2009-02-28 「上品」な「冗談」
_ 「上品」な「冗談」
京都に行って来た。
その理由は、私の書いた美術評論を読んで、「この人に会いたい」と言った「貴人」がいたからである。
私は、「貴人」に差し支えがあるので、ここに詳しい内容は書けないし、また大したこともなかったと申し上げたい。
で、バルザック的好奇心に満ち満ちた私がそこに見たものは、「上品」ということについてであった。
世の中には、「上品にやろう」としなくても、「上品」な人たちがいる。
この「上品さ」は、「型式」ではなく、身に付いた「習慣」であり、文句なしに「美しい!」と感じさせるものである。
私は上品さの大切さを思い、かなりのレベルの生花茶人の母に育てられた家人にそれを伝えた。すると彼女は、「そうよ、もっと心がけて下さい」と言う。
朝、例によって、うなり入浴瞑想を行っていると、洗濯物を干し終わった家人が、脱衣場の扉を開け、
「なにこれ」と叫ぶ。
「これ」とは、入浴前に床に脱ぎ捨てた私の下着のことで、
「もっと上品にやってもらいたいものだわ」
とも言う。
上品も大変である。
なにせ、風呂の中でも上品にすることを要求されるのである。
私は実は、ウォシュレットの少ない京都で、久しぶりで痛んだ肛門の静脈瘤を指でほぐしている最中だったのである。
風呂から上がると、尋ねた。
「貴女は、お風呂の中で御ならをされたことがありますか?」
「あるわよ」
「以後お風呂の中でも下品なことをするのを止めるようにして下さらないか」
ここに伏兵がいた。
すかさずバカ息子が口を挟んだのである。
「お父さんはそういうことを口に出すことこそが下品である自覚がないんじゃん」
「上品な冗談」!
このブログではそんなことは顧慮して来なかった。
したがって、このブログの読者は、「下品」を容認する寛容な読者であったことになる。
父兄の方から、マークトウェイン自伝を読んだ息子さんが、
「松永先生は、『ふざけたりオモロがったりすることが、決して不真面目なことではない』といっているのだ。」と言ったのを知って、「やっぱり冗談が分るのは男だけだ」と、自分を慰める今日この頃である。