ブイネット教育相談事務所


2008-01-17 のろし

_ のろし 

困ったねえ。ネタはあるけど時間がない。寿司屋ならばお客が怒鳴り掛かるところだ。

今回入試、N研はややえげつなかったね。実はそういうわけで政府教育諮問団体に名を連ねているわけね。もうすぐ経団連入りかもね。高木のところの玉川育ちは無事に跡目を継げているのであろうか。いやオヤジが完全に株式で握っていることだろう。まあ、ダマされる私立学校がアホなんだけれども、それに乗せられた保護者は本当に気の毒だと思うが、乗せられた側が気がつけないからいかんともしがたい。まあ四谷にしろ最近はサピにしろ、他も似たようなことしているようだからしかたがないが、上が腐れば下も腐る。文科省も旧日教組もよく噛み締めて欲しい。これは公教育から私立教育への「移民」がさらに堰を切って一般化する決定的なのろしとも言える。国税の無駄遣いの結果が、子を思う親たちの家計を必要以上に圧迫する。しかもその教育には未来ビジョンがない。おい、教育学者どももだぜ、オマエさんたち、この状況でいまさら、「国費」で研究する「資格」なんてないだろうが。カゲヤマは岡大法出身だぜ。塾や予備校の教師で教育学部出身なんてほとんどいないよ。優れた未来ヴィジョンを提示できないと同様に、優れた教師を輩出できない教育学者なんて、限りなく存在の意義がない。「アイデア」がないのは、文科省と全くおんなじよ。国立大学教授は、全てとりあえず「疑い」の対象である。そこには国家によるインチキ「優秀者」の「天上がり」の可能性がある。

社会民主主義者指向者である私であるが、こと教育の現場の人材についてばかりは、「新自由主義」を掲げる。なぜかといえば、他ならぬそれを受ける多くの子どもたちがそれを強く希求している声が大きいからである。楽しくてためになり、しかも示唆に富む授業をする能力がなくてどうして教師を名乗れようか。教師は有機野菜と同じである。子どもの健康には旬で栄養がなければ話にならない。「知識」ではなくて「経験」を語るものでなければならない。我が国の未来を背負う教育において、このハードルは絶対に譲れない。しかしもちろん、強ち年齢のことを言っているのではない。能力のないものは、自発的倫理観に基づいて教職を去れ、と言いたい。

組織権益保存を優先させて、国にも教育者にも積極的な未来教育を提言する気がないのだ。そんなことはもう30年来続いている。「私立」と「公立」の最も大きな違いは、「私立」が、「国家教育」を逸脱できる点である。実は進学塾もそうかもしれない。その「私立」に多くの人が殺到する。ここにすでに、公立教育が「民主主義的」に見切られているのは明らかだと思う。

やっぱり最も悪いのは、これを放置する(=無意味に規制し続ける)国家教育機関の「方針」なのである。

そしてその「指導者」たちだったのである。

彼らは、「グローバル社会」をも「少子高齢化社会」をも、マスコミより遅れて認識した意味において完全に「無能」である。

以上当然のごとく、養老タケシ風に、「冗談」で書いた。