ブイネット教育相談事務所


2009-01-11 他人のブログ

_ 他人のブログ

書くこと以外にほとんどコンピューターを使わない私にとっては極めて珍しいことだが、最近、ネット上に公開されている他人のブログを読んでいる。

それは苫米地英人、茂木健一郎、内田樹の三氏のものである。佐藤優のものがあればそれも読んでいることだろう。(以上以下敬称略、ペンネームと見なす)

これらはどうも、個人の余計なことが書かれていて、実際の著作よりオモロいことが多いのである。

「内田樹」は意外と真面目で不器用なオッサンで、「養老猛」と違ってそこにかえって人間的に好感が持てる。つまり、「開高健」の嫌なところがあるようでいてそれがない。「ケチ臭さ」が東京的にない。単にウイスキーを飲まずに焼酎ばかり飲んでいるせいかもしれないが‥‥。また鷲田清一よりも明快である。しかも知識の正確さは素晴らしいものがある。

茂木健一郎には頭が下がる。これほど真面目に物事に打ち込みながら成長し続けた人材は稀であろう。いつか家庭教師時代のことについてインタビューしてみたい。そして我が音読について伝えたい。その上で感受性の本質について話し合いたい。もちろん教えを請うのは私の方である。

苫米地英人は「天才」である。彼はすでに「次元」を超えてしまった。彼は未来的ビジョンを強くもって活動している。「フリーメイソン的」と呼ぶ人もあろうが、フリーメーソンだって「世代交代」が必要である。そして、「次元を超えている」からこそ、「芸人」である。彼には「芸」の素養がある。「直球」だけの無意味さを熟知している。私はこれを彼に教えた人は「偉大だ」と思う。現代最先端英語了解→数学言語獲得→脳機能習得→応用。この一直線は「天才」をもってしてしか達成できないプロセスであろう。ある意味で、福沢の「外国語修得→経済学了解→出版/教育→一万円札化」以上の合理的なプロセスがある。そして、この人は「迂回」しない。

しかし、これほどまでに「本質」に近づいたこの人にだっていまだ分らぬことがたくさんある。

面白いのは今のところ、この三者間の対談が成立しないことである。そこに、「フェティッシュ」なものを感じないのは強ち私だけではないであろうが、いささか興味深いことである。

「連載」にしよかと思うたが、その力と時間がないとわきまえ、「結論」のみを記す。

子どもに、自らやりたくない環境を設定し、自らやりたくない学習を全体的に強いれば、必ずついて行けないものが現れる。「社会」というよりも、「教育」に背いた者を、「経済的奴隷状態」に収束させることを容認する背景には、安楽安全に優先する「価値」の捨象がある。その対象の想起を怠る者が、「因果論的解明の業」を繰り返すのである。畢竟、本当の幸福の追求には自覚的ではないのである。

以上「冗談」で書いた。