2006-08-01 現状学校教育実情<連載7>
_ 現状学校教育実情<連載7>
闇雲な暗記はなぜ頭に悪いのであろうか。それはそれがただ知識を増やしただけで判断力を初めとした知性を養わないからである。だがしかし、それは怠けてするべきことをしないより結果必然的に勝る。してみると、女の暗記は仕事ができることの証なのかもしれない。だが、仕事ができることと新しいことを企画したり人の上に立ったりすることとは違う。そして、「試験」ではそんなことは計れない。だが、同一の試験システムを続ければ、それに学習適応能力の優れるものがやがて優位を占めるようになることは必然である。そして彼らが人の上に立つ立場に選出される。これは明らかに国民にとって不幸なことである。旧制高校が終わってから、最早国立大学出身者は首相になれない。中曽根、宮沢級のものは最早東大出身者から政治家には出ない。首相の小泉も、後を追う阿部や麻生も、トヨタの奥田や金融相の竹中や、長野の田中や、東京の石原といった人物も、東大出身者ではない。すでにこの世界では東大経由は「近道」ではないのだ。受験プロの目から見れば、面接小論を行わず、センター試験を容認する今の東大は、単に官僚的人物を作る大学である。そうでなければ「学者」を作る大学である。そして、スーパーエリートたちは、あたかもハーバードビジネススクールの連中が就職しないように、最早官庁を指向しない。唯一例外的な堀江や村上は役人にワッパをかけられた。公職に就いている潜在的な犯罪者に実に多くの東大出身者がいることは想像に難くない。最早東大を特別な大学と見なしこれを目指すことには社会的な害があると言える。そしてこれを作ったのが官公庁企業トップ東大派閥であることはいうまでもない。『ドラゴン桜』が大衆に受けたからこそそういえる。我々は18歳時点でやや難しい試験に通ったものたちを過大評価をせずに疑うべきである。彼らのほとんどは大したことがない人物たちである。彼らが大学名遠まわしに伝えたり、本当は公務員であるのに「サラリーマン」と名乗るのは、あながち訳がないわけではない。新聞上では東大出身犯罪者はできるだけ大学名を伏せられる。早慶なら一発で書かれる。どうして人は東大を求めるか。個人の願望を超えてこれを抽象化すれば、資産を獲得しつつの安定人生に直結するからに違いない。福井日銀総裁の資産とその運用を見よ。「アタマがいい」とはこのレベルの話である。辞職しないのなら、せめて「退職金放棄」と言って欲しかった。若くして、高学歴をこのようなことのために得ようと努力することは精神的に卑しいことである。かといって「国家のために」とか「純粋」にはなっても、結果的に就職後に飼いならされてしまう。これを間違っていないと断言できるものは、教育の本当の意味を考えたことがないものたちである。つまり、「哲学」したことのないものたちである。国民の可能性を伸ばすことよりも、飼いならすことを目的にする教育。誰のためにそうするのか。答えは誰のためにもならないのである。こうして国家の総体を蚕食する立場を自ら選ぶものたちは、あらゆる時代を通じて、自らの存在こそが時代の変容の要因になっていることに無自覚なものたちである。彼らが自らそれを手放すことはない。だから我々国民がそれを正当に「剥奪」するのである。我々は「義務」たる税金を払っているのである。以上最早読者お分かりの通り、ほぼ完全に「冗談」で書いた。
2006-08-04 現状学校教育実情<連載8>
_ 現状学校教育実情<連載8>
最近2年前に大学医学部に進学した生徒がやって来た。最初黙って入って来たのを見たとき見覚えのない顔だったので、別の先生の生徒さんかと思った。授業に集中していたので席も立たなかった。
さて授業が終わって近寄って来た彼を見てやっと分った。どえらい変わりようでる。まずえらく老けた。まだ二十歳そこそこなのに20代後半に見える。学生というより勤め人の顔である。
「どうした。ものすごく勉強しているのか?」
「はあまあ、毎週のようにテストはあるし、覚えなければならないことは膨大だし、はっきり言って、受験の時よりはるかに勉強時間が長いですよ。」
「えらいじゃないか。大学へ入って猛勉強する。それこそが立派な学生というものだ。」
「でもねえ、ただ覚えるだけでなんか意味ないんですよ。それも本当にハンパじゃない量ですよ。考えているヒマは一切なし。ただただひたすらに覚える。」
「へ〜最近の医学部はいよいよ暗記なのかね」
「何せ国家試験合格率向上が目標ですから、医者の勉強というより国家試験のための予備校に通っているようなもんですよ。テストの成績が悪いと国家試験受けさせてくれないですからね、うちの大学は。とにかくあまりに覚えることが膨大で、毎週テストが終わると一度前の週に入れたことを完全に忘れなければ次が入れられないほどですよ。同級生たちとは、これって医者になる勉強?とか話しているんですけれどもね。国家試験はマークですからね。結局暗記になりますよね。」
