ブイネット教育相談事務所


2009-06-01 雨の間の焚火

_ 雨の間の焚火

週末まで降り続いた雨が上がった5月最後の日曜日、予定通りV-net焚火の会を開催した。

今回は個人塾人気教師にして塾経営者とその弟子(実は両者とも元私の教え子)、最低点法を駆使する公立中学校教師、農業/技術インストラクターとその弟子、芸術家、v-netスタッフと、子どもを見守ることに慣れた大人が多かった。

そのせいか、ちょっとの指示で、後は子どもたちがどんどん自発的に動いて(おまけに大人も自発的に動いて)、その場にいる人たち全員が、自分のやりたいと思うことを自然にしながら時間が経って行くという、まさに焚火教育の「理想」としていたことが実際に起こった。

大きな鳥小屋を建てるために、太い竹を裂いて、それを地面に打ち込んで電動ドライバーで柱にとめる。使用される道具は、シャベル、穴掘り機、ツルハシ、手引きノコギリ、電気ノコギリ、ナタ、ハンマー、木槌、電動ドライバー、水平器、メージャー、脚立、etcと種類が多い。

大人は、焚火をするもの、特大おでんを仕込むもの、竹細工をするもの、デッキの修繕、刃物研ぎ。

その間に特に話題になっていることが食と健康や自然について。どういうわけか仕事の話はこの機会にしなければならないはずなのにほとんど出ない。主に食と脳の関係についてであったが、別方面からの意見を合わせて抽象化すると、「育ち盛りの子どもは仕方がないが、大人はできるだけ肉食を避け、タンパク質は大豆系でまかなうのがよい」という、先だっての講演会で東城百合子先生が語っていたのと同じ結論になった。

中学校の先生が、「もう牛乳を一律に飲ますのは意味がないのではないか」と問いかけるのに対して、「それも業者や天下りが一体になっていて変えられない旧システムの一つなんじゃないか」と答えていた。

学校行事、クラブ活動、運動会の雨天順延などで来れなかった生徒が多いが、参加した子どもたちは、そもそも潜在的に持っていた子ども力が爆発。共同作業も積極的に参加。一見難しそうでも、やろうと思えばけっこうできることを確認して、向上と明日への精神エネルギーの両方を得ていたようだ。

最後焚火を終わる頃に夕立となり、手際よく温泉へ集団移動。不思議というより良く考えると当然のことなのかもしれないが、焚火を好むものは、大人も子どもも温泉が大好きである。入浴後高速バス停前で「解散」。

日中は薄日も射して暑いほどであった。蚊や蠅もこの時とばかりに活動していた。

これで3回連続焚火の後に雨が降った。

うれしい偶然である。

それにしても焚火をするとどうしてこうもスッキリするのだろう。

小学校の校庭での焚火教育の開始に向けてもっと声を上げて行こうと思う。


2009-06-05 読者御礼

_ 読者御礼

この国の教育政策の欠陥は、対処が遅すぎるのではなくて、抜本的な対処が全くできない状態にあることである。そもそも「不登校」が増え始めた時に、教育の側が大きな方向転換を模索するべきだったのだ。これは、機能不全というよりも「ヴィジョン」の不在を暗示しまいか。結果的に後手対処だけが浮かび上がる。

しかし、これは、近代化以降続いて来たの他の多くの国家政策と同様の現象なのかもしれない。システムが旧くなっただけなのではない。パラダイム(「規範」に近い意)も旧くなったのである。パラダイム全体が崩壊するのか、パラダイムの部分だけが崩壊するのかは興味深いところだが、いずれにせよ、ここを天才的なアイデアで乗り切ることができなければ、我が国の将来的な繁栄は望めないことだろう。

