ブイネット教育相談事務所


2006-08-06 現状学校教育実情<連載9>

_ 現状学校教育実情<連載9>

医者の試験がマークで、暗記主体なのはなぜだろう。

マークには「公平である」という嘘があり、面接には「ズルがある」という噂がある。というわけでここに、自己推薦文章・面接試験のAO入試が登場するわけであるが、大学の4割が定員割れしている中、「入学予約者」という捉え方は否定することができないだろう。しかし、今後AOは増え続ける。今のところ、結果的にAOで入った学生の方が優秀なことが多いのである。

さて、ある大学にAOで進学したものたちは、あたかも東京大学に落ちて早稲田大学に進んだもののように、ある大学よりやや上の大学の一般入試を断念したものたちである。このことが繰り返されると、一般入試に先行して行われるAOがだんだん一つ上の大学に行くはずである学生を喰うことが多くなり、全ての試験で一番最後にある、センター利用一般入試の国立大学が優秀な学生を採りにくくなる。実は東大の地盤沈下はこうして起こってもいるのである。つまり、文科省は、他ならぬ自らの出身母体である東京大学志望者がバカになるような政策を敢行していることになるのである。ここまで来るとこの団体が「悪意」の集団ではなくて「愚者」の集団であるように「冗談」で思えて来る。

私は、試験の実体は、「できるもの」を採ることよりも「伸びるもの」を採ることにその最大重要点があるのではないかとかねがね思って来た。そうしないと入学後に伸びる学生を他の学校に奪われてしまうからである。ここで読者お分かりだと思うが、マーク試験ではこれから伸びる可能性がある人物であることを判定できない。つまり、本質的には意味のない試験なのである。しかし、いかに愚者の集団によるものとて世の政策で意味のないものなどあるはずがない。ここには「目的」があるはずである。

最早完全に死語となりつつあるが、半世紀前に政府が最も恐れたのは革命を志向する左翼の存在だった。左翼の共通点は読書家であることである。岩波文庫のお客である。以前にも書いたが、旧制高校生は学校の勉強を無視して読書に励んだ。彼らは、デカルトを読み、カントを読み、ヘーゲルを読み、あっという間にマルクスにたどり着いてしまう。旧制高校こそ左翼思想の母体だった。だからこそ、旧制高校は戦後に廃止された。しかし、彼らは親になり指導者になり、左翼思想を次世代に伝え続けた。その結果、安保反対運動や、学園紛争の嵐が吹き起こった。岸信介は窓の外のデモ民衆を見て、二・二六事件を思い出さずにはいられなかったろう。彼は、日米安保条約で防衛予算をアメリカにおっかぶせ、そのアメリカを利用して経済復興を最優先させる判断を下した男である。社会主義が破れた最大の要因は、アメリカ資本主義の華やかさと繁栄である。元A級戦犯岸は、あの時点で、ほぼ国家の最善の選択をしたことになる。「豊かな国家」、それは革命達成後の毛沢東の標語でもある。その岸はデモ隊を前についに自衛隊を投入しなかった。岸は極めて論理明晰な人物である。というより、瀬島一三的に急所での総合判断に優れる現実主義者である。自民党一党独裁官僚癒着政治が諸悪の根源と判断する筆者が、その大元の保守妖怪政治家を認めるのは、正論寄稿的なナンセンスであるが、すでに90年以前に東欧圏を二度に渡って踏査したものが見たその現実は、敢えて「セピア色」に留まる「矛盾」であった。そこには活気のない貧しさがあった。社会主義を崩壊させたのは、その支配者たるビューロクラウトであることは間違いない。つまり試験によって選抜された社会構造責任職の創造的怠惰である。

今私は、私よりやや年上の、ファッションセンスの良い、スマートな中年男性が語るのを聴く。この男性は左翼思想の持ち主で、学生時代はデモに参加した口であるが、日本共産党に投票する阪神ファンである。

