2008-11-30 「嘘つき」
_ 「嘘つき」
アクセス数がまた急増したので、「調整」のために、末期的進学塾公開模擬試験のマネをして、問題量を多くし、「受験者」の「踏み絵」を自主的に図る。
どうも文科省は「ヤバい!」らしい。にもかかわらず、「反省」は書けないから指導要領はあのようになるらしい。まあ煎じ詰めれば、揚げ足取りにできるだけ合わないことだけが目的の無自覚「延命レトリック」なのであるが、これを、当の教師たちが精読すると、彼らも知らず生徒対処にこれを用いるようになる。「けむにまく」といったら言葉は単純だが、要は嘘をつくことを自己容認することである。この意味で、「指導要領」のレトリック効果はマコトに大きい。
最近のやや知恵の生えた小学上級生はほぼ全員「嘘つき」である。「冗談執筆業」のこの私がそれを見破れないわけがない。臨床個人指導体験30年の私が目の前にいるのだ。と、気張ってみても、悲しくなるくらい彼らはすでにとりあえず「嘘つき」なのである。
我々大人にとってこれは苦しいことであるはずである。実際、メディアに映る大人社会は上から下まで、ウソ、イイワケ、スリカエ、ゴマカシの未曾有の頻繁踏襲である。
中学生3人に問うてみると、彼らがそうなるのは、親と学校の先生のせいと全員が答える。
正直に答えると、次は理由をほじくる。で、そのことについての自分の意見を求める。そしてその時に、相手がいつも通りの自分を自覚しない、臨機応変のないワンパターンのバカだと思うと言う。ここでもし正直に「ただオモロそうだからやった。」と言うと、相手は「理解不能」になる。そしてタメイキをついたりする。体罰がゼロだから、先生方もなす術がなかろう。体罰のみリテラシーを越える。しかしリテラシーに劣る者は親も教師もそれができない。つまり、「進化」しつつある子どもに対応できないのだ。おい、文科省官僚、一度でいいから代りにこれをやってみな。
「学校の先生に本気で受け答えをすることは無理!」という子も数多く出現する。オモロいことに理由はない。その理由を聞くのであるから、「アタマが悪い」ということになってしまう。「自分は冗談とかは分りません。ましてその対処など、「冗談」でも出来ません。」と、映ってしまう。つまり、「了解」や「感受」がないのである。
「マジでやったらバカバカしくてやってられない」と中3生たちは言う。彼らには、塾の教師の言うことを真に受けているヤツもバカに見えると言う。「どうせ塾の先生もお金をくれる人の言う通りにやっているだけ。それなのにそれが分らないんだなあ。」恥ずかしくて自分の仕事を辞めたくなる。
中学校の女子になると、いかに教師に気に入られるかのテクニックも局所的に深く伝えられていて、少女たちの多数はほぼ完璧に「演技」することができる。陰でその少女たちが、男子学生以上に教師たちを軽蔑している言葉を平気で口にするのを耳にするのは、我が身にとっても恐ろしいことである。ちなみに、「ハゲ」は決定的蔑視の対象である。―わが身世に経る長めせしまに。人間性に対する顧慮は微塵もない。私は若者が好むお菓子に脱毛剤を混入すべきだと思うが、これを書いただけでもタイホされるかもしれない。ちなみに私がここに「自殺する」と書けば、これを読んだ瞬間に警察かNPOがやってくるのであろうか。私がここに書いただけでタイホされるなら、殺人事件を扱った作家を全て拘留すべきである。
ともあれ、暢気な人には信じがたいことだが、ほとんどの子どもには、うるさい大人には本当のことを言わないでテキトーに済ませるべきだというアメリカ仕込みの「共通認識」がある。
しかし、ここはアメリカではなく「日本」である。かつてはお互い日本人だから信用し合えると感じられる「日本」だった。それが顔見知りの相手同士でも信用できない。できるのは相手の「事情」を知ることだけ。生きにくいことこの上ない。「善意」が通じない。
株を買う時には、他の誰かが損をすることの「期待」が必ず部分にあろう。
私たちは世で生きて行くために、ほとんどの局面で嘘と方便を使い分けなければならない。義理人情なぞ、使っているヒマがない。言語能力がないものをゴマカさなければ己が利を得ることはまずない。
困るのは、その「社会常識」を学んだ子どもたちが、分別なく対人関係の日常ほとんどの局面でそれを用いることだ。アバウトでファジーと言えば聞こえは良いが、これは純粋さを伴う賢さの「捨象」である。言わば、彼らは、「向上」よりその「場しのぎ」を選択する者になり易い。これでは金は入っても徳は得られない。人生生涯総合計算結果集計的に「損」である。何となれば、「幸福」は美しく生きなければ得られないからである。でも、金が入るなら年金の支払いは持続されるかもしれないとも思えて来る。
だが、子どもたちは、その先行きの恐ろしき「ワザ」を容認せざるを得ない。
というのも、すでに労働大人社会では、それがとうに正しいことであったはずだからだ。たとえ「上」たる相手の要求が愚かでも、これに「下」の自分が実直な意見を述べれば、結果絶対「損」である。身分が上のものには、へりくだるか、仮面を装うしかないのが人間社会の「掟」である。「バカ」でも「上」なら逆らうことは「損」である。この「バブル」はやがて崩壊するであろうが、最前線では今も根強く現象し続けている。
レトリックという身分制度がその「レトリック」そのものによって討ち滅ぼされようとしている。
バカなレトリックが、これまで通りに効くと思って使う者は、上から下まで「バカ」に映る。こういうのを「冗談」ではなくて「善意」で、「滑稽」と言おうと思うが、問題は子どもたちへの「影響」である。
中3二学期授業期末テスト終了直後内申決定3日前の情景。
―先生、73点じゃあ「5」は無理ですよね。
―う〜ん先ず無理だ。
―でも、A子は一学期73点で、5ですよ。僕は同点で3でした。
ここで先生は答えられなくなってしまい、何か理由を述べて職員室に急に帰った。
しばらくして、ホームルームで、
「成績は一年からの積み重ねということもある」と言った。
この言葉は、男子学生たちからの「大爆笑」を買った。すでに彼らは「大人」なのである。
逆に教師は「復讐」の決意を新たにしたに違いない。彼らは少なくとも女子には信頼されていると最後まで思いたいのだ。これは水商売の女にダマされる「旦那」の原理である。
事情に詳しい教育コンサルタントは知る。女の子の親より男の子の親は付け届けが下手であるということだ。つまり前々からの「積み重ね」が足りない。私は教師に、「返された」という話をこの30年間耳にしたことがない。ちなみに警察が「受け取らなかった」という話は多く耳にする。先生が「家庭教師」という形で「買収」されていることも良くある。
ま、「天下りのマネ」と言えば可愛いが、子どもが「嘘つき」になるのは、もはやしかたがないことであるようだ。
ではどうするか。
私にはその答えは簡単であるが、誰もそれに気がつかないのが世の悲しさである。
(初心者用注―このブログは「嘘」ではなく、「冗談」で書かれている)
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