すでに日本の教育の現状を、誠に僭越ながらもやや見極めつつあった私が、『男の子』の本を書く直前、同時に「教育」の抽象化以外で懸命になっていたことが他に一つあった。それはこれから建てる自分の家を最終的にどのような構築物にするかの決定であった。実は、『男の子』の執筆はその傍らだったのである。このことは、今になって振り返ると、『男の子』がベストセラーになることと全く無関係ではなかったと感じられる。その後、半ば本能的に、焚火、個人農園設営と、「自然」と「コンストラクション」に関わる方向性で「趣味」を展開して来たが、かつて建築設計における空間的考察ほど私をとりこにしたものはない。それは書くこと以上に時間が経つのが速いことでも確認された。心から設計屋という職業に就いた人を羨ましく思ったものである。もっとも何ごとも不器用で、しかも場当たり的でいい加減、おまけに物理が苦手だった私にはなろうと思ってもできない部類の職業だったかもしれないが。

『男の子』を書いたから家が建ったのではない。家が建ったら『男の子』が売れたのである。読者出版社おかげさまで、私は危くのことで「火だるま」から免れた。財産相続がない中での不況下住宅ローン。不動産屋に現れた最終銀行マンは、開口一番、「とどのつまり、貴兄のような方へのご融資は、過去に例がないのです。」と口を切った。私はパートナーの前で「博打」を打った。もう銀行は回り飽きた。人生究極、常にするべきことは「勝負!」でしかない。私は未だにクレジットカードをもたない人間である。

「これまでちまちまやって来ましたが、これからは世の中に頭を下げてダイナミックにやらせていただきます。信じていただけないと思いますが、10年で返す所存です。」

どういうわけか、「駿河銀行」ならぬ、三菱東京UFJは折れた。さすが日本最強の銀行である。もっとスゴいのが、担当税理士が「多分通ります」と予め言明したことだ。今よく考えてみると、ある意味で彼らはみな私により多くの経済活動をさせるための「グル」だったのであるが。

私もパートナーも一致したのは、執筆ルームに付設した、私の訪問客を家族と顔を合わせず迎え入れる部屋と、音楽活動用防音ルームを作ることであった。

我ながら無茶苦茶である。予め編集者が多く来ることを「想定」しているのだった。しかし、それは「現実化」した。この、今、私の右下にある部屋で、編集者たちとともに『男の子』は練られ、そして、この机で最終的に完成した。その後も編集会議は私の家でやることが多い。

読者の皆様にこの席を借りて厚く御礼申し上げたい。『男の子』は、27刷累計20万部を大きく越え、なおも今週どうしたわけかアマゾンで全体200位、部門別でトップである。いったい何が起こっているのだろう。どうも男女別教育ブームが起こっているようだ。世は、「肉食女子」、「草食男子」が話題になっている。私は夜散歩し、原点に帰って、タメになるオモロい教育本を作ろうと念じ続けた。ここのところ私の「仕事」はほとんどそれである。そして、私らしくなく、実にそれに苦しんだ。その間の深刻な教育相談はきつかった。精神的に参る。こうなると、どちらが本職か分らない。しかし、どうやらついに目的のものに手が届いたらしい。それを得た感触だ。文学の世界では全くないところで「文学」をやることの面白さを「真面目」に文学をするものたちが知ることはできないだろう。しかし実は永遠のテーマは割と限られるのである。「企業秘密」であるが、次作乞うご期待である。

以上、「冗談」ではなく書いた。


2009-06-08

_ 海水浴

目下理由を分析中であるが、最近私の手を離れた生徒たちが、新たに進学した学校で「ボス」になっていることが多いことが判明した。同時に、女の子に人気がある子が多い。それどころか女の子のお母さんに評判がいいケースが多いのである。

