2006-08-12 現状学校教育実情<連載了>
_ 現状学校教育実情<連載了>
結局未来方向性的に、金を取って無意味な教育を組織するものが公的にも私的にも必然的に生き残れなくなることは明らかなことであろう。たとえ得点力はついても、子どもを壊しては教育の意味は全くない。多くの人々の無明を利用し、自己組織の安泰のために、子どもの判断力や感受性を奪う闇雲な詰め込み教育に加担したものは、「国家犯罪」に手を貸した、皆後々未来に「詐欺師」として恨まれる組織だったことになるのである。
あらゆる公共サービス、並びに医術同様、教育は心から感謝されようとするものでなければならない。そしてその感謝の気持ちは、いかに子どもを将来性のある人物に可能性づけたかによって決定されるのである。これほどまでに流行っている進学塾が、吉田松陰を掲げないのはまさにこのためであろう。何となれば、松蔭が伝達したものが、自己を超えて他者のためになろうとする「精神」だったからである。
本来教育で最先端資本主義社会的利潤を挙げようとすることは間違っている。資格試験観点的安定支配観も間違っている。行政的教育には機会均等性がなければならない。機会均等性とは、自分の子どもに優先される何かがあることを受け入れることである。これは例えば、藤沢周平を山形師範に推して教育費を肩代わりした教師の姿であるとも言えよう。いくら藤沢少年が輝いていても、もしこの教師がいなければ、我々は藤沢文学を楽しむことができなかったのである。そしてこの機会均等性こそ、公教育が最重視するべきものであったはずなのだ。いかなる天才も文化的先達なしには現れない。天才は産み出されたものではなく、育まれたものである。これを文化の「余裕」と呼ぼう。つまり、天才の背後には、それを支えるものたちがあったということである。新しいことが生まれることを制限し、多くのものを近視眼的視野に導く教育。能力のないものを底辺に位置づける教育。いかなる宗教観や倫理観がなくとも、次世代にヴィジョンを持って当たる教育でなければ、教育の意味はない。教育とは、未来の人生哲学の提示である。筆者は、「理想主義的に」このことに反対するものはいないと考えたい。
最早システム的未来ヴィジョン的に完全に行き詰まった現状公教育において、これに背を向けたやや実力のある教師たちは、塾や私立学校の教師へと転身を終えた。百マス陰山氏が立命館教授の道を選んだのはこの象徴と言えよう。
このことは、公教育現場には、公教育にぶら下がらざるを得ない人たちばかりが残っていることを暗示する。もちろん少ないながら「有意」の方々もいるであろう。しかし、その方々も、資金的に余裕がある場合、同僚と同様の教師たちに、自らの子どもを任せることはしない。中学受験を行い私立の学校に通わせるのである。教師としても、子どもが馬鹿になる教育を受けさせることはどうにも我慢がならないからである。生徒たちは言う。「まともな先生は、20人に1人くらいしかいない。」文科省も、教育委員会も、当の教師たちも、この実体に何と答えるのであろうか。「てめえらは、エリートとは関係ない愚民だから、自らのバカを受け入れて、とっとと最下層労働に従事するべきだ」とでもいうのだろうか。
驚くべきことに、実は彼らは本気でそう考えているのである。「1%のエリートがいれば世の中はやって行ける」。これは文科省官僚の言葉である。個々の子供の能力を伸ばすことよりも、諦めさすことを目的としうる教育、これでは多くの親が私立学校に逃げようとするのは当然ではないか。だいいち私立学校にいかなければ東大には行けず、東大に行かなければ文科省官僚になれない。
私立学校は、その生き残りのために、闇雲な詰め込み教育により、未来可能性的な生徒の育成よりも受験に勝つ生徒だけを求める方向性にある。ここでは大量の落ちこぼれが出る。塾はどうか。多くの塾は、合格者数こそが企業目的の全てと捉えて活動するのは、駿台予備校の合格者数広告戦術を嚆矢として、見え見えのことである。しかもそのためには、ぎりぎりの嘘を利用することも厭わない。
子どもたちは公教育で見放され、私立に通ってもつまらない教育を受ける。だいいち首都圏私立の合格率を保証しているのは、その学校の指導力というよりも、その学校周囲の進学機関の利用実績の結果であることは明白である。
私は、教育とは、子どもたちの知能を向上させ、社会に役立つ人物を創出することだと信じて止まない。それができない全ての教育組織は「詐欺団体」と認識するのが正しいと思う。あまりにひどい教育の現状、さらにそれを感じたものをダマして金を得る教育産業。全てはテレビなどのマスコミを無批判に受け入れる体質から脱しきれない階級からの積極的な「搾取」である。センター試験導入で、その前の世代との教育格差が見えなくなった人たちにそれを気づかせないように行われるのが公教育で、それに変だと思った人をたちどころにダマすことによって成立するのが塾産業で、そういった教育機関で投資を受けた子どもを選んで、合格率を競って生き残っているのが私立学校の教育である。どこを見ても本格的な未来教育ヴィジョンの提示は感じられない。多くのお客はダマされているものたちである。ダマされるものに大量に商品を売るのが資本主義である。ホリエモンはこのことを確実に「透視」した人物であろう。人間的な幸福のために、社会的な地位の可能性を追求するのは、優れて韓国的である。我々は、北朝鮮を見れば見るほど、教育が庶民をダマすためにあることを知る。そして庶民はそれを洞察することができないのである。繰り返しになるが、教育産業の目的とマスメデイアの企業目的とは限りなく相似である。このことに気がつかぬものは、いくら教育資金が芳醇であっても、「バカ」の見本である。「教育」とは、ソクラテスよろしく、自己の魂の最大向上を追求する習慣を与えるものなのである。社会的地位とか財産を第一義にするものではないのである。つまり、ここに、教育を、資本主義的な「投資」と捉えることは全くの誤りということになるのである。「投資」が、世代交代を達成することを意味するのであれば、それは最低限の正しさを保証するだけのことなのである。「教育」を望むものは、自己の願望の根底的な解析が必要である。そして、多くの人が望むものが、未来を抽象する起点となる。つまり、教育とは、哲学なしには語れない「対象」である。このことは判断力のないものが参政権を与えられることの無意味性と相似である。
以上、公器に携わるジャーナリストが真の報道をするその役目を失っていることに鑑みて、その代わりを「冗談」で演じてみせたこの連載をここに終了する。継続読者諸兄に礼申す。すいません。実は書かねばならぬ原稿が押し寄せてもうこんなに真面目(=「冗談」)で書くわけにはいかないのである。
すでに教育を悪用して御飯をたべている人たちにとっては、「噴飯もの」ではあろうと思うが、もちっとましな教育を与えるのが当然なのではないかという観点で「冗談」で記述したことをご理解願いたい。言いたいことはもっとある。しかし、言いたいことを語り過ぎると「文筆業」が成立しないこともご了解願いたい。
_ 2006年 8月 満月後近地点 Joker識す