2009-06-24 「権力」
_ 「権力」
どうして「検察」は権力を握れるのか。
その答えを得るためには、「権力」には、「後ろ盾」があることを想起するのが至当であろう。
「権力」は、それより高次のある「権力」によって支えられるからこそ、「権力」である。
文科省がなぜ我が国将来に欠かせない「改革」を全くしようとしないのか。それはその方向性がある「権力」によって決定されるからである。
戦後すでに半世紀以上が過ぎた。
その間政権を取った者は、「権力」に頭を下げ続けた者たちであった。
「権力」はメデイアにもその力が大きいことは地球現象学的にも明らかである。
もし私が、「権力者」であったならどうするか。
先ず法務省を抑える。ひいては法文書を作成する東大法学部を管理下に置く。
同時に、メデイアと文科省を抑える。
これらは国民から自由に考える力を奪うことが隠された「目的」である。
言論の自由など大したことではない。ごらんの通り、簡単に「操作可能」である。
しかし思想の自由は危険である。なぜなら誰かがそれに気づく「デカルト的」可能性が連続するからである。だからこそ、センター試験がある。価値判断と思考力を奪うことは、「権力」の最大の目的である。
戦後、もっとも「自由」であったのが経済活動であるのは明らかだ。つまり、1950年代以降、「生産」は容認されるが、「思想」は「制限」される方向性にあったと客観化できる。そして、経済活動は働く者によって支えられた。
しかし、近代的な「権力」は、実は全て、「哲学」によって裏打ちされていたはずだ。
「哲学」は、「利害」を超越して「真理」を開示するのがその役割である。
「軍事」より「平和」が優先されるのは哲学的な「真理」である。
「環境破壊」より「環境保護」が優先されるのも哲学的な「真理」である。
「飢餓」をなくすために平等性を選択するのも哲学的な「真理」である。
だが、その実践は個々の人々に選ばれた代表者によって行われる。
他者より多くの利益を得ようとすることは、自らの「安定」を図ろうとすることであろう。問題はその手段だ。
自らだけの利益が捨象される時、「友愛」が生まれる。これは、地球環境同様、全ての宗教に共通である。
アジアで唯一迅速な近代化に成功したと言っても良い「明治維新」が、実は、フランス人権宣言、合衆国憲法、世界人権宣言、日本国憲法を書いたフリーメーソンによってなされたことはもはやまぎれもない「歴史的事実」であろう。フルベッキやグラバーがいなければ明治維新はなかった。つまり、維新政府とフリーメーソンは、ある意味で近代歴史的に、「部分的一体化」せざるを得ない。全ては資金と政治の問題であろう。
しかし、このことを「客観化」すれば、第二次世界大戦に敗戦したという歴史的意味がリアルに現実化してしまう。「無条件降伏」の意味が明らかになってしまう。ある意味で、これまでの「政治」も「マスコミ」もこの結果を「目眩ます」ことが「仕事」であったとも言えよう。
しかし、時は流れた。
私は、国粋主義者ではないが、どうして日本がこれほどに強いのか不思議に思い続ける者である。そして、この国の気候と自然環境は世界ナンバーワン的であると思う。この島で本気で農業すれば簡単に生きられてしまう。
私は、「権力」に「お願い」しよう。カタカムナ音読と、サイコロ学習を、これまで通り無視はするけど「弾圧」はしないことを。
以上、土日の仕事に疲れた中年男の、酒の上の、「冗語」である。