2006-08-09 現状学校教育実情<連載10>
_ 現状学校教育実情<連載10>
実はこのブログは、読者御洞察の通り、やや書きためたものをアクセス数に応じて流すシステムを採ってきた。だからこそ、読者の「予見」に驚いて、「韜晦」(「回り道」程度の意)の必要性が生じたのである。もちろんこれもやや「ジョーダン」の戯れ言であるが。やっぱりそろそろ書くのを止めてここら辺りで日常的感官に帰還するために、「お手終い」にしようかとも思うが、もはや、「公器」たらんとする「冗談」的意味合いも含めて、「邪魔」が入らぬ限り、書き進めてしまうべきか迷っている。そもそもこの連載の開始は、ジャーナリズムが機能していないことに対する憤懣が起点だった。今後とも当然、全て完全に「冗談」で書くのでよろしくね。
先日地域の学校の「公開授業」に行って来た。もちろん忙中、その目的は「取材」であるが・・・。
6年のクラス。算数平均値の授業。まず先生(40代前半女性子どもあり)が美しい字で黒板一杯に「三色」で書く。生徒の大半はこれを写す。牛の乳搾りを一週間した統計の話。最小が12リットルで最大が18リットル。先生が質問する。「平均値を置くのはどこがいいのでしょう?12リットルより下か、12〜18リットルの間か、それとも18リットル以上にすべきか?」。まず、12リットル以下だと思う人?」
ここで教壇前のサピックスへ通う「優秀君」が、机に倒れ伏す。聞いていられないと判断したらしい。先生の目の前の8人位は一応授業に参加して手を挙げたりする。その他の周囲は、真面目にやるものとかったるそうにするものと。ハナから聞く気がないものに分かれる。なぜかと言うと、質問が下らないこともさることながら、先生の声が日常会話的な発声なので、よほど耳を傾けない限り先生の周辺にしか聞こえないからである。それにこの教師は多くの生徒と「アイコンタクト」を取る能力がない。
授業進行を見守ると、この授業は彼女が大学で学んだ「決め技的授業」の一つであることが感ぜられる。平均値をどこに取るべきか知らない子どもたちに、平均値をどこに設定するべきかを分らせる確実な授業なのである。先生は、一生懸命生徒に質問して、平均値をどこに定めるべきかを生徒から引き出そうとする。ほとんどの生徒はすでに塾などで予習して答えが分り切っている。分り切り過ぎているから手を挙げることに張り合いがない。多くの子どもが聞くのを辛そうにする。先生はこれにかまわずマニュワル通りに授業を進める。話したり遊んだりする子が出る。でも先生は注意しない。見てみないふりというよりも余計なことを視野から捨象する姿勢である。見ている親からすると、ここまで退屈な授業に耐えている子どもたちが哀れにに見えるはずである。そして、なんと驚くべきことに、平均値をどこに定めるべきかの答えは授業内では出ず、家で考えて来る「宿題」となったのである。
読者の中には「どこに問題があるのか?」と思われる方があるかもしれない。しかし、この授業には、面白味も活気もないのである。つまり、聞いていても頭が活性化しないのである。活性化しない授業を我慢して聴けばバカになる。ただし忍耐力はつく。これはほぼ人間学的常識である。ここでは子どもが好奇心を失ってバカになるための教育が行われている。しかし教師の方ではこの伝統定番の板書き授業を真面目に受けないなんて世の中や家庭の方が間違っていると信じ切っているようだ。しかし、この人は給料をもらうだけの教師的技量に欠ける人なのである。
私はすでに「調査」している。実はこの先生は教頭試験のセミナーに毎週出席して忙しいのである。しかも、このクラスが、「学級崩壊寸前」と噂されているので、校長まで見守りに来ているのである。彼らがしているのは良い授業ではなくて、「問題がない」演出である。しかし、悲しいかな、彼らは、これに人間的「罪の意識」がないのである。人を退屈させることが、教師として最低水準以下であることを自覚しない、幼稚園経営の頑固ババア以下の知能水準なのである。つまり、学校教師の意識の大半は、教育を受ける側が前提とする意識と乖離している。自らの指導力の老朽化を、世の中が分ってくれないからと、信じられない勘違いをするのである。塾でこれをやったらすぐに解雇されることを学校では当然の顔をして行うのである。この人たちは多分カラオケでナツメロを歌うことだろう。
私ならば、平均値の授業なら、「平均値は真ん中付近に採るのが良い」と教え、このことが了解できているものには徐々に難しくなる問題を与えて演習させ、その間に了解できないと思われる子どもを個別で回り、分るように解説する。
平均値を教えるのに、プラスマイナスは教えない。正負の数は、中学一年の最初で習う。どうして小学1年ではないのか?せめて九九の前ではないのか?私には永遠の謎である。寒暖計の読み方だけでも簡単に教えられる。私は、百歩譲って、ことは真面目なこの教師たちにあるのではなく、彼らを教育して資格を与えた教育学部にあるのだと思うことにしよう。大学の教育学部ほど守旧的な自己に自覚的でないところはない。教育問題の全ての源は、大学教育学部の「守旧性」にあると言っても良い。彼らは自己の生活のために、「この世で最も愚かな役所」(石原氏発言)の言いなりになることを選択したものたちである。すなわち、親分の真似をして自己反省しない子分である。彼らは我が国将来よりも自己の立場保全を優先させた政治屋どもの「配下」にある。私は、この社会人の一人として、この一連の末端で子どもたちの知性が犠牲になることを人間としてどうしても看過できない。どうして我々の税金で子どもたちがバカになる教育を行わせ続けることを許せようか。我々は、バカなエリートが支配する銀行を助けるための国家予算の赤字を次世代にツケた。どこの世に、自分の子どもに借金を残して喜ぶ親がいようか?いくら「競争社会」でも、子孫たちが困ることを平気で先送りしようとする親があり得ようか。否! 断じてそんなことはあってはならない。子孫(次世代)に素晴らしきものを残す気がなければ、その前の世代には「存在」の意味がない。個人的な快楽が全体的利益に優先されたとき、そのものは集団内での存在の価値を失う。我々は何としても子どもたちに最良の教育を与えることを=最良の教育環境を設定することを、第一義にしなければ社会内存在としての意味がない。いかなるボランティアの中でも、人間の子どもを未来的に自立させるということほど、ボランティアであるべきものはないだろう。それを、金をもらったら、サービス以上の仕事にならねば、レバノンの病院で被爆者の命を預かる看護婦たちの笑いにさらされることであろう。我々はマザー・テレサを見た。カルカッタで、死の直前の人々を自宅に運び、身体を清めて香を焚き、天国でのblessingをこめてその死に同席して見守る。これは誰にもできて誰にもできぬ行為である。ただ一つはっきりしていることは、彼女がそれを「選んだ」ことである。私は、彼女が、カトリックと関係がないほどの人間的境地に達しているからこそ素晴らしいと思う。人の死を見守ること、それは「殺人」の対極である。
私が、公開授業を参観して、どうしても聞き過ごすことができなかった台詞、それは、授業に真面目に参加していたグループの一人の子が、授業終了後に、大きく後ろへのけぞり、「あ〜超かったるかった!」と、まるで仕事が終わった会社員のように周囲に吐き捨てたことである。わたしは、この生徒の反応を恥じないものは即座に「冗談」で切腹か、教師を辞めるべきだと思う。以上M・ジョーダンにハゲまされて書いた。それにしても、この満月近地WAVEは強いのう。12日頃までバカに注意しようっと。やっぱりボチボチ終わりにするぞ。