ブイネット教育相談事務所


2009-06-28

_ 儒教主義的教育と新自由主義的教育

儒教主義的教育が機能しなくなったのは、「少子化」によるためという事実。

インターネットが普及したということは、自らの好奇心があれば学校にいく必要がないという事実。もちろん、読み書き暗算暗記メソッドはその「前提」ではあるが。

旧いやり方を押し付けるだけの学校にはわざわざ行く意味がないという可能性。

最近、引き続き、不登校、アスペルガー、などの「学校拒否」の相談が多い。私の見解は、学校判断より精神科医の判断と一致することが多い。新自由主義化の教育システムの中では「弱者」の将来的可能性を捨象する方向性が強まっている。彼らは、アインシュタインやニュートンやエジソンの恩恵を被らない道を選択するというのであろうか。

何が起こっているかと言うと、一人で20人以上の子どもを担当するには、儒教的価値観の相互確認が前提のはずなのに(彼らはそれを信じている)、それがない状態では、現行システム下、教師は立場的精神的に破綻するという現場状況から、もし担当者の能力が充分でなければ、言うことを聞けない子どもを、「隔離」しようとする学校側の方針である。結果的に「境界線上」の子どもたちが「境界以下」であると判断され、「隔離」される。なんで彼らが学校に適応できないかの議論は後手になる。現代日本人は本質的に新自由主義的なのである。

もはや学校は教育の場ではなくて、刑務所と同じ「矯正施設」である。

知能発達には実は関係がない「隷従訓練」を忌避する者は、「都合」により巧妙に「刑務所入り」である。もしそうしなければ、逆に教師が精神的にダメージを受ける可能性が高くなる。もちろんこれは、「能力がない」ことをも暗示するが、世にバラまきながら、現状の賃金と労働水準では、教師たちがまともに対応できないのも仕方がないことであろう。自分たちが働き続けるようにするために、手間のかかる子どもは「除外」の対象になる。私にしてみれば、教えにくい子どもたちこそ、教師としての自分の力量を鍛えるきっかけであるにもかかわらず。やっぱり教師対生徒の比率が未だ高すぎるのか。

トップの「ブレ」(=非覚醒)が下部の無能化を促進する。

確かに現場は人員不足に喘いでいる。いつ突然「学級崩壊」が起こってもオカしくない。「学級崩壊」が止まないのは、子どもたちの変化に目が不自由であるのと同様、システムの旧さに自覚がないからである。未来の子どもを過去の旧い価値観で教育するのは無理がある。

地域による対応も大きく異なっている。

すでに強く複雑にからまった蔦葛の旧い絆を断ち切ることは、これを根本から切ってしまう以外にはできない。ということはこれがただ朽ち果てるのを待つしかないようだ。

「同じ公務員ならもっとしっかりやって欲しい!」とは、最前線へ単身赴任して海を守る父親の叫びである。

「119番で出動するのは、人を助けるためで組織を守るためではない」とは、消防隊員。

旧いシステムの中で真面目にやっている人たちには耐えられない世情だろう。

私にしてみれば、儒教主義と新自由主義を両立させることは論理的にできないことになるが。

登校を拒否するか、クラス授業を拒否するかの次は、個別授業の選択が用意されていることになる。

政権交代が近いらしいが、自民も民主も他の政党も、全く教育について語らない。参政権のないものを「犠牲」にするのはやめて欲しい。