「でもキミの顔はちょっと健康的ではないぜ。理科系の研究者のキチガイ顔でもないし。なんかスポーツでも思いっきりやったら。」
「もう考えてあります。今日から夏休みなので、実家に帰って、祖父の畑で土に触れます。土!それしかないですよ。今の僕を癒してくれるのは。」
最後のところが妙に私の生徒らしかった。
2006-08-06 現状学校教育実情<連載9>
_ 現状学校教育実情<連載9>
医者の試験がマークで、暗記主体なのはなぜだろう。
マークには「公平である」という嘘があり、面接には「ズルがある」という噂がある。というわけでここに、自己推薦文章・面接試験のAO入試が登場するわけであるが、大学の4割が定員割れしている中、「入学予約者」という捉え方は否定することができないだろう。しかし、今後AOは増え続ける。今のところ、結果的にAOで入った学生の方が優秀なことが多いのである。
さて、ある大学にAOで進学したものたちは、あたかも東京大学に落ちて早稲田大学に進んだもののように、ある大学よりやや上の大学の一般入試を断念したものたちである。このことが繰り返されると、一般入試に先行して行われるAOがだんだん一つ上の大学に行くはずである学生を喰うことが多くなり、全ての試験で一番最後にある、センター利用一般入試の国立大学が優秀な学生を採りにくくなる。実は東大の地盤沈下はこうして起こってもいるのである。つまり、文科省は、他ならぬ自らの出身母体である東京大学志望者がバカになるような政策を敢行していることになるのである。ここまで来るとこの団体が「悪意」の集団ではなくて「愚者」の集団であるように「冗談」で思えて来る。
私は、試験の実体は、「できるもの」を採ることよりも「伸びるもの」を採ることにその最大重要点があるのではないかとかねがね思って来た。そうしないと入学後に伸びる学生を他の学校に奪われてしまうからである。ここで読者お分かりだと思うが、マーク試験ではこれから伸びる可能性がある人物であることを判定できない。つまり、本質的には意味のない試験なのである。しかし、いかに愚者の集団によるものとて世の政策で意味のないものなどあるはずがない。ここには「目的」があるはずである。
最早完全に死語となりつつあるが、半世紀前に政府が最も恐れたのは革命を志向する左翼の存在だった。左翼の共通点は読書家であることである。岩波文庫のお客である。以前にも書いたが、旧制高校生は学校の勉強を無視して読書に励んだ。彼らは、デカルトを読み、カントを読み、ヘーゲルを読み、あっという間にマルクスにたどり着いてしまう。旧制高校こそ左翼思想の母体だった。だからこそ、旧制高校は戦後に廃止された。しかし、彼らは親になり指導者になり、左翼思想を次世代に伝え続けた。その結果、安保反対運動や、学園紛争の嵐が吹き起こった。岸信介は窓の外のデモ民衆を見て、二・二六事件を思い出さずにはいられなかったろう。彼は、日米安保条約で防衛予算をアメリカにおっかぶせ、そのアメリカを利用して経済復興を最優先させる判断を下した男である。社会主義が破れた最大の要因は、アメリカ資本主義の華やかさと繁栄である。元A級戦犯岸は、あの時点で、ほぼ国家の最善の選択をしたことになる。「豊かな国家」、それは革命達成後の毛沢東の標語でもある。その岸はデモ隊を前についに自衛隊を投入しなかった。岸は極めて論理明晰な人物である。というより、瀬島一三的に急所での総合判断に優れる現実主義者である。自民党一党独裁官僚癒着政治が諸悪の根源と判断する筆者が、その大元の保守妖怪政治家を認めるのは、正論寄稿的なナンセンスであるが、すでに90年以前に東欧圏を二度に渡って踏査したものが見たその現実は、敢えて「セピア色」に留まる「矛盾」であった。そこには活気のない貧しさがあった。社会主義を崩壊させたのは、その支配者たるビューロクラウトであることは間違いない。つまり試験によって選抜された社会構造責任職の創造的怠惰である。
今私は、私よりやや年上の、ファッションセンスの良い、スマートな中年男性が語るのを聴く。この男性は左翼思想の持ち主で、学生時代はデモに参加した口であるが、日本共産党に投票する阪神ファンである。
「結局何でも良かったんだよね。古いムードが壊せれば。たまたまそこにマルクス主義があったからそれを使ったに過ぎなかったんだね。今思えば、何でも良かったのよ。」
マルクス主義が悪いのではなくマルクス主義の代案がないからまずいのである。
