2008-11-27 文科省指導要領ー「書くこと」
_ 文科省指導要領ー「書くこと」
以下に文科省指導要領から、「書くこと」についての項を抜粋する。
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B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 経験したことや想像したことなどから書くことを決め,書こうとする題材に必要な事柄を集めること。
イ 自分の考えが明確になるように,事柄の順序に沿って簡単な構成を考えること。
ウ 語と語や文と文との続き方に注意しながら,つながりのある文や文章を書くこと。
エ 文章を読み返す習慣を付けるとともに,間違いなどに気付き,正すこと。
オ 書いたものを読み合い,よいところを見付けて感想を伝え合うこと。
*これは抽象構成法のことを言っているに他ならないと私は思ってしまうが、これを読んでも教師の多くは具体的対処を思いつかないことだろう。言い訳は充分に用意されていることであろうが、指導要領は「メソッド」を提示しないで済ますものであることは明らかであろう。*
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 想像したことなどを文章に書くこと。
イ 経験したことを報告する文章や観察したことを記録する文章などを書くこと。
ウ 身近な事物を簡単に説明する文章などを書くこと。
エ 紹介したいことをメモにまとめたり,文章に書いたりすること。
オ 伝えたいことを簡単な手紙に書くこと。
*これも普段私が主張することと同様であるが、一番大切な文章構成の仕方が具体的には書かれていない。なぜだろうか。「指導要領に過ぎない」ということだろうか。これでは現場の教師たちの中で実際どう指導したら良いのか分る人は稀だろう。突っ込んだことを書かない優等生的文章。妙に不親切である。ひょっとすると現場が指示通りにできないことを「確認」することが本来の「目的」なのかもしれないとも思えて来る。もしそうだとすれば、相変わらず文科省には、本格的な改革の意志がないことが暗示されまいか。しかし、現象学的には、「彼らは上部組織のアホに付き合わなければ出世の見込みがない連中らしい」と冗談で記述できる。
指導要領には、「だから言ったでしょ」はあっても、「こうすれば良いのだ」はない。彼らはなぜか「消極的」である。教師たちが「抵抗」するからであろうか。
かつてのミスター文科省TERAWAKI氏によれば、「ゆとり学習や総合学習において、文科省の方針は正しかったが、現場がそれについて来れなかった」とのことであるが、現場がついて行けないことを前提にやることにより、教師たちに責任を押し付けようとする魂胆がミエミエである。そもそも教師たちは、能力がないことをできるだけ捨象しようとする教組の倦怠モードで、余分なことや新しい教育については、常に塾以上に「後手」である。しかし、リテラシーを高めることに協力的でないことは、文科省の方針と一致する。つまり、自分よりバカでなければ教育を与えないという考えである。私はこの場合、教組も悪いが、文科省は非常にマズイと思う。塾もそうだが、リテラシーに劣るものをカモにするのは、時が経過した時に言い訳の効かない事態を招くと思う。
トップの自分たちに能力がないことを、下部のものにそれがないことにはめて、自己責任を逃れることを考える文章。彼らはこんなことが、我々に見抜かれないと、進学塾同様に思っているのであろうか。バカにするのもいいかげんにしろと言いたいが、こう書いたところで彼らにはそれを汲む気持ちすらないであろう。「えっ?どこが悪いの?」というのが本音であろう。
私たちからすれば、管轄能力がないものが管轄をし、指導能力がないものがそれを誤摩化すのであるから、ほぼ「同罪」である。
不思議なことは、双方がそれに自覚的でないフリをすることである。
どうして平気なのか、精神構造が社会と逸脱していることは明らかだ。
反省の弁は決して聞かれるべくもないが、70年以降、公教育は、できるだけリテラシーを低下させることをその要素に含んだことは明らかである。
麻生のアホは、その証明であろうか。
安倍も福田もそうだが、実は能力がないのに、「名誉職」を得るために、地位に就こうとするものは、平気で国民を侮辱することを前提にするらしい。さすがワセダ「裏口入学」の森の弟子である。
これ以上、我が国の若者をバカにしようとするのはやめて欲しい。
慇懃と謙虚が異なることを深く噛み締めて欲しいと思う。
リテラシーのないものにはその違いが分らなくとも、我々が積極的にそのことを書く。
ただし、「冗談」で。