2009-06-12 大組織的無自覚
_ 大組織的無自覚
最近なぜかと思うことに、何で文科省はこのまま「脳死」しようとするのかというのと、なんで新聞社が「変身」をしないのかというのがある。
自分の所属する組織やかつての学歴を大なり小なり誇示するものは、実はその組織内でさほど有能ではないことが多いというのは「常識」であろう。同様に、組織に残るものは実はその組織ではそれほど有能ではない可能性が暗示される。有能であるものは、より給与の高い役員になるか、自分のやりたいことを主体的にできるように、独立して起業やフリーエージェントの道を選ぼうとするだろう(良い意味での「天下り」はこの代表である)。このことからは、仕事からの技能的修得が伴わない場合、能力以下の労働賃金を受けることは正しくないということも演繹されえよう。そもそも入社試験に通ろうとするとはそういうことが前提だったはずだ。
もし能力があれば、その人は組織に属さない道も選択できるはずなのである。能力とは一定水準以上の技術のことである。もしある新聞記者が、他の書く仕事で喰えないのであれば、その人は能力がないことになる。もし能力が高まれば、逆にその人は組織を出る方向性にあることになる。だからこそ、新聞記者の給与はそもそもやや高く設定されるのではないか。でも真のジャーナリズムを追求するものは、非現実的組織的矛盾に耐え切れなくなって自立しようとするものが多いであろう。
官庁や一流企業同様、大組織に残る幹部には「無能の成れの果て」が多く含まれるということになるのである。あるいは組織を維持するための仕事はできても、新しいことを思いつく発想力がないということになるのかもしれない。当然その予備軍も「無能」であろうから、だとするならば、新聞は掲載記事をよりいっそうフリーライターから買ったものにすれば良いことになるのが必然になろう。そうすればネットにも「対抗」することできる可能性が生まれて来る。しかし、すでに組織内にいるものが、官僚同様、将来の発展性より既得の「権益」を保持しようとするため、良い記事を書く能力は第二義になってしまうことになる。つまり、自分だけが気がついたことを公にするージャーナリズムの快感は捨象される。
気がつくことは、知性だけでは無理だ。価値判断には「センス」が伴う。センスは、日本の学校教育では先ず磨けない。それには芸術制作同様、何かを前提にすることからやや逸脱して行こうという姿勢が欠かせない。
新聞社が危ないのは、これまでのやり方の「大枠」が旧くなったことを自覚せず、世の流れについて行けなくなってしまったからであろう。もちろんこれは、雑誌もテレビも同様であろう。
文科省が危ないのは、つながれた数多くのパイプのせいで身動きできない「寝たきり状態」のまま、本質的な新しい発想をすることが不能な状態にあることを自覚できないことであろう。しかし、もしパイプを外せば心臓が止まるのであるからどうしようもない。
組織とは、それが旧くなったことを自覚できない人たちが属するところになる運命にある。この時、これを自覚し、さらにビジョンと能力があるものが自立できるのだから、学校教育も組織内業務教育も、当然のごとく、できるだけ自覚とビジョンを与えないものになりがちである。
以上、「不良」の戯言であるが、皆さんそれなりに「事情」はあるでしょうが、こと「教育」に関する場合、我々はそれが意図的に捨象するものに自覚的であるべきだと私は言いたい。