「結局何でも良かったんだよね。古いムードが壊せれば。たまたまそこにマルクス主義があったからそれを使ったに過ぎなかったんだね。今思えば、何でも良かったのよ。」

マルクス主義が悪いのではなくマルクス主義の代案がないからまずいのである。

言論の自由を保障した憲法下で、良く読書したものは、必ずマルクスに至る。そこには否定しがたい経済史観がある。人類史のほとんどのことが経済で説明できるのである。マルクスが理想主義者であったことは全世紀の歴史が証明した。近代的統一が遅れて20世紀に持ち込んだ新興国家が、起点の貧しさを克服するために統制経済を採らざるを得ず、そして約半世紀が過ぎて内的不満が爆発し、ソ連や東欧は解体し、抑え切った中共は全人代が司る「資本主義国」になったのである。全然関係ないが、筆者はゲバラや老カストロに龍馬同様、人間的敬意を表すが、それは多分に彼らが理想主義者であったからである。ゲバラは医者であった。マハティールもそうだったかもしれない。マルクスは、人間が報酬条件が同じで競争がない場合労働に積極的ではなくなることを経済哲学者なのに読み切れていなかった。あたかもバルザック的文学的教養の欠如と言っても良い。考えてみれば、筆者が最も尊敬する作家が、神秘思想家であり保守的立場のバルザックであるとは何たる矛盾であろうか。マルクスは、人間が手段である経済的労働を「目的」と勘違いし易いことも予見しなかった。そして世は、自らのより有利な立場を得るために、最も感性や好奇心が強い時期にそれには目もくれず、ひたすら労働的に暗記することが、人生の一般幸福に結びつかないことを理解しない時代である。ひょっとしたらマルクスはこの同一種族村社会内的哲学的真理が分っていたのかもしれない。だとすれば大した「皮肉屋」であるが。ともあれ、マルクスは、多くの人にとって、「キリスト」であり、「アッラー」である時期があった。神を否定しなければならないところがマルクスの優れて一神教文化出身者的ところである。だから神を否定できる。いるかいないかを言葉で規定する遊びは容易い。神を否定するとは神の存在を否定することであり、そのためには神の存在の可能性を前提にしなければならない。私は一応無心論者であるが、私の内面にある個人的対話相手を「神」と呼ぶのなら神の存在に同意しても良い。しかし、その「神」には、永遠に名前がない。彼は答える。「自分とは何か?」の問いに。「そう訊くところのオマエである。」と。これでいくと、どうも左脳から問いかけるところの右脳が「神」ということになる。そしてその認識は言語で行われている。すなわち、我々の支配者たる「神」とは、言語そのものと言って良い。人間を「支配」するもの。それはまさしく言語である。言語を現象学的還元することーそれには言語で遊ぶことーそれには「冗談」で書くこと(冗談)ーそれが私の哲学科での答えだった。

さて、話は医者のマークシート試験のことだった。私は弁護士同様に正義感の強い医者には理想主義的左翼思想者が多いと思う。貧しい医者のほとんどは、左翼兼キリスト教平等博愛主義者である。医者が、カルカッタのマザーと同様の観点に立とうとすることは望ましいことである。さて、医者は、医大入学から国家試験通過まで厳しい勉強にさらされなければなれないのが決まりである。ということは当然、医者はアタマが良い。アタマが良ければ、勉強の傍らに岩波文庫が読める。いくつか読むうちに『資本論』の第1巻を手にする。周りを見渡せば平気で左翼を名乗るものがごろごろいる。まるで旧制高校である。このように、そもそも聡明な医者たちは、当然本を読む能力にも優れているのであるから、反政府的立場を取り易い傾向がある。では我々が政府であればどうしたら良いのか。その答えは、医師国家試験を暗記の厳しいものにして、判断力がないか本を読む暇がないかの状態にはめた上で、国家試験通過後は、良い社会的地位と高給を保証して、反社会的立場に立てないモードにさせるということになる。医者から見れば「階級闘争」の勝利である。これはすでに司法試験で充分に行われて来たことだ。司法試験ではまず選択肢マークで高得点できないと先がないから、医師国家試験以上に暗記が大変である。判断力がない裁判官を生もうというわけである。陪審員制度の導入はこれがホントの理由ではないか。この弊害は世につとに明らかになっていると思う。弁護士だって、社会収入が多ければ体勢批判をする必要がない。以上のように、高度な読書能力のあるものを思想的に骨抜きにするには最後まで暗記試験で苦しめるのが歴史的得策なのである。中国の科挙試験はまさにこのモデルであり、我々は1911年の辛亥革命が、あまりにひどい試験に怒りを爆発させた受験生が起こした暴動が起点であったことを想起すべきであろう。以上言うまでもなく「冗談」で書いた。