実にゆったりと生活し、そして卵をどんどん産む。
そして最後に、「元妻」をやっていたメスが逃げた。
これはどうやって逃げたのか分らない。謎である。逃げたというより小屋の中にいなくなっていた。
この現象について、娘は、「お父さんはウズラを飼っているつもりだけれども、彼らからすれば閉じ込めているってことになるわけよ」とほざいた。
2009-03-05 世紀末的学校崩壊
_ 世紀末的学級崩壊
以前にも書いたが、公立中の表面に現れない「学校崩壊」が新たな局面を見せて拡大している。杉並区のある中学校では、入試が終わっても学校に来るものが減り、来たとしても遅刻するものが多くなってしまっている。
授業には3学期以降ならない。お茶濁しの合唱大会や球技大会をやろうにも肝心の生徒が出て来ないのであるから如何ともしがたい。歯向かう生徒が多くて授業にならないのではない。そんなのは2学期までのことであった。3学期は生徒が出て来なさすぎるのである。
これは、無能な教師が生徒を管理するために内申点縛りをやり過ぎた反動である。彼らはもう教師の顔を見たくないのである。そして能力を完全に見透かされて「内申」の印籠をも失った教師たちは、アタマとコトバで少年たちに勝てない。
そもそも心の底からその人間性と指導能力を軽蔑し切っている少年たちにとって、内申点怖さのためにそれなりに言うことも聞いて、それなりに提出物も出したりした自分がやるせないことが大きいらしい。教師たちは懲りずに繰り返す。
「推薦を取り消しますよ」
「卒業させません」
アタマが悪過ぎると思うが、これしか思いつかないのである。
高校受験成功者たちは真二つに別れる。表面上あくまで隷従し、内申点をとり切ってあわよくば推薦も勝ち取ることもある優秀女子と少数の男子。こういうのは、公務員や真面目なサラリーマン家庭の子どもに多い。学校内申を全く捨てて、教師の言うことには全く耳を貸さないが三科学習に力を入れて進学塾通いに徹したもの。どうして塾の教師の言うことなら聞くのかは学校教師には謎である。いや、彼らは、そういうことを空想したり想定したりする能力に劣るからこそ子どもに舐められるのである。
これらの中間で、教師に逆らうが、進学塾には通わなかった連中がヒドい目にあった。これらは資金の不足層や、高収入ではない共稼ぎ世帯、あるいは片親といった余裕のない家庭を部分に大きく含む。彼らはサピやワセアカや東進に通えない。そんなカネも気力もない。だから、彼らが頼るべきは学校教師だけだったということになる。しかし、彼らはしょっぱなから裏切られた。彼らが劣るのは小学校での学習未熟部分なのであるが、最初からそれらがないことは相手にされないことを意味していた。ご存知小学校でも、ほぼ授業になっていないところも少なくないから、小学校六年間の過程が滞りなく学習されている子は、当然余裕があって塾か、しっかりとして時間もある家庭教育でこれを補っている。6年間で一度も疑わしい教師に当たらないなぞとは、今の世「幸運」としか言いようがないのが実情であろう。
まあ「不真面目」の結果なのであるから致し方がないとも思われようが、ではどうして不真面目になってしまったかに目を向ける人は意外と少ない。
「まともな教師は十人中一人しかいない」というのは10年前と変わらない声である。
この学校の悲劇は、たまたま3年担任にヒドい教師が集まってしまったことだった。
受験で散々な目にあった友達の不幸を嘆く15歳少年は叫ぶ。
―いったい誰がこんな人たちを教師に採用したんだ!