言論の自由を保障した憲法下で、良く読書したものは、必ずマルクスに至る。そこには否定しがたい経済史観がある。人類史のほとんどのことが経済で説明できるのである。マルクスが理想主義者であったことは全世紀の歴史が証明した。近代的統一が遅れて20世紀に持ち込んだ新興国家が、起点の貧しさを克服するために統制経済を採らざるを得ず、そして約半世紀が過ぎて内的不満が爆発し、ソ連や東欧は解体し、抑え切った中共は全人代が司る「資本主義国」になったのである。全然関係ないが、筆者はゲバラや老カストロに龍馬同様、人間的敬意を表すが、それは多分に彼らが理想主義者であったからである。ゲバラは医者であった。マハティールもそうだったかもしれない。マルクスは、人間が報酬条件が同じで競争がない場合労働に積極的ではなくなることを経済哲学者なのに読み切れていなかった。あたかもバルザック的文学的教養の欠如と言っても良い。考えてみれば、筆者が最も尊敬する作家が、神秘思想家であり保守的立場のバルザックであるとは何たる矛盾であろうか。マルクスは、人間が手段である経済的労働を「目的」と勘違いし易いことも予見しなかった。そして世は、自らのより有利な立場を得るために、最も感性や好奇心が強い時期にそれには目もくれず、ひたすら労働的に暗記することが、人生の一般幸福に結びつかないことを理解しない時代である。ひょっとしたらマルクスはこの同一種族村社会内的哲学的真理が分っていたのかもしれない。だとすれば大した「皮肉屋」であるが。ともあれ、マルクスは、多くの人にとって、「キリスト」であり、「アッラー」である時期があった。神を否定しなければならないところがマルクスの優れて一神教文化出身者的ところである。だから神を否定できる。いるかいないかを言葉で規定する遊びは容易い。神を否定するとは神の存在を否定することであり、そのためには神の存在の可能性を前提にしなければならない。私は一応無心論者であるが、私の内面にある個人的対話相手を「神」と呼ぶのなら神の存在に同意しても良い。しかし、その「神」には、永遠に名前がない。彼は答える。「自分とは何か?」の問いに。「そう訊くところのオマエである。」と。これでいくと、どうも左脳から問いかけるところの右脳が「神」ということになる。そしてその認識は言語で行われている。すなわち、我々の支配者たる「神」とは、言語そのものと言って良い。人間を「支配」するもの。それはまさしく言語である。言語を現象学的還元することーそれには言語で遊ぶことーそれには「冗談」で書くこと(冗談)ーそれが私の哲学科での答えだった。
さて、話は医者のマークシート試験のことだった。私は弁護士同様に正義感の強い医者には理想主義的左翼思想者が多いと思う。貧しい医者のほとんどは、左翼兼キリスト教平等博愛主義者である。医者が、カルカッタのマザーと同様の観点に立とうとすることは望ましいことである。さて、医者は、医大入学から国家試験通過まで厳しい勉強にさらされなければなれないのが決まりである。ということは当然、医者はアタマが良い。アタマが良ければ、勉強の傍らに岩波文庫が読める。いくつか読むうちに『資本論』の第1巻を手にする。周りを見渡せば平気で左翼を名乗るものがごろごろいる。まるで旧制高校である。このように、そもそも聡明な医者たちは、当然本を読む能力にも優れているのであるから、反政府的立場を取り易い傾向がある。では我々が政府であればどうしたら良いのか。その答えは、医師国家試験を暗記の厳しいものにして、判断力がないか本を読む暇がないかの状態にはめた上で、国家試験通過後は、良い社会的地位と高給を保証して、反社会的立場に立てないモードにさせるということになる。医者から見れば「階級闘争」の勝利である。これはすでに司法試験で充分に行われて来たことだ。司法試験ではまず選択肢マークで高得点できないと先がないから、医師国家試験以上に暗記が大変である。判断力がない裁判官を生もうというわけである。陪審員制度の導入はこれがホントの理由ではないか。この弊害は世につとに明らかになっていると思う。弁護士だって、社会収入が多ければ体勢批判をする必要がない。以上のように、高度な読書能力のあるものを思想的に骨抜きにするには最後まで暗記試験で苦しめるのが歴史的得策なのである。中国の科挙試験はまさにこのモデルであり、我々は1911年の辛亥革命が、あまりにひどい試験に怒りを爆発させた受験生が起こした暴動が起点であったことを想起すべきであろう。以上言うまでもなく「冗談」で書いた。
2006-08-09 現状学校教育実情<連載10>
_ 現状学校教育実情<連載10>