女の子にモテている男子生徒を尋問した。

「キミはなぜ自分が女子に人気があると思うか?」

―それは多分、先生に言われたことを実行したからです。

「ハ?」

―ほら例の、女の子と話すときは、できるだけ体の動きを止めて相手を受け入れる態勢で向かい合うというヤツです。

学校でボスになっている男子生徒に聞いた。

「どうしてキミがボスなのだ?」

―それは周囲を楽しませるからです。

「たとえば?」

生徒の話によると、彼の学校の現代社会の教師は強面で体格が良いカーリーヘアー中年男で、授業のたびになんらかの教訓を垂れるそうだ。ある日いつものように、

「今日は欲についての話をする。そこのキミ、犬と人間の欲の違いは何か言ってみよ。」

と彼を指して質問した。彼は少しも間を置かずに即答した。

「海水浴です」

この答えに教室中が大爆笑になった。先生もこらえ切れなくなって口を開けてのぞけってデカい腹を揺すりながら、そして辛うじてこう言った。

「ほ、他には?」

今度も彼は即座に返答する。

「日光浴です」

もう一度クラスが爆笑になるのを遮って、すかさず教師が叫んだ。

「ダメ!それなら犬もする」

彼が言うには、教師ががそう答えられるように二番目の答えを用意したそうだ。

―先生も言っていたように、人を最後まで追いつめるのは良くないし必要もない。

驚くべきことは、彼がこういった答えの想起や思考を信じられないような高速短時間でするところである。「条件反射的」と言っても良い。

どうも私に習った生徒は言語コミュニケーション力が加速されるらしい。その結果周囲のものよりものが見えた状態になるらしい。言語力と観察力の関係?

最後になるが、モテる男子生徒がいる一方で、女嫌いの一軍もいる。彼らも異常に言語コミュニケーションに優れるが、一様に「女子はウザイ」と言う。「『私って可愛いでしょ』って急に人に聞いてくるのオカシクナイ?『鏡に聞けば』って答えちゃうよ。」これも私のせいなのか。

―松永先生に教えていただいたおかげで、音読も作文も上手くなり国語の成績も上がって本当にありがたいんですが、最近言い返すのが上手くなってやりにくくって困っているんですよ。しかも、何と申しましょうか、あの、子どもが反論するときの口の形が、その、松永先生そっくりなんですよ。それで‥…、

他にもまだまだあるが、なんだか書いているうちにアタマが痛くなって来たのでこれでやめる。


2009-06-12 大組織的無自覚

_ 大組織的無自覚

最近なぜかと思うことに、何で文科省はこのまま「脳死」しようとするのかというのと、なんで新聞社が「変身」をしないのかというのがある。

自分の所属する組織やかつての学歴を大なり小なり誇示するものは、実はその組織内でさほど有能ではないことが多いというのは「常識」であろう。同様に、組織に残るものは実はその組織ではそれほど有能ではない可能性が暗示される。有能であるものは、より給与の高い役員になるか、自分のやりたいことを主体的にできるように、独立して起業やフリーエージェントの道を選ぼうとするだろう(良い意味での「天下り」はこの代表である)。このことからは、仕事からの技能的修得が伴わない場合、能力以下の労働賃金を受けることは正しくないということも演繹されえよう。そもそも入社試験に通ろうとするとはそういうことが前提だったはずだ。

もし能力があれば、その人は組織に属さない道も選択できるはずなのである。能力とは一定水準以上の技術のことである。もしある新聞記者が、他の書く仕事で喰えないのであれば、その人は能力がないことになる。もし能力が高まれば、逆にその人は組織を出る方向性にあることになる。だからこそ、新聞記者の給与はそもそもやや高く設定されるのではないか。でも真のジャーナリズムを追求するものは、非現実的組織的矛盾に耐え切れなくなって自立しようとするものが多いであろう。

官庁や一流企業同様、大組織に残る幹部には「無能の成れの果て」が多く含まれるということになるのである。あるいは組織を維持するための仕事はできても、新しいことを思いつく発想力がないということになるのかもしれない。当然その予備軍も「無能」であろうから、だとするならば、新聞は掲載記事をよりいっそうフリーライターから買ったものにすれば良いことになるのが必然になろう。そうすればネットにも「対抗」することできる可能性が生まれて来る。しかし、すでに組織内にいるものが、官僚同様、将来の発展性より既得の「権益」を保持しようとするため、良い記事を書く能力は第二義になってしまうことになる。つまり、自分だけが気がついたことを公にするージャーナリズムの快感は捨象される。