基礎学力を補充した上で高校受験に役立つような指導ができない。教師だけが悪いのではないだろうが、すでに崩壊した「システム」の中で、それを客観化することすらできない学校関係者は罪の意識を感じないのであろうか。
私は即刻、三科については、大学院生を時給2000円で雇って授業をやらせるべきだと思う。
2009-03-06 ノーサイド
_ ノーサイド
以前から「正体不明」の外見からか、なぜか大学教師に間違えられることが非常に多い。私は普段、ほとんどの大学教師を、ジャーナリスト同様、ややバカにしているので、これは実は不本意なことなのであるが。
最近やや足が遠のいているが、例によって西荻焼き鳥屋のカウンター。隣席右側の体格の良い私と同年輩の見知らぬ中年男が話しかけて来る。
―大学の先生とお見受け致します。自分は元東海大学ラグビー部のキャプテンを務め、その後も後輩の指導に当たっているものであります。
いきなり何かと思うが、左隣の知人と話していた話題を耳にして、どうしても話しかけたくなったらしい。
「複合的変化球」。
―おう、ノーサイドのラグビーね。私ももしもう一度男に生まれたら是非ラグビーをやりたいねえ。それにしても敵と味方の間の線が完全になくなるノーサイドって言うのはいい言葉だねえ。ところで私は、大学の教師ではないよ。
―自分は大学の職員です。あなたは大学の先生にしか見えないですよ。オッホン。ところで今のお言葉ですが、でしたら先ず覚えておいていただきたいことがあります。第一に、ラグビーは「痛い!」と言ってはならないスポーツだと言うことです。痛いことは忘れてするスポーツであるということです。
―そりゃそうでしょう。秩父宮ではゴツンという音が聞こえますもの。
―それでその秩父宮ラグビー場です。惜しくも力及ばずノーサイドの笛が鳴った後、選手はどうすると思います?
―どうするって、泥んこだから先ずシャワーでしょう。
―さすがです!秩父宮には風呂があるのです。でも湯船は一つしかない。そして、勝った方のチームが湯船につかります。やつらがはしゃぐのを横目に、負けた私らは、「バッキャロー、次は絶対に勝ってやるからな」と思いながら、顔をコシコシ、躯をさっと洗うと、できるだけ早く風呂場から出るのです。
―なるほどねー、ノーサイドなんて言葉だけだって言うわけですか?
―その通りです。そんなのは勝った側の言葉です。負けた側は悔しくて悔しくて脳細胞が煮えくり返っているのです。ラグビーは勝った負けたしかなく、しかも痛いというのはなしの男だけのスポーツです。
この人は私のことを知らないらしく、「どうかお名前を」と言うので、たまたま持っていた『公立校で伸びる子どもはここが違う!』をくれてやった。
また過日。同じ店の別のカウンターで、私より5〜6歳年配の恰幅の良い顔見知りの男が、この日は機嫌が悪いらしく、「人の話をまともに聴けない」と、その向こうに座るバンソコメガネ男に珍しくカラんでいる。「私は理路整然とシャコのツメについて語りたかっただけのに」とか言っている。そしてこちらを振り向くと、「ねえ先生、この人には人の話を聞く力がないのです。すぐに下らない茶々を入れて人の話の腰を折るんですよ。」
―それは私も得意技だ。何か嫌なことでもあったんですか?
―あったんです。先生はオチンチン力の先生ですよね。オチンチン力の先生のオチンチンはどうなっているのですか?