実はこのブログは、読者御洞察の通り、やや書きためたものをアクセス数に応じて流すシステムを採ってきた。だからこそ、読者の「予見」に驚いて、「韜晦」(「回り道」程度の意)の必要性が生じたのである。もちろんこれもやや「ジョーダン」の戯れ言であるが。やっぱりそろそろ書くのを止めてここら辺りで日常的感官に帰還するために、「お手終い」にしようかとも思うが、もはや、「公器」たらんとする「冗談」的意味合いも含めて、「邪魔」が入らぬ限り、書き進めてしまうべきか迷っている。そもそもこの連載の開始は、ジャーナリズムが機能していないことに対する憤懣が起点だった。今後とも当然、全て完全に「冗談」で書くのでよろしくね。
先日地域の学校の「公開授業」に行って来た。もちろん忙中、その目的は「取材」であるが・・・。
6年のクラス。算数平均値の授業。まず先生(40代前半女性子どもあり)が美しい字で黒板一杯に「三色」で書く。生徒の大半はこれを写す。牛の乳搾りを一週間した統計の話。最小が12リットルで最大が18リットル。先生が質問する。「平均値を置くのはどこがいいのでしょう?12リットルより下か、12〜18リットルの間か、それとも18リットル以上にすべきか?」。まず、12リットル以下だと思う人?」
ここで教壇前のサピックスへ通う「優秀君」が、机に倒れ伏す。聞いていられないと判断したらしい。先生の目の前の8人位は一応授業に参加して手を挙げたりする。その他の周囲は、真面目にやるものとかったるそうにするものと。ハナから聞く気がないものに分かれる。なぜかと言うと、質問が下らないこともさることながら、先生の声が日常会話的な発声なので、よほど耳を傾けない限り先生の周辺にしか聞こえないからである。それにこの教師は多くの生徒と「アイコンタクト」を取る能力がない。
授業進行を見守ると、この授業は彼女が大学で学んだ「決め技的授業」の一つであることが感ぜられる。平均値をどこに取るべきか知らない子どもたちに、平均値をどこに設定するべきかを分らせる確実な授業なのである。先生は、一生懸命生徒に質問して、平均値をどこに定めるべきかを生徒から引き出そうとする。ほとんどの生徒はすでに塾などで予習して答えが分り切っている。分り切り過ぎているから手を挙げることに張り合いがない。多くの子どもが聞くのを辛そうにする。先生はこれにかまわずマニュワル通りに授業を進める。話したり遊んだりする子が出る。でも先生は注意しない。見てみないふりというよりも余計なことを視野から捨象する姿勢である。見ている親からすると、ここまで退屈な授業に耐えている子どもたちが哀れにに見えるはずである。そして、なんと驚くべきことに、平均値をどこに定めるべきかの答えは授業内では出ず、家で考えて来る「宿題」となったのである。
読者の中には「どこに問題があるのか?」と思われる方があるかもしれない。しかし、この授業には、面白味も活気もないのである。つまり、聞いていても頭が活性化しないのである。活性化しない授業を我慢して聴けばバカになる。ただし忍耐力はつく。これはほぼ人間学的常識である。ここでは子どもが好奇心を失ってバカになるための教育が行われている。しかし教師の方ではこの伝統定番の板書き授業を真面目に受けないなんて世の中や家庭の方が間違っていると信じ切っているようだ。しかし、この人は給料をもらうだけの教師的技量に欠ける人なのである。
私はすでに「調査」している。実はこの先生は教頭試験のセミナーに毎週出席して忙しいのである。しかも、このクラスが、「学級崩壊寸前」と噂されているので、校長まで見守りに来ているのである。彼らがしているのは良い授業ではなくて、「問題がない」演出である。しかし、悲しいかな、彼らは、これに人間的「罪の意識」がないのである。人を退屈させることが、教師として最低水準以下であることを自覚しない、幼稚園経営の頑固ババア以下の知能水準なのである。つまり、学校教師の意識の大半は、教育を受ける側が前提とする意識と乖離している。自らの指導力の老朽化を、世の中が分ってくれないからと、信じられない勘違いをするのである。塾でこれをやったらすぐに解雇されることを学校では当然の顔をして行うのである。この人たちは多分カラオケでナツメロを歌うことだろう。
私ならば、平均値の授業なら、「平均値は真ん中付近に採るのが良い」と教え、このことが了解できているものには徐々に難しくなる問題を与えて演習させ、その間に了解できないと思われる子どもを個別で回り、分るように解説する。
