2009-02-04 雑感
_ 雑感
テレビ情報をマに受ける人、外食チェーンのお客になる人、進学チェーン塾にダマされる人、テレビゲームを子どもに与えてしまう人たち。私の目からすると、こういった人たちの重なり具合は意外と大きい。よく言えば損得に敏感な人たち、悪く言えば好奇心や感受性より社会対応を優先する人たちと呼んでも良いかもしれない。
テレビを見て、マックを喰い、ディズニーランドを夢見て、進学塾に通う。
これは、文学に親しみ芸術作品を鑑賞し、生のものを食し、自己の好奇心と感受性に基づく自己向上活動をする人たちの逆の存在である。
どちらも正しいと思えるのは、そこで「判断」している「営為」があるからだ。
グローバル社会を受容し、しかも、そこに「弱肉強食」を容認すれば、自らが「弱者」であった場合、「隷従」をも受け入れ得る体勢と言えるだろう。
より多くの人が「不遇」を受け入れ、誰にも迷惑をかけない「趣向」が必要以上に罰せられる社会。
人々は自覚的ではない。
弱肉強食下では、誰もが「狩猟」の対象であることに自覚的ではない。
この「寛容さ」の上にこそ「経済」が成立しているのだ。
しかしもし、私たちが強く根源的に「ダイアローグ」して、私たちに本質的に幸せをもたらせるものは何かと勇気をもって問えば、人の人生はその人にただ一回きりの個人の選択による可能性にあると深く認識すれば、我々には、いかなる政治体制も社会機構も、「無縁」の存在と認識されよう。
ここに我々は「主体」を回復する。
上から与えられた民主主義は「無用」である。我々に必要なるのは、自ら選択する「主体性」である。
「民主主義」は、上から与えられた暫時的概念であり、その本質は「主体主義」であろう。
それを確認し、活動し始めるのが未来人の有り様である。
我々は世代交代をし、そのさらなる発展を願うドーキンス的な存在である。
大画面で繰り広げられる映像も、耳元でささやかれる誘いも、一切は迷いの元である。
私たちは自らのしたいことをするために生まれて来た。
どうしてそれを捨てて世間の基準に合わせることがあろうか。
何が起こっても、昨日の自分の肉体と、今日の自分の肉体の違いは認められない。
同様の肉体と同様の精神が連続していることだけが確認される。
生きて御飯が食べられれば、その次は、自己向上に関する自己選択的な鋭意の実践意外にすることはない。
多忙になった世の中で、「暇つぶし」なぞ存在しない。
多忙を受け入れれば、するべきことは「娯楽」ではなく「自己向上」の時間の創出しかない。
以上は、潜在的な期待に応える「直球」であるが、普段「変化球」ばかり投げているので、これも「変化球」と見えることに密かな歓びを禁じ得ないというのは「冗談」である。