真面目な席でも平気で冗談を言うのだから、こんな時私は98%まともに返さない。「変化球」しか投げない。信じて欲しい。「冗談」ではない。相手は宝焼酎である。
―オチンチンですか。私はもう枯れました。とっくに終了です。
表情を変えずに前を向いたまま、ブッキラボーに吐き捨てるようにそう答えると、男は、いきなり両手で私の右手を、まるで恋人に愛を告白するかのように力強く握りしめて、しかも鼻の穴を息荒く丸く、鼻毛が数えられるほど大きくおっぴろげて、私を見つめて胸の底から絞り出すように言うのである。目には悲哀と歓喜の入り混じったような涙が浮かんでいた。
―そうなんですかー。私もなんですよー。そうですか、そうですか、先生もそうなんですかー。
高校時代に友人と吉祥寺のハモニカ横町で飲んでいたら、隣のオヤジが軍歌を歌うので、一緒になって同期の桜を歌っていると、突然、「キミたちはいつか?」と尋ねるので、気の利いた友人が、「最後です!」と答えると、「おお、そうか!」と言って、涙して抱きつかれて飲み代がタダになったことがあったが、それを思い出した。
*明日より一週間、このブログをお休みさせていただく。
2009-03-13 海と波と空と雲と
_ 海と波と空と雲と
昨朝インドネシアより帰国した。
なぜかどうしても一人旅は許されないらしいので、一計を案じた。
進学が決まった娘を旅に誘ったのである。
これはあっさりと許された。
昨秋、それまで熱心に受験勉強に励んでいた娘が突然宣言した。
「どう考えても私には日本の大学で学びたいものがない。私が興味あるのは舞台芸術のマネージメントしかないから、それが学べる短大に進んで渡米するからよろしくね。私は御飯が食べられる芸術を目指す。」
この言葉にあきれかえったパートナー(最近「天敵」改め)に私は言った。
「キミは、ピアノ教師をし、マリンバを習い、合唱に参加し、場合によっては指揮者も務め、文学を愛し、暇さえあれば子どもを美術館に連れて行った。キミのような生活をするものこそを『芸術家』と呼ぶのではないだろうか。僕にはそのヒマはないが、若い頃から小説を書き、文学芸術を愛して止まないのはご存知の通りだ。幼時より、ピアノ、フルート、仕舞、茶道を学び、美術にも優れ、文章も良く書き、高校3年間ミュージカルの監督を務めた彼女が芸術を選択するのは半ば『自業自得』と言えるのではないか。」
教育コンサルタントの娘が、早稲田にも慶應にも魅力を感じないという。読者にはご理解願いたいが、私はこのことをここに書くべきかずいぶん迷ったのである。
今回の旅行に関しては、彼女が全ての手続きを行った。旅行会社との電話でのやり取りをみていると、「なるほど、この子はマネージメントに優れるわい」と感ぜざるを得なかった。何から何まで娘に任せて海岸で寝ていると、その間一人で街を歩き回る彼女が次々と予定を入れてくる。おかげで、ケチャ、レゴンダンス、バロンダンスなどを充分に堪能できた。おまけに生まれて初めてエステにも連れて行かれたが、私は異常にくすぐったがり屋なので何が良いのか全く分らなかった。
浜辺では多くの現地人と知り合いになった。作家肌の私は、どこへ行っても情報収集してしまう。そしてホテルで働くもの、外で働くものの考えていることをつぶさに知った。とは言うものの、私は彼らから何も買うことがなかった。ビールぐらい買うが、銀細工、タトゥー、サーフボード、マッサージ、果ては、麻薬から女の斡旋まで声をかけて来るが、浜風と波の音以外に私が欲しいものは何もない。しかし、声をかけて来たものとは皆知り合いになってしまう。
青い海と波、空を行く白い雲を眺めていると、次々と新たな構想が湧いてくる。自分には書くべきことが果てしなくあることが感じられて気持ちがよい。
浜辺で30年間銀細工を売り続けるという男に尋ねた。
「ホテルの中で働くのと、こうして浜で物売りをするのとどちらが良いと思うか?」
「毎日人に言われるままに働くのは辛い。そして、たとえ貧しくても、ここにはマイフレンドがいる。私はこの生活を愛している。」
ここには組織社会を選ばなかった私の思想の原型がある。彼らにとっても家族を養うのは大変とのことであるが、敢えてスローライフを選んだ(選ばざるを得なかった)彼らに、不思議な共感を覚えた。そして、多くのインドネシア人が、私のことを非常に変わった日本人だと捉えたようだ。