平均値を教えるのに、プラスマイナスは教えない。正負の数は、中学一年の最初で習う。どうして小学1年ではないのか?せめて九九の前ではないのか?私には永遠の謎である。寒暖計の読み方だけでも簡単に教えられる。私は、百歩譲って、ことは真面目なこの教師たちにあるのではなく、彼らを教育して資格を与えた教育学部にあるのだと思うことにしよう。大学の教育学部ほど守旧的な自己に自覚的でないところはない。教育問題の全ての源は、大学教育学部の「守旧性」にあると言っても良い。彼らは自己の生活のために、「この世で最も愚かな役所」(石原氏発言)の言いなりになることを選択したものたちである。すなわち、親分の真似をして自己反省しない子分である。彼らは我が国将来よりも自己の立場保全を優先させた政治屋どもの「配下」にある。私は、この社会人の一人として、この一連の末端で子どもたちの知性が犠牲になることを人間としてどうしても看過できない。どうして我々の税金で子どもたちがバカになる教育を行わせ続けることを許せようか。我々は、バカなエリートが支配する銀行を助けるための国家予算の赤字を次世代にツケた。どこの世に、自分の子どもに借金を残して喜ぶ親がいようか?いくら「競争社会」でも、子孫たちが困ることを平気で先送りしようとする親があり得ようか。否! 断じてそんなことはあってはならない。子孫(次世代)に素晴らしきものを残す気がなければ、その前の世代には「存在」の意味がない。個人的な快楽が全体的利益に優先されたとき、そのものは集団内での存在の価値を失う。我々は何としても子どもたちに最良の教育を与えることを=最良の教育環境を設定することを、第一義にしなければ社会内存在としての意味がない。いかなるボランティアの中でも、人間の子どもを未来的に自立させるということほど、ボランティアであるべきものはないだろう。それを、金をもらったら、サービス以上の仕事にならねば、レバノンの病院で被爆者の命を預かる看護婦たちの笑いにさらされることであろう。我々はマザー・テレサを見た。カルカッタで、死の直前の人々を自宅に運び、身体を清めて香を焚き、天国でのblessingをこめてその死に同席して見守る。これは誰にもできて誰にもできぬ行為である。ただ一つはっきりしていることは、彼女がそれを「選んだ」ことである。私は、彼女が、カトリックと関係がないほどの人間的境地に達しているからこそ素晴らしいと思う。人の死を見守ること、それは「殺人」の対極である。
私が、公開授業を参観して、どうしても聞き過ごすことができなかった台詞、それは、授業に真面目に参加していたグループの一人の子が、授業終了後に、大きく後ろへのけぞり、「あ〜超かったるかった!」と、まるで仕事が終わった会社員のように周囲に吐き捨てたことである。わたしは、この生徒の反応を恥じないものは即座に「冗談」で切腹か、教師を辞めるべきだと思う。以上M・ジョーダンにハゲまされて書いた。それにしても、この満月近地WAVEは強いのう。12日頃までバカに注意しようっと。やっぱりボチボチ終わりにするぞ。
2006-08-12 現状学校教育実情<連載了>
_ 現状学校教育実情<連載了>
結局未来方向性的に、金を取って無意味な教育を組織するものが公的にも私的にも必然的に生き残れなくなることは明らかなことであろう。たとえ得点力はついても、子どもを壊しては教育の意味は全くない。多くの人々の無明を利用し、自己組織の安泰のために、子どもの判断力や感受性を奪う闇雲な詰め込み教育に加担したものは、「国家犯罪」に手を貸した、皆後々未来に「詐欺師」として恨まれる組織だったことになるのである。
あらゆる公共サービス、並びに医術同様、教育は心から感謝されようとするものでなければならない。そしてその感謝の気持ちは、いかに子どもを将来性のある人物に可能性づけたかによって決定されるのである。これほどまでに流行っている進学塾が、吉田松陰を掲げないのはまさにこのためであろう。何となれば、松蔭が伝達したものが、自己を超えて他者のためになろうとする「精神」だったからである。
本来教育で最先端資本主義社会的利潤を挙げようとすることは間違っている。資格試験観点的安定支配観も間違っている。行政的教育には機会均等性がなければならない。機会均等性とは、自分の子どもに優先される何かがあることを受け入れることである。これは例えば、藤沢周平を山形師範に推して教育費を肩代わりした教師の姿であるとも言えよう。いくら藤沢少年が輝いていても、もしこの教師がいなければ、我々は藤沢文学を楽しむことができなかったのである。そしてこの機会均等性こそ、公教育が最重視するべきものであったはずなのだ。いかなる天才も文化的先達なしには現れない。天才は産み出されたものではなく、育まれたものである。これを文化の「余裕」と呼ぼう。つまり、天才の背後には、それを支えるものたちがあったということである。新しいことが生まれることを制限し、多くのものを近視眼的視野に導く教育。能力のないものを底辺に位置づける教育。いかなる宗教観や倫理観がなくとも、次世代にヴィジョンを持って当たる教育でなければ、教育の意味はない。教育とは、未来の人生哲学の提示である。筆者は、「理想主義的に」このことに反対するものはいないと考えたい。