気がつくことは、知性だけでは無理だ。価値判断には「センス」が伴う。センスは、日本の学校教育では先ず磨けない。それには芸術制作同様、何かを前提にすることからやや逸脱して行こうという姿勢が欠かせない。

新聞社が危ないのは、これまでのやり方の「大枠」が旧くなったことを自覚せず、世の流れについて行けなくなってしまったからであろう。もちろんこれは、雑誌もテレビも同様であろう。

文科省が危ないのは、つながれた数多くのパイプのせいで身動きできない「寝たきり状態」のまま、本質的な新しい発想をすることが不能な状態にあることを自覚できないことであろう。しかし、もしパイプを外せば心臓が止まるのであるからどうしようもない。

組織とは、それが旧くなったことを自覚できない人たちが属するところになる運命にある。この時、これを自覚し、さらにビジョンと能力があるものが自立できるのだから、学校教育も組織内業務教育も、当然のごとく、できるだけ自覚とビジョンを与えないものになりがちである。

以上、「不良」の戯言であるが、皆さんそれなりに「事情」はあるでしょうが、こと「教育」に関する場合、我々はそれが意図的に捨象するものに自覚的であるべきだと私は言いたい。


2009-06-16 「目眩し」

_ 「目眩し」

背後で何が起こっているのかは判然としないが、厚労省村木局長逮捕は、形式的対処を重視する「検察」のバランス的「目眩し」に見える。また、「内部告発」であるのは明らかであろう。高知出身の彼女は、郷士坂本龍馬家系の岡上菊栄の運動を知悉するはず。彼女を逮捕できるのであれば全ての人を逮捕することができるであろう。子どもを育てながらキャリアを積んだ女性が、自己権益のために悪いことをするとは到底思えない。サインが決めてらしいが、彼女が「東大法卒」であればまず「逮捕」はなかったろう。佐藤優以下有能官僚で逮捕されるのは東大出身者ではないものばかりである。政治家も守らなかった。もしこの「類推」が正しければ、政府麻生の「無能」以下の「愚鈍」が「立証」されよう。それにしてもどうして同じ大資産家が、簡保施設の売却価値判断で割れるのか。そこを議論しないことがいけなかった。

またそもそも検察は、「判事」、「弁護士」、「検察」の中で、もっとも権力志向が強い人たちの集まりであると「抽象」できる。理系は別として、東大法は「権力」指向者の巣窟である。彼らの背後目的は、外務省同様、「権力=権益」を保持しようとすることであろう。大衆をダマすことができると思う「ケチ」な人間を官僚に採用しようとする姿勢が悪いのは東大入試と同じだ。

民のためを思っているものが、「クニ」のための「権益」を守ろうとするものに「抹殺」されようとする。キミたちは、公務員として、本当にそんなことが正しいと認識しているのか。

世は、「幕末」である。「舛添」が民主党に「鞍替え」することも充分にあり得る。「乱れ髪」の子孫なぞもあやしいところだ。おそらく鳩山弟は、これら公権力の背後上部にあるものが何なのか知悉する者であろう。彼らの共通点はいったいなんなのであろうか。

歴史的に、あれほどまでに正着を究めた明治政府も官僚たちの腐敗と無能によって「終末」に「アハマニネジャド」。「支持」を期待することによって成立しようとする政治家は、皆、「電通」的、朝日読売的間違いを犯していることになる。経団連会館並びの日経は「確信犯」であり、産経と毎日はダマされていたのである。こうなると実は自民党は近々「崩壊」するのではないかとすら思われて来る。

国民は、「真実」を知りたいと願っているのである。「守る」ものの「主体」がなくなれば、あるのは「利権」のみ。「利権」の反対が、「国体」ではなく「友愛」であるとするならば、鳩山兄はなかなか深く「ユーモア」を解することになる。兄弟が、日本を良くするために「つるもう」とするのは社会学的に「必然」。なるほど、「鳩山」は「小沢」から学んでいる。そして、「小泉」や「中曽根」には、なおもこれを「嗤う」余裕があろう。