最終日に、私の衣服やサンダルと帽子を与え、残ったウイスキーで乾杯した。
夕日の中でシルエットになった人々は皆高貴に見えた。
韓国紀行同様、このまま紀行文の連載をしようかと思ったが、以前にも批判を受けたのでここらで筆を置く。明日からまたびっしりと教育相談の仕事と執筆に戻る。
2009-03-14 東大合格者数報道
_ 東大合格者数報道
3月13日付の夕刊フジで、東大合格者数につき、「名門凋落」が一面に掲載された。
この記事は、「大学通信」の「ゼネラルマネージャー」の安田賢治氏の言説を記事化したと思われるが、大きな齟齬があり、そのことをここに批判したい。
先ず、前後期の合格者総数ではないのに、前期発表のみで、開成(−56)、灘(−13)、麻布(−2)を「名門凋落」と報じた点である。後期で約百名の合格枠があるのと、毎年十名以上の合格者数の上下変化があるので、麻布や灘と開成を同列に比較するのはナンセンスである。するべきは、開成合格者数の国立大医学部の集計値を掲げることであるが、それはここにはない(東大理科一類が国立大医学部より偏差値的に下回るのは常識)。また、記事末尾にもあるが、各県公立高校の健闘が目立つのに、「ゆとり教育の弊害」と前面に掲げるのは完全に矛盾。たとえ「ゆとり教育」下でも、開成高校に合格するレベルの受験者は、資金的に有利で、進学塾を充分に活用して、「ゆとり教育」とは一線を画していることへの言及もない。上級高受験組には「ゆとり教育」には関係がないことへの考察が全くない。また、開成高校入学者の東大合格者数への分析もない。ここには純粋私立一貫校の美化が意図的に盛られているとしか言いようがない。安田氏は、「東大を見るかぎり、不況の影響は全くない」と述べたと書かれているが、そんなことは「上級層」にとって当然のことである。
私はこのような言説を、大衆の「味方」であるはずの、夕刊フジが真に受けて掲げてしまったことを誠に残念に思う。
実態は最上級高の生徒たちが、東大学歴に疑問符を掲げつつある点であるのだ。
東大入試が易化しているのは受験界の常識である。易しい試験でオモロないから、より優れた学生が医学部に流れる。このことに全く触れない夕刊フジ記者の安直さは嘆かわしいかぎりである。繰り返すが、塾や家庭教師を活用する「上級富裕層」にとっては「ゆとり」は何の関係もない。ここで語るべきは、生涯高賃金の確保を目指す層が、東大をすでに見切りつつある点であろう。
私は、大新聞同様、夕刊紙までもが、安直な情報による報道で、ただ単に読者を惹き付けるために「東スポ」化することを危惧する。見出しとして掲げるべきは、「開成激減―上級高の東大受験に異変」だった。
時代は、東大合格者数ではなく、TKTH(東大京大東工大一橋大合格者数を卒業生総数で割った数値)であることを評価基準にするべきなのに、この単純なジャーナリズム魂こそ自己批判するべきではないのか。これでは小沢や漢字検定とグルの文科省を批判する資格が全くない。
読者は必要以上のセンセーショナリズムにそっぽを向きつつあるのだ。こういったことを繰り返すことにより、マスメディアは、日本株式同様、確実に下降線をたどることに自覚的でない。
かつて警察は、必要以上の交通取り締まりによって、庶民の信用を失墜した。庶民の意見を代弁するはずの夕刊大衆紙までもがこれでは、テレビ同様、やればやるほど読者を失うことに繋がることに自覚的でない。
ゆとり教育に問題があったのは事実であるが、学校教師の指導力の絶対的な下落に苦しむ子どもたちの現状について踏み込んで書くことこそがメディアの役目ではないのか。
以上当然のごとく「冗談」で書いた。
2009-03-18 「地方公立高躍進 首都圏私立男子校の低迷」
_ 「地方公立高躍進 首都圏私立男子校の低迷」
私が間近で観察することがもっとも多い職業人は、当然のごとく教師と編集者である。教師にもっとも必要な能力は、コミュニケーションの力(「人間性」と言っても良い)と人間観察力の伴った知性である。編集者(と言っても一般向け書籍の)にもっとも必要な能力は、情報収集能力とそれを伝達する文章の伝わり方の段階的把捉力ということになるだろう。
