ブイネット教育相談事務所


2008-08-19 「犠牲者」

_ 「犠牲者」

辛い。

私は、「人の人生95年」を鑑みて、子どもを「壊さ」ないで受験成功を演出する教育コンサルタントであるが、そう暢長な心を持ち得ないのがクライアントの多数の実体でもある。「欲」は、「知」を簡単に捨象してしまう。

もし、受験成功を夢見させて、子どもたちを壊すことに加担して金品を得れば、その瞬間に、いかなる意味でも、「教育者」としての存在意義は倫理的に失われてしまう。この自明の理を了解すると、ただ受験に合格させるだけの相談は受け付けないことが正しいことになる。だからこそ私は、30年以上に渡って、クビを覚悟で、お客の価値観に背く「真理」を口にすることを「アレテー」にしてきた。しかし、「変化」を見せない相手を前にしては、経験的力不足を痛感するのみである。縁遠い存在である。

1対1でやって、1対多の受験機関に負けるのであれば、「商売」にならない。「無能」おろか、「詐欺」に近いということになってしまう。1対多に勝るものを与えられなければ、「プロ」を名乗ることはできない。

私は、進学校が真に求める人材は、親か、その選んだ指導者が優れていることの可否によって判断されると、歴30年の経験から客観化している。そしてそれが「塾」ではない時代がやって来ようとしていることも「喝破」する。

どう見ても、チェーン店的進学塾のしていることは、「合格の可能性の高い生徒を部分集合として集め、それら上位集団の確実的な合格によって体裁を保ち、次年度の生徒数を増やすことで営業を持続することに過ぎない、と客観化される。バカな親の子どもが壊れることはその親の責任にするのである。ここには、中山元文科省ならぬ、「競争原理」の共同幻想の成れの果てがある。

―全体としての「戦い」に勝てば、「戦死者」が出てもやむを得ない。

これは「教育」とはおよそ関係のないテーゼであろう。

教育とは全体水準を上げることをその本来の目的とするものだ。強弱の差別化ではない。

早い段階で「詰め込み」に成功したものが、優位に立てることを前提にするのなら、そのものたちの多くは、主体的自己向上における、あの、大脳の光り輝ける瞬間を捨象したことになろう。にもかかわらず、自分たちを、「勝利者」、「優越者」と「錯覚」することだろう。この感覚は、エリートたちから「主体性」と「判断力」を奪う。医者も弁護士も高級官僚も高所得会社員も同様である。こういった自覚のないものたちの真の「犠牲者」は、彼らの配偶者と子どもたちだと言えるかもしれない。

子どもを「主体的」にさせること。

子どもに、自ら主体的になることによる「エネルギー」の無限増加の可能性があることを悟らせること。「光明」を見い出させること。自己の魂の永遠の向上性を確信させること。これが教育の真の目的である。それは古代ギリシアの時代から決まったことだった。そして、それには創造的な自由時間が不可欠であることは言うまでもない。

以上、満月なので、久しぶりで「冗談」で書いた。