自民党は、この「失策」により、栃木渡辺を含んだ反対勢力により壊滅的瓦解をすることになる。もちろんこれもホリエ的「フリーメーソン」が暗躍する技ともいえる。明治維新の「国士」が実はフリーメーソンであったという「事実」は、なかなか示唆に富むではないか。

政府官僚は「状況」が読めない状態にある。北朝鮮は、米国と中国が経済的に「根」が同一であることを見過ごして突っ走って「瓦解」する。米国債を買うとは、米国軍事に協力するということであることは日本が先に知ったことである。私は密かに、「映画監督」が最後の演出に、「東京」ではなくて、「西京」を狙うことを決めることを望んでしまう。いやそんなことはできない。私には、どうしてメディアが「金日成社会主義的世代交代矛盾」を喧伝しないか謎である。ロシアも中国もそれはしなかった。もしカストロもそれをしたらブッシュ米国同様おしまいなはずだ。だからこそクリントンではなくてオバナが立った。この観点に立てなければ大川隆法の「動き」も「客観化」できまい。20世紀の「天才」、「池田大作」は、いったいいつまでもつのだろうか。

私は、「右翼」でも「左翼」でもない。「マルキスト」でもなければ「国士」でもない。また、知恵にも勇気にも劣る者である。しかし、自ら「貧乏くじ」を引いたという「事実」により、彼らを「尊敬」する気持ちになる。彼らは、「権益を捨象した集団」と客観化できる。

以上、酔った上の「フライング」を恐れて、「冗談」で書いたと「記述」する。

皆さん、今度の選挙には絶対行きましょう。一応民主主義社会の法制上、権力は我々国民の手にあるのです。中国や朝鮮とは違うことを思い出して下さい。

メディアのシラケを誘う報道に気をつけましょう。


2009-06-20

_ 「天敵」の子ども

生徒たちの未来幸福の方が優先されるのはもちろんではあるが、それでも私は自分の育てている植物の無事成長を強く願う。

作付けした野菜類の成長が順調だ。この分だと、ナス、キュウリ、ピーマン、枝豆は当分自作で生活できそうだ。特に二階ベランダの45×60の深いプランターに植えた6本のナスは密林のようになって次々と花を咲かせ実をつけている。

ところが、別に権益にたかる者たちに喩えるつもりはないが、このナスのジャングルに大量のアブラムシが発生。特に新芽の紫のところにびっしりとたかっているのが腹立たしい。顔を下げて根本から上を見上げると、まるでナスの葉のドームのようになった緑の世界の葉の裏側にドヒャッとアブラムシがついているのが見える。同時にどこから現れたのか大量のアリが発生し、さらに良く見ると、小さいハエやハチなどたくさんの昆虫が集まり、どれもが活発に活動し、まるで自然のコミューンの有様である。いったいどこからどうやってくるのであろうか、カマキリもいた。

とりあえず、手で取れるだけアブラムシをつぶした。しかし、細かい虫はきりなくいる。いくら獲っても明くる日にはまた新たなアブラムシが発生してしまう。このままではいつか、ある暑さが続いた日の後、「爆発的大量発生」が起こって木が枯れてしまう。どうするべきか。考えた。しかし、殺虫剤は使いたくない。大切な野菜である。木酢液をかけてみた。変化はない。仕方がないから手でやはり獲れるだけ獲ってしかもシャワーで洗い流す。これからずっとそうすることにした。

こうして、約一週間毎日原稿の合間にアブラムシと戦い続けていると、ある日アブラムシが目立って少なくなり、終いにはほとんどいなくなってしまった。うれしいけれど不思議に思ってナスの葉を良く眺めると、前からいたと言えばいたのであるが、腰のところにオレンジ色の輪っかマークがついた、まるで羽をとった蛍のような、体調5〜8ミリくらいの虫が一杯ついている。この虫がまんべんなく葉の上を這い回り、アブラムシを見つけると吸い付いて体液を奪うのである。良く見るとテントウムシも何匹か来ている。他の小さなハチも数が増えている。どうも、都会に湧いたアブラムシを都会に湧いた別の虫たちが食べに来てくれたらしい。もし殺虫剤を使えばこのようなことにはならなかっただろう。やがて手のつけられないほどいたアブラムシは壊滅した。我が検察をテントウムシに喩えられないのが誠に残念である。