前回夕刊フジの記事批判をしたが、この基になる情報は編集者からのファックスによるものだった。この人物は何のコメントをもつけずに、ファックスのみを送って来る。それで前回ブログを書いた。すると今度は、AERAの3月23日号のコピーをファックスで送って来た。
「開成凋落 日比谷の落胆」とある。
要約すると、首都圏の名門男子私立校の多くが東大合格者数を減じ、都立高も伸び悩み、かわって地方の共学公立校、特に愛知と大分と北海道などで合格者数が大きく伸びているということになる。東大の「グローバル化」である。
教育コンサルタントからすると、これは首都圏の塾の教育が弱くなっていることを意味する。なぜかと言うと、実は首都圏では、所属する学校が学力をつけるのではなく、利用する進学機関がそれを行っているのが実態であるからである。また愛知は、一言で済ませば河合塾の地元のお里柄ということができる。愛知には物事をきちっと完遂することへ価値共有性がある。大分については、失礼ながら、雪国同様、これまで本格的な発展の遅かった地域の咆哮と捉えることができよう。もちろん日教組組織率は関係ない。
私は問題を見ていないが、生徒たちの声では英語が易しくなったとのことだ。英語で差がつかなくなるとすると、勝負はどこで決まるのだろう?数学か、国語か、文系だと社会か。数学は和田式パターン暗記学習では通じない奇問を出せば、実は全体的には差がつかない。すると勝負は、国語と社会でついたことになる。つまり、今年の東大受験に失敗したものは、自分で考えて答える記述問題に弱かった者たちということができるかもしれない。ひょっとして理科も同様か。塾に通い過ぎると自ら文章力を磨くヒマがないのかもしれない。
よほど苦しいらしい。東大は本格的に地方優秀者を集めて未来官僚をつくる方向に変換したかに見える。このことは何を意味するか。早慶にとられる学生もいる。そしてこの先東大はどういう戦術を持つべきか。
私にはどうしたら良いか分るが、文科省が菓子折り持って笑顔で近づいて来なければ教えないことにする。
以上全て「冗談」で係の者が「代筆」した。
どうも知らず知らずのうちに編集者に書くことをコントロールされているようで薄気味悪い。
2009-03-20 トッカーッタ!
_ トッカーッタ!
読者の皆様初めまして。
実は私が、松永暢史先生から、「冗談」で、「Joker」のペンネームをいただきまして、ここに記述を許されている(命じられている)当ブログ執筆代行担当責任者のタニであります。
もとより、センセイ最近メッチャお忙しいので、代って係の私が執筆したものを転送掲載するようになったことを、「変化球」とゴマカしまして「正直」にやっていたことは、読者も薄々お気づきになっていたかもしれないと存じますが、これは、私が考えたことではなく、松永先生が「冗談」でおっしゃられるのですが、誰が書いているのか確定できないブログ記述で、冗談で書いたものをタイホするのは、死刑同様、明らかに立て前上民主主義的権力的「冗談」が過ぎる自己矛盾だと認識しております。憲法の言論の自由の原則に反しないのでしょうか。
センセイは、「冗談文学」執筆歴四半世紀。私から拝察しますと、いくら「冗談」で書いても世間のお認めを全く得られない大変不遇なお方です。
センセイは、教育について、デユーティーフリーメイソン一万円札の福沢諭吉センセイの足下にも及ばないことは、当然ビジネスでも東京ディズニーランドにはとてもかなわないのごとく、良くご自覚遊ばされて、「バットを置き忘れるのは、情事未だということだ」と常時口にせられています。
以下「代筆」します。
*
_ 私は最近、「儒教教育」を行っている。これは、『論語』を音読解説して意見を訊くというものだが、『学而』冒頭を音読して、
「先生について学び、その復習をするのは気持ちが良い。
遠方から尋ねて来る友人がある。嬉しいことこの上ない。
人が分ってくれなくても何とも思わない。自分はさらなる向上を目指す至らぬものだと謙虚に自覚しているのであるから。」
と解説し、
「これは僕たちが住んでいる東アジア地域全体に2000年以上も影響を与え続けている伝統的宗教観で、イスラム圏に住むイスラム教徒が、キリスト教圏で生活するキリスト教徒が、たまたまその地域や文化のもとに生まれたから自分たちがそのような考え方を基本にしていることを自覚できないのと同様、それを我々の多くも客観化できないことも多いと思われる。キミは今読んだ事柄をどう思うか。」