最早システム的未来ヴィジョン的に完全に行き詰まった現状公教育において、これに背を向けたやや実力のある教師たちは、塾や私立学校の教師へと転身を終えた。百マス陰山氏が立命館教授の道を選んだのはこの象徴と言えよう。
このことは、公教育現場には、公教育にぶら下がらざるを得ない人たちばかりが残っていることを暗示する。もちろん少ないながら「有意」の方々もいるであろう。しかし、その方々も、資金的に余裕がある場合、同僚と同様の教師たちに、自らの子どもを任せることはしない。中学受験を行い私立の学校に通わせるのである。教師としても、子どもが馬鹿になる教育を受けさせることはどうにも我慢がならないからである。生徒たちは言う。「まともな先生は、20人に1人くらいしかいない。」文科省も、教育委員会も、当の教師たちも、この実体に何と答えるのであろうか。「てめえらは、エリートとは関係ない愚民だから、自らのバカを受け入れて、とっとと最下層労働に従事するべきだ」とでもいうのだろうか。
驚くべきことに、実は彼らは本気でそう考えているのである。「1%のエリートがいれば世の中はやって行ける」。これは文科省官僚の言葉である。個々の子供の能力を伸ばすことよりも、諦めさすことを目的としうる教育、これでは多くの親が私立学校に逃げようとするのは当然ではないか。だいいち私立学校にいかなければ東大には行けず、東大に行かなければ文科省官僚になれない。
私立学校は、その生き残りのために、闇雲な詰め込み教育により、未来可能性的な生徒の育成よりも受験に勝つ生徒だけを求める方向性にある。ここでは大量の落ちこぼれが出る。塾はどうか。多くの塾は、合格者数こそが企業目的の全てと捉えて活動するのは、駿台予備校の合格者数広告戦術を嚆矢として、見え見えのことである。しかもそのためには、ぎりぎりの嘘を利用することも厭わない。
子どもたちは公教育で見放され、私立に通ってもつまらない教育を受ける。だいいち首都圏私立の合格率を保証しているのは、その学校の指導力というよりも、その学校周囲の進学機関の利用実績の結果であることは明白である。
私は、教育とは、子どもたちの知能を向上させ、社会に役立つ人物を創出することだと信じて止まない。それができない全ての教育組織は「詐欺団体」と認識するのが正しいと思う。あまりにひどい教育の現状、さらにそれを感じたものをダマして金を得る教育産業。全てはテレビなどのマスコミを無批判に受け入れる体質から脱しきれない階級からの積極的な「搾取」である。センター試験導入で、その前の世代との教育格差が見えなくなった人たちにそれを気づかせないように行われるのが公教育で、それに変だと思った人をたちどころにダマすことによって成立するのが塾産業で、そういった教育機関で投資を受けた子どもを選んで、合格率を競って生き残っているのが私立学校の教育である。どこを見ても本格的な未来教育ヴィジョンの提示は感じられない。多くのお客はダマされているものたちである。ダマされるものに大量に商品を売るのが資本主義である。ホリエモンはこのことを確実に「透視」した人物であろう。人間的な幸福のために、社会的な地位の可能性を追求するのは、優れて韓国的である。我々は、北朝鮮を見れば見るほど、教育が庶民をダマすためにあることを知る。そして庶民はそれを洞察することができないのである。繰り返しになるが、教育産業の目的とマスメデイアの企業目的とは限りなく相似である。このことに気がつかぬものは、いくら教育資金が芳醇であっても、「バカ」の見本である。「教育」とは、ソクラテスよろしく、自己の魂の最大向上を追求する習慣を与えるものなのである。社会的地位とか財産を第一義にするものではないのである。つまり、ここに、教育を、資本主義的な「投資」と捉えることは全くの誤りということになるのである。「投資」が、世代交代を達成することを意味するのであれば、それは最低限の正しさを保証するだけのことなのである。「教育」を望むものは、自己の願望の根底的な解析が必要である。そして、多くの人が望むものが、未来を抽象する起点となる。つまり、教育とは、哲学なしには語れない「対象」である。このことは判断力のないものが参政権を与えられることの無意味性と相似である。
以上、公器に携わるジャーナリストが真の報道をするその役目を失っていることに鑑みて、その代わりを「冗談」で演じてみせたこの連載をここに終了する。継続読者諸兄に礼申す。すいません。実は書かねばならぬ原稿が押し寄せてもうこんなに真面目(=「冗談」)で書くわけにはいかないのである。
すでに教育を悪用して御飯をたべている人たちにとっては、「噴飯もの」ではあろうと思うが、もちっとましな教育を与えるのが当然なのではないかという観点で「冗談」で記述したことをご理解願いたい。言いたいことはもっとある。しかし、言いたいことを語り過ぎると「文筆業」が成立しないこともご了解願いたい。
