ブイネット教育相談事務所


2009-05-22 「友愛」

_ 「友愛」

D―全国の教育結果データを握る行政機関が、「どういうことをアタマが良いというのか」、あるいは、「どう教育するとアタマが良い人間ができるのか」について、正確な「定義付け」を有していると考えるのは、国民にとって、おそらく「妥当」な判断であろう。

そしてその答えは、「長期短期の状況判断力に優れ、組織内で頭角を表し、組織を確実に有利に導くもの」、あるいは、「たとえ組織に属さなくとも、フリーエージェント的に自立的に活動することができるもの」のいずれかになると思う。

つまり、実は他にも優れた能力は存在するのであるが、とどのつまり一応、「判断力のある人材」ということになると思う。

しかし、「判断」には、「局面」と「対象」がつきものなので、「いかなる状況下での」、「いかなる事柄についての」という命題が消えずに残る。

公教育においては、いや、いかなる教育においても、自己の発達向上を他者利益に活かすことができる人材の育成が、その抽象化された答えに落ち着くと普通一般に思うのは、宗教哲学的に自明のことであろう。

問題は、自己の立場や権益保持のために、自らより劣ると認識される存在を「捨象」することになる、一種の「人間的いいかげんさ」にあると思う。言うまでもなく、これは「知性」ではなくて、「情動」によって、純粋決定されるべき事柄である。「仁」と言っても差し支えない。

人が自立的に、つまり「自由」に活動する時、人はその「自由」の「保障」のために、他者境遇を害さないことが、人生論理/倫理的に「前提」になる。「自由」とは、「秩序」を部分に含まないと社会的に成立しない。

だが、このことは、私利を求める資本主義的活動(たとえば、株で儲かれば株で損するものが一方にある)においては、「矛盾」となる。だからこそ、社会全体にとって良きものを広めようとするか、高額の寄付による社会還元を行おうとするかが、「消費者」側の観点になろう。地球環境保全の問題にも関わる。

狼は、自らの生き残りのために、「獲物」を獲る。そのことは、自然界の「無駄」を省き、各種の強化をもたらす。狼は自然環境に許される個体数を超えて発展することはできない。だからこそ、衰えて「犬」と化した。

私は、こういうことを教育の場で、「結果的体験」として思い知らすのではなく、「知識」として前もって教えることが「フェア」であると考えたい。この観点を捨象してはならないと思う。「教育」が成立しなくなる。

自由主義的資本主義経済が「世情」ならば、全員に「起業」の可能性を説くべきであり、その他は、「資格」か「学究」か「芸術」か「労働」以外に選択肢がないことを、「教育」が、墾田永年私財法的歴史的解釈に基づいて、予め子どもに示すべきであると思うのは、二歳の子どもにサンタクロースの不在を説く私の夢のなさであろうか。

仏教、儒教、キリスト教、ムスリム。共通点はそれがコトバで行われたことである。

民主党新代表が、「友愛」を主張したことについて、メディアは特に踏み込むことなく報道したが、自らを、「世襲的フリーメイソン」として名乗る現代性は、いったい何を意味するのか。

民主党政権に、自民党が絶対にできない教育の抜本的改革を期待することができるのか、私は面白く見守っている。

主体的に判断行動できれば、財産も社会的地位をも捨象することが可能になる。そしてそれには経済的「保障」が前提となる。「托鉢」ができなければ、いかなる宗教も存続できない。

「判断」には、好奇心と追体験が欠かせない。

我々は強くダイアローグし続けるべきである。

自分の本当にしたいことは何なのかを。