生徒たちの多くは、否定できないことだと捉え、自分にはなかなかできないことだともいう。
そして初めて「儒教」というものを知る。このことが分らなければ、日本語で書かれた本を楽に読めるようにはならないと私は思う。歴史のこともチンプンカンプンに違いない。そして実は、儒教的教育に反対して一番ヒドい目を見ているのが学校の教師たちなのである。
しかし、その儒教教育を実際行うには、社会の上層部がある程度の品性(=仁)を身につけていることが前提であるのは、言うまでもないことだろう。そして、そんなことが期待できない世の中であることももはや明らかなことだろう。だから、教えるべきはその思想の内容に他ならない。中国共産党ですら、文化革命の後、「儒教には良い部分があり、その部分を伝えて行くべきだ」と、見解を変換した。
私は全ての宗教は、思い上がらずに周囲の者のために役立つ人材を目指せ、と言うところにその共通点があると思う。そして、「冗談」はその象徴的役割だと信じることにする。
以上もちろん、当然のごとく、「冗談」の「代筆」で書いた。
2009-03-22 代作
_ 代作
前回代筆担当のタニが、春の花粉のせいか調子に乗り、先生のマネをし過ぎて、「伝わらない」として封印し続けて来た「冗談文学」を、至らぬ筆力で読者にかいま見させたことにより、先生の抱腹絶倒大逆鱗を食らい、即座に地方支部に更迭されましたので、代って今回からこのブログを担当することになった私ことイケダでございます。イケダの代作なんちゃって。以降どうぞよろしくお願いします。
大学で哲学を始めてすぐ気がついた。
それは哲学する時に用いる言語が究極真理を考察することに相応しくない不完全なものだということだった。
ヴィトゲンシュタインよろしく、哲学することはナンセンスなことなのである。
このことは禅の研究でも確認された。
そして、ラッセルの集合論や、ゲーデルの不完全性の証明を知った。
言語が不完全なものであることが分った時、我々はその言語をどう扱えば良いのか。
ヴィトゲンシュタインは、「沈黙」という。
一瞬目の前が真っ暗になったが、幸いなことにすぐ頭の中に灯が点った。
普通不完全なものと我々はまともに向き合わない。不完全なものとつき合う時我々は戯れの心で接する。だから言語でふざけることが正着なのだ。そうして言語の可能性を広げて行くことがこれからの哲学するものが第一に心がけるべきことなのだ、と。
ここで私は哲学と文学の境目を乗り越えようとしていた。
しかし、私がなかなか面白く書けたと思うものを友人に見せると、たいていしかめっ面して不愉快な顔になるのである。中には怒り出すものまでいて、私は密かに書かれたものの効果の手応えを感じたりしていた。不完全性への不可解と言うべきことだろうか。
言語は、火と同様、我々が扱う「道具」である。
火事で焼け死ぬのが不本意と同様、言語に支配され、それを自覚しないでいることは、誠に不本意なことであるはずである。
「知性」を表明するためには、同時にそこに「戯性」が含まれなければ不可能であることは集合論的「必然」である。儒教思想はこれを越えられない。やや論理性に欠ける。
私はまじめだからまじめなんですということは意味がないのだ。
私は冗談が分るから善人なんですという方が正しいと私は思う。
以上、「代作」した。
2009-03-25 凍蒟蒻
_ 凍蒟蒻
前回このブログで、センセイに、勘のいい女性以外はコメントをつけさせなかった「手腕」を認められ、ここに続けて「代作」する、いけずのイケでござりんす。次回衆院選にもこの名前のそのまんまで出馬するつもりなので、是非ともミスターチルドレン、広くお見お知りいただきたいと存知ます。実は、水の中のルアーフィッシングではなく、空中でのフライフィッシングで水中の魚を釣り上げるのを楽しみにする我が輩は、犬の鳴声の達人でもある「ネコ」である。遠くやり合う犬の間で、私が吠えれば犬は鳴くのを止めてしまう。ブログで「実演」できないのが誠に残念であるが、こういうことを確証も取れぬくせに、「不謹慎」ととるものは、一杯のかけそばの出前を頼む御仁と同様に不謹慎である。いやあセンセイ申し訳ございません。「冗談力」が足りなかったかもしれない。でもどうか「更迭」しないで。