_ 2006年 8月 満月後近地点 Joker識す
2006-08-19 最近私事情
_ 最近私事情
10日に82歳の父が入院した。夜中に30分おきに人を呼ぶので看護している母が疲れたのだ。
若い医者は言った。
「家族が24時間ついていてくれるのなら、入院を認めても良い。」
結果的に昼間は母が、夜間は私が介護することになった。
最近私は、午前10時より午後9時まで事務所で仕事。深夜は執筆という生活だったが、この入院で、夜10時から病院に「缶詰」という事態に相成った。8月末までに単行本締め切りが3本ある。
病院にはコンピューターを持ち込めないので、久しぶりでの手書きになった。しかし、それをパソコンで打ち込まなければならない。その時間はない。何度も夜中に尿と便を採り、朝7時に病院を出て、1時間半仮眠を取って、事務所へ出る。病院の仮設ベッドで3時間くらい眠るが、睡眠不足は否めない。「ストレス」とか言っている余裕もない。病人に気遣われるほどである。
フラフラになりながら、私は28年前のアフガニスタン体験を思う。毎日死にそうだった。毎晩今日一日無事に生きていたことを祝った。どんなところでも寝れる。最低3時間は眠る。寝なければ明日の砂漠の灼熱に勝てない。それに比べれば病院の簡易ベッドは大したことはない。
本が売れて読者が増える中、本当に良い原稿を書きたいと思う。しかし、充分な環境はない。これまでいつも思ったことだが、私はたとえ自ら倒れて休息したいと思っても、今のところどんな状態でも結果的に倒れたことがない。倒れたことはただ一度、アフガンの砂漠だった。もし通りすがりのイスラム教徒に救けられなければ、今の私はない。
あの一回の救出がなければ今の私はない。
私は他者に生かされている。
この思いは、変わることがない。
2006-08-23 最近私事情2
_ 最近私事情2
「カシミロンだ!」
夜中に突然父が叫ぶ。
「カシミロンは捨てなければならない。お前この布団を捨てて来い。」
「カシミロンて何のこと?」
「旭化成のカシミロンだ。」
何か夢を見て興奮したらしい。睡眠薬で錯乱するのだ。
「何かコクのあるものが食べたい。アンパンを買って来い。」
また別の夜中。
「パンダだ!」
「えっ?パンダがどうしたの?」
「パンダにやられる。そこら中パンダだらけだ。」
「パンダじゃなくてネズミじゃあないの?」
「いや違う。パンダだ。パンダに決まっているじゃあないか。お前には分らないのか。」
こういう日は30分おきに起こされる。ベッドの上で紙おむつを脱いで小便をしたりもする。朝まで死にそうな思いで対処する。全然眠れない。
「もうオレは生きているのか死んでいるのか分らない。」
「我思うゆえに我ありって言うじゃあないか。そう思うのは意識がある証拠さ。」
錯乱した病人に冗談を言っても始まらない。
こうしてフラフラになってまた一日が経つ。ところが明くる夜は、病人も私も疲れ切っていて、一度も目を覚まさずに朝まで寝てしまう。ついに原稿は全く書けなくなった。
今日から退院させて自宅で看病することにする。本人が自宅で死にたいと言って聞かない。こちらとすれば、実家ならばコンピューターが使えるので好都合。
いや、母が疲れ果てたのもよく分かる。それにしても、子どもがいない人は将来誰に面倒を見てもらうつもりなのか。この相手は肉親にしかできないのではないか。少子高齢化社会の行く末を恐ろしく思う。
2006-08-27 作文地獄
_ 作文地獄
書きたいこと、読者にとって興味あることは山とあるが、いかんせん時間がない。
夏休みも大詰めに至り、例年通り作文の宿題の手伝いに追われている。
自由作文はまだ良いが、指定作文は本当にタチが悪いと思う。憎むべき指定図書感想文よりさらに腹立たしい。生命保険について、年金について、税金について、子どもを洗脳することが目的の作文が多くて本当に驚く。これを学校教師たちが義務づけて書かすことに腹が立って腹が立って仕方がない。どうせ彼らはほとんど読まないのである。生徒たちは成績が下がることの恐怖から書きたくもない題材の作文を書かなければならない。それも一つや二つではない。学校によっては四つ以上の文章提出物を課す。これぞ究極、教師(=公務員)にとって楽である民間人苦しめ官僚的業務行動である。自分たちが苦しめられているのと同様のことを、各家庭や子どもたちに課して楽しむのである。切れる子どもが出てもおかしくない。子どもは給料をもらえない。