それにしてもあのオレンジマークの虫は何だろう。ネットで、「アブラムシ、天敵」で検索。するとこれまで誠に不勉強であった自らを恥じるが、それこそがテントウムシの幼虫であったのである。テントウムシは、幼虫の段階で約800匹、成虫になってから約100匹のアブラムシを食べるそうである。これではアブラムシはひとたまりもない。これまで50年以上、成虫こそがアブラムシの天敵だと信じ切っていたが、実は幼虫が本当の天敵だったのである。

私がナスのプランタージャングルを作らなければアブラムシはやって来ない。アブラムシが来なければテントウムシは来なかった。テントウムシが来なければナスがダメになってしまう。天道もの言わずして国土に恵み深し。小さなことだが、自然の奥深さに妙に感動した。


2009-06-24 「権力」

_ 「権力」

どうして「検察」は権力を握れるのか。

その答えを得るためには、「権力」には、「後ろ盾」があることを想起するのが至当であろう。

「権力」は、それより高次のある「権力」によって支えられるからこそ、「権力」である。

文科省がなぜ我が国将来に欠かせない「改革」を全くしようとしないのか。それはその方向性がある「権力」によって決定されるからである。

戦後すでに半世紀以上が過ぎた。

その間政権を取った者は、「権力」に頭を下げ続けた者たちであった。

「権力」はメデイアにもその力が大きいことは地球現象学的にも明らかである。

もし私が、「権力者」であったならどうするか。

先ず法務省を抑える。ひいては法文書を作成する東大法学部を管理下に置く。

同時に、メデイアと文科省を抑える。

これらは国民から自由に考える力を奪うことが隠された「目的」である。

言論の自由など大したことではない。ごらんの通り、簡単に「操作可能」である。

しかし思想の自由は危険である。なぜなら誰かがそれに気づく「デカルト的」可能性が連続するからである。だからこそ、センター試験がある。価値判断と思考力を奪うことは、「権力」の最大の目的である。

戦後、もっとも「自由」であったのが経済活動であるのは明らかだ。つまり、1950年代以降、「生産」は容認されるが、「思想」は「制限」される方向性にあったと客観化できる。そして、経済活動は働く者によって支えられた。

しかし、近代的な「権力」は、実は全て、「哲学」によって裏打ちされていたはずだ。

「哲学」は、「利害」を超越して「真理」を開示するのがその役割である。

「軍事」より「平和」が優先されるのは哲学的な「真理」である。

「環境破壊」より「環境保護」が優先されるのも哲学的な「真理」である。

「飢餓」をなくすために平等性を選択するのも哲学的な「真理」である。

だが、その実践は個々の人々に選ばれた代表者によって行われる。

他者より多くの利益を得ようとすることは、自らの「安定」を図ろうとすることであろう。問題はその手段だ。

自らだけの利益が捨象される時、「友愛」が生まれる。これは、地球環境同様、全ての宗教に共通である。

アジアで唯一迅速な近代化に成功したと言っても良い「明治維新」が、実は、フランス人権宣言、合衆国憲法、世界人権宣言、日本国憲法を書いたフリーメーソンによってなされたことはもはやまぎれもない「歴史的事実」であろう。フルベッキやグラバーがいなければ明治維新はなかった。つまり、維新政府とフリーメーソンは、ある意味で近代歴史的に、「部分的一体化」せざるを得ない。全ては資金と政治の問題であろう。

しかし、このことを「客観化」すれば、第二次世界大戦に敗戦したという歴史的意味がリアルに現実化してしまう。「無条件降伏」の意味が明らかになってしまう。ある意味で、これまでの「政治」も「マスコミ」もこの結果を「目眩ます」ことが「仕事」であったとも言えよう。