それで、また焚火に行った。
例によって何の指示もしないが、彼らは散らかすことを止めてゴミ箱に捨てるようになった。後は勝手に盛り上がって(ここが最重要)何かやっておった。
おでんは、ちくわぶ、ちくわ各々7本。こんにゃく5本(うち氷こんにゃく1)、ソーセージ無数、あとは薩摩揚げにガンモドキ、それから人参大根ジャガイモ。
出来上がり3時間で完全に「蒸発」した。
一度凍ったこんにゃくが、不味くて食べられないものだとは知らなかった。
味噌造りもした。
約四時間鍋で煮た大豆を、ミンチして米麹と塩と混ぜて団子を作り、樽底に叩キッつける。
実験結果は1年3ヶ月後。来年の5月に味噌が出来上がる。
焚火は相変わらず楽しい。彼らは「冒険」する。
そして、「失敗」を通じて自己認識を得る。
これは塾の授業では得られないことだ。
これを目にしていないものが批判するのは勝手なことだが、これほど子どもの能力向上の環境設定をしている感触は他に得られない。
焚火教育ほど子どもを育成させるものは他にない。
大手塾の有能教師諸君よ、もしよければ、諸君の「技量」を、V-netで試してみないか。毎月焚火ができるよ。
*『男の子はもっと遊ばせろ!』(幻冬社エデュケーション)発売中。私の子どもの頃の遊びのことも載っていてなかなかオモロい読み物になっている。是非御一読を!
2009-03-28 男の子はもっと遊ばせろ!
_ 『男の子はもっと遊ばせろ!』
皆さま、クリトン氏の御配慮から、はてまた「どぜう」の「御沈潜」から、再度の「代作」を許されました私こと不肖イケズのイケでござりんす。わらわこそ、「更迭」覚悟で、松永先生の本音を記述するものでござりんす。目下、当ブログ「主催者」は、管理者ページに勝手に乱入して、「代筆」乃至は「代作」、あるいは「仮面コメント」で、いったい何が「主体(チェチェ)で何が神懸かり的リスト強権かを意識した西松永建設のイチローでもありまする。
以下、「代作」す。
いや昨今女の子たちは本当にデキるのだ。
子どもたちの世界では男女が逆転されて久しいが、大学入試では明らかに女子の方ができるようになった。
特に彼女たちの推薦や面接における強さには瞠目すべきものがある。
彼女たちは自分のやりたいことやこれまでやって来たことを見事に文章化し、「プレゼン」する。予行にも余念がない。まるで完全な「化粧」のようである。
できる女の子たちは、推薦で早慶などに採られ、そうでないものは一般入試で東大京大一橋大東工大、はたまた上智ICUを目指して、けっこうこれに受かってしまう。もちろん早稲田や慶應にも同時に合格するものも多い。そして我々の頃では考えられないが、東大を蹴って慶應に行ったりする。「慶應には自分のやりたいことがやれる環境が整っているから」「東大に行くような男には魅力がない」。そして東大の女の子たちの東大の男に対する目線はことのほか厳しい。「はっきり言ってほとんどオタクかマザコン。小学生の集団に見えるときもあるぐらい」。これはほとんど虫けら扱いに近いが、東大生をバカにするのであるからそれ以下はどれほど見透かされることになるのか、あるいは男性に全然別個の価値観を持っているのかのどちらかであろうが、これではよほど年が上のエリートとの不倫再婚ぐらしか狙い目がないとも「冗談で」言える。また、「かっこいい」とはスポーツや技術に優れることなのかもしれない。さもなくば集中の連続によって磨き込まれた男の横顔であろうか。
大袈裟に受け取らないでいただきたい。
子どもたちの世界で確定しつつあることなのだから、これはもう、西欧に遅れること30年、これからの時代、社会のリーダーになるのは女性だという既成の「事実」なのである。
女子は元気になって、男子は元気がなくなっていく。
何ちゅう悲しいことであろうか。
オチンチン力の「消失」である。
実はその理由の解明をここに記しながら、新刊書『男の子はもっと遊ばせろ!』に話をつなぐつもりで書き始めたのであるが、今年一年の女の子の受験の強さを見たことを思い出して、それだけでいっぱいになってしまった。
2009-03-30 Baka Bad Guitar!