埼玉朝日新聞販売店員放火事件で。フジテレビの取材に応じ、カットしまくりの上で放映されたが、そもそも学校の無意味な作文宿題がなかったならば絶対に起こらない事件であったことを忘れてはならない。書き方の指導はしない。添削もほとんどしない。ただ指示規定を紙に書いて配布するだけ。提出しなければ内申点をやらない理由にする。多くの家庭では親が手伝っているに決まっている。親が手伝えない子どもたちは悲鳴を上げている。どうしたら良いか分らないに違いない。子どもを犠牲にして平然とする教育者たち。それを命令する管理職たち。しかも、税金の大切さや、生命保険のありがたさについて述べるという、苦痛以外の何ものでもない何の面白味もない作文テーマ。しかも一つではない複数の課題。子どもたちから消費税を取って、国家予算の膨大な赤字を彼らにつけて、平然と税金の大切さの作文や、生命保険の必要性を考えさせる作文を書かせることに何の顧慮もない人たちの感性を全く理解できないのは私だけだろうか。
2006-08-30 文科省来年度概算要求
_ 文科省来年度概算要求
ああ、もう本当に文科省は利権がすべてを先行する団体から全くもって抜け出せないというのだ。
どうしたら良いか分っているかどうかは別として、文科省は教育の状態を改善せよという世間の「追い風」にのって大幅に増額の概算要求をした。一般会計は当初予算比13%増の5兆8千34億円である。増え続ける老人のための医療費が30兆というのに比べたら金額的にはどうして次世代にお金をもっと使わないのと思えるほどの少子高齢価格かもしれないが、問題は金の使い道である。小学校の英語活動充実には、38億円で、使途は教材費と教員研修費である。塾へ行かない子を救済する放課後補習教室には、137億円を計上。そしてやっぱり来ました。全国学力テストの関係費に115億円を計上!と、まさに相変わらず「やりたい放題」なのであります。こんなことを書くと文科省にぶっ殺されるかもしれないので,以下慎んで「冗談」で書くが、彼らは動物の血をちょっと採って、ついでに余計なものを注入して我々を苦しめるカのような存在に喩えるのが適当なのである。私が申したいのは、全ての事柄の始めにこれがありきではないかということであります。経済系「ロビイスト」が英語学習の大切さを吹きまくる。そこには英語系出版社がついている。天下り暗黙ワンポイントで種が播かれる。有形無形のキックバックが可能である。小学校の英語教育導入が決まる。印刷物を作る。全国学力テストが必要という。そして、その結果、ある意味無意味な試験のために100億円が必要という。初めにこれありきなのである。新たに学力試験の「会社」を作ればその後役人みんなで安泰で,子どもは地獄なのである。この人たちはよっぽど試験が辛くないタイプなんだね。どんなに多くの人が試験で人を計られるのをストレスに感じているのか分らないんだね。「犯罪」ですらあり得るということが。国家予算を食い物にするための企画。はっきり言ってそんなことより人件費に金を使って欲しいですよ。教師にボーナス出してこれからはやる気にならないと給料を下げると脅して、ついでに試験もやってももったら費用なんてほとんどかからないじゃあないですか。予備校の請け負いでも3億もかかんないですよ。それがあんた115億円!ということは新しい建物とその執務室におかれる高給チェアーの革の新鮮な匂いが予算書の上に薄らとしかし確実に漂ってくるではありませんか。初めに何かを作ることが決定する。その何かは国家予算でまかなわれるものである。国のお金はどこかへ流れる。その先は企業と役人。これって本当にバレないと思ってやっている知恵なんでしょうか。それともバレないわけがないことがバレないようにする別の能力なのでしょうか。まっ仕方がないってことですね。あんたらの上で決まったことでもあるしね。そんなにお金がかかる試験は止めるべきというのが「常識」です。みなさ〜ん、多分ここには、ヤバい匂いがするがゆえに、何かがありまっせ。大きな利権が介在した可能性が極めて高いでっせ〜(「冗談!」)。でもね〜その教師たちがね〜校長もねえ〜、やっぱり「手術」しかないですよ、これは。でも明らかにひん死の重症の病人が、「オレはそんなことはない」って言い張るんですから,ここで必要なのはやっぱり「精密検査」ということになるでしょう。すると当然「検査費」が計上されるわけで、その「文科省実体活動検査費」にも何億か計上してもらって、そこにも文科省天下りオンブズマンを配置して・・・と夢と「冗談」はきりがないのですが、私は来年度予算として、「文科省活動精密検査費」を計上することを切にここにご提言申し上げて、涙の代わりの憂さを流させていただきます。無力無知な国民にとって、お上のやられることに背きようがないというのは,「和」の思想以前のこの国に染み付いた「国民的叡智」であります。どうかどうか国民の上に立たれる皆様方、せめて明日の日本の子どもたちのことを第一義にした現場認識の濃い教育の方向性のご提言を。あなたたちには子どもたちの悲鳴がまだ聞こえないというのですか。以上当然語りきれぬ「冗談」で書いた。