しかし、時は流れた。

私は、国粋主義者ではないが、どうして日本がこれほどに強いのか不思議に思い続ける者である。そして、この国の気候と自然環境は世界ナンバーワン的であると思う。この島で本気で農業すれば簡単に生きられてしまう。

私は、「権力」に「お願い」しよう。カタカムナ音読と、サイコロ学習を、これまで通り無視はするけど「弾圧」はしないことを。

以上、土日の仕事に疲れた中年男の、酒の上の、「冗語」である。


2009-06-28

_ 儒教主義的教育と新自由主義的教育

儒教主義的教育が機能しなくなったのは、「少子化」によるためという事実。

インターネットが普及したということは、自らの好奇心があれば学校にいく必要がないという事実。もちろん、読み書き暗算暗記メソッドはその「前提」ではあるが。

旧いやり方を押し付けるだけの学校にはわざわざ行く意味がないという可能性。

最近、引き続き、不登校、アスペルガー、などの「学校拒否」の相談が多い。私の見解は、学校判断より精神科医の判断と一致することが多い。新自由主義化の教育システムの中では「弱者」の将来的可能性を捨象する方向性が強まっている。彼らは、アインシュタインやニュートンやエジソンの恩恵を被らない道を選択するというのであろうか。

何が起こっているかと言うと、一人で20人以上の子どもを担当するには、儒教的価値観の相互確認が前提のはずなのに(彼らはそれを信じている)、それがない状態では、現行システム下、教師は立場的精神的に破綻するという現場状況から、もし担当者の能力が充分でなければ、言うことを聞けない子どもを、「隔離」しようとする学校側の方針である。結果的に「境界線上」の子どもたちが「境界以下」であると判断され、「隔離」される。なんで彼らが学校に適応できないかの議論は後手になる。現代日本人は本質的に新自由主義的なのである。

もはや学校は教育の場ではなくて、刑務所と同じ「矯正施設」である。

知能発達には実は関係がない「隷従訓練」を忌避する者は、「都合」により巧妙に「刑務所入り」である。もしそうしなければ、逆に教師が精神的にダメージを受ける可能性が高くなる。もちろんこれは、「能力がない」ことをも暗示するが、世にバラまきながら、現状の賃金と労働水準では、教師たちがまともに対応できないのも仕方がないことであろう。自分たちが働き続けるようにするために、手間のかかる子どもは「除外」の対象になる。私にしてみれば、教えにくい子どもたちこそ、教師としての自分の力量を鍛えるきっかけであるにもかかわらず。やっぱり教師対生徒の比率が未だ高すぎるのか。

トップの「ブレ」(=非覚醒)が下部の無能化を促進する。

確かに現場は人員不足に喘いでいる。いつ突然「学級崩壊」が起こってもオカしくない。「学級崩壊」が止まないのは、子どもたちの変化に目が不自由であるのと同様、システムの旧さに自覚がないからである。未来の子どもを過去の旧い価値観で教育するのは無理がある。

地域による対応も大きく異なっている。

すでに強く複雑にからまった蔦葛の旧い絆を断ち切ることは、これを根本から切ってしまう以外にはできない。ということはこれがただ朽ち果てるのを待つしかないようだ。

「同じ公務員ならもっとしっかりやって欲しい!」とは、最前線へ単身赴任して海を守る父親の叫びである。

「119番で出動するのは、人を助けるためで組織を守るためではない」とは、消防隊員。

旧いシステムの中で真面目にやっている人たちには耐えられない世情だろう。

私にしてみれば、儒教主義と新自由主義を両立させることは論理的にできないことになるが。

登校を拒否するか、クラス授業を拒否するかの次は、個別授業の選択が用意されていることになる。

政権交代が近いらしいが、自民も民主も他の政党も、全く教育について語らない。参政権のないものを「犠牲」にするのはやめて欲しい。