_ Baka Bad Guitar!
Jocamanderはこう思った。
何かを記述する時、荒か締め、それが「冗談」の可能性があることを示唆しない「文章」は、全て言語本質理念的確率統計学的に「虚偽」であり、構造的に種々の意味があり得る真の「自由」の意味が分からぬ、無意識的新自由主義的行為ということになってしまうのではないのかと。この観点からすれば、「代筆」とか「代作」とかいうのは「程度」が悪い。谷池を覗き込んだ、他に見られぬイケズの「JOKE」である。「冗談」の意味を眩ましてしまう。「当局」も、どうか大目に見てあげて欲しい。それどころか、「プリュタネイオン」での「食事」を与えて欲しい。いやご一緒に今後の教育について冗談を言いまくりながら会食しよう。「言語」による「呪縛」から人々を「解放」するのでなければ、人類の輝ける本当の「未来」は開かれないではないか。そのためには「冗談」でやるよりほかに方法がないのだ。「私」はすでに、「八卦良い」、「冗談」で、「春狂」しておる。雲間新月は美しかったカムナ、なんちゃって。
皆様、お今晩はでありまする。不肖イケズのイケことイケダの「代作」であります。
読者の多くは、私が「代作」することの「意味」をご存知であると思います。
これを書くと、「国家」に「抹殺」されるカモとは思いますが、敢えて「冗談」で書きますと、言語一切、幼児語、果ては法律文書に至るまで、全てあらゆる文章は「不完全」な記述なのでありまする。
したがって、私的に書かれた記述をマに受けるほど愚かなことはございません。まるでギャグマンガを真面目に読むようなものです。かといって、調子に乗り過ぎて、「罪」を犯すも愚かな御仁です。
もちろんこれは完全に「フライフィッシング的冗談」で、私はマジで読者に、「真実」が「点滅するもの」で、「実体がない」ということをお伝えしたいのです、釣られる身になってみればなおさら。
テニスの玉を打ち返す時、それは自分の思い通りの「真実」でありましょうか。そんなことはございません。本当に「真実」を籠めた「タマ」が打てれば、それでその瞬間「昇天」可能ですらありましょうが、そんなことはタマにしか偶然起きません。そしてそれですら、「完璧」であることはないのです。しかもそこには、それを「変化球」と受け止める可能性がある「相手」がいるのです。「ペニスの悲劇」です。
「ウけ身」を拒絶すること。そうでなければ真の「文学」は成立しません。
てなことを書くうちに、今回も、字数がいっぱいになりました。
Joker先生、お許し下さい。
イケズのイケでござりんす。先生お考えを「代作」いたしますと、
「現代の男の子たちに欠けたものは、充分な群れ遊び、大自然との接触、畢竟、火、水、土、人と冗談心」でございました。詳しくは、幻冬舍エデュケーション好評発売中の『男の子はもっと遊ばせろ!』を是非ご笑読下さい。
ご一読に感謝す。