2008-11-17 物語作文教育
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ここのところ、音読作文教育の効果が大きいことが連続的に確認されて我ながら嬉しいことが多い。
しかし、稼業の半分がこのデスクでの原稿書きであり、会って話すのは原稿をやり取りする編集者ばかりだし、子どもとの間でも原稿を読み合わせてやり取りしているから、いつでも原稿が目の前にある。必ず自分か相手の原稿の「over」で会話する。つまり、原稿を前提に人と面接する。書いていることだって、このブログの他にメール含めて多岐に渡るから、長崎チャンポン、何が入っているのか分らない。おまけに会う人の50%はこのブログの読者であるらしい。
こうなると、何をどこに書いて、何をどこでしゃべったのかの記憶が危うい。文体同様、無責任きわまりないことだが、最近ただでさえ劣る知的能力が歳とともにまるで髪の毛のように抜けて行く気がする。酒の飲み過ぎだろうか。いや違う。むしろ、追体験的な遊びの不足であろう。私は、目の前の子どもたちのように、時間を気にせず、自由な気分で遊びたい。一人旅に出たい。
私の価値観では、「退屈」は罪である。考える前の行動が正しい。動いた後にこそ、本質的なアイディアが生まれるのだ。創性とは、まず「動く」ことだ。しかし、こうしてオモロいことが目の前に連続すると、「自発的」ではなく「受動的」になりがちである。他人は羨むことが多いが、よく考えると、私にはとんでもないことである。人間は情報を超えて活動していなければならない。これは、「老いた」ことなのであろうが、若い者が我が農業以上に発育するのを現前にするのは、他のことに換えられぬ快感である。
やんちゃな弟がいる小学5年少女。父親が無理矢理やらせようとし過ぎてすっかり勉強嫌いになったところでV-net教育相談。話してみると、自分の世界をはっきりと持つ感性豊かな少女である。しかも、既成の類型に収まらないタイプの「美人」である。そして、この手の女性にほぼ共通の、「本能的算数嫌い」である。当人たちにとって見れば、すでに充分「いい気分」のところへ、ぐちゃぐちゃした数値計算なんて「本質的な快感の邪魔の邪魔」、のタイプである。嫌いだから当然前に進まないし、自分からやる気も起こらない。これを仕事で疲れて帰宅した父親が怒鳴りつけて指導する。結果、単なる「嫌い」が「大嫌い」になる。
何回か音読のレッスン。心純粋にきちんとできる。で、最もアタマが良くなる学習法の物語作文へと移った。ダンスの素養は音読学習に確実に効果的である。
「君は数少ないファンタジーが書けるタイプの女の子だ。そして世には、君の頃にそれを書かないために、一生書けなくなってしまう人が多い。だから今度までに架空の物語を書いて来て」
最初の作品は『お正月星』。これは年中お正月である星の家族と学校の姿。これが当たり前のようなんだが、書いたものを読んでみると何とも言えず微笑ましいんだなあ。母親の話によると、けっこう長い時間かかって書いているとのこと。だが娘はこれを否定する。イラスト付きなのが嬉しい。この子は物語をお菓子を作る感覚で書いているのである。
状況が好転したと見て、東大女子学生を紹介して教育環境設定。優しいお姉さんを得てニッコニコ。これで教えることから手を引いた、仕事に疲れた父親も、「これからはもう、娘のテスト結果は見ません。遠くからゆっくりと見守ることにします」と、これまで見たこともないようなにこやかな調子で語る。
で、前回のことだ。
なんと、一挙13枚!である。
加筆原稿も含まれるが、最新作の『キャンディー星』は、章ごとに手の込んだイラスト入りの10枚の大作である。会話が多く、内容豊かで超楽しい。このくらいの年齢の子には珍しく、一つの世界が大体定まった視点と観点で語られる。本人も楽しくて手応えがあるらしく、いくらでも書けるという雰囲気。ということは、これからどんどんアタマが良くなり続けるということだ。
教育環境設定成功。
ウソが書けるとはもう記述問題は怖くないということだ。そして、ウソが書けるとは他人のウソも見破れるから選択肢取りは楽勝になる。そして、男にダマされない女になる。紫式部、晩婚の可能性もある。
作文は抽象構成法で書き下ろせるが、物語はあらかじめ腹案を練らないとまず書けない。そして、この腹案を錬る時のアタマのハタラキの習慣化が「知性」に灯を点すのだ。
古典名文音読と物語作文教育の効果ははかり知れない。
正しいことを識り、自由に自分のやり方で表現できる。
私はこの両者を運良く同時に自分が見つけてしまった偶然の理由が永遠に分らない。