2009-01-17 「防腐剤的学級崩壊」
_ 「防腐剤的学級崩壊」
生徒たちから学校授業の状況報告を受けると、さすがに10年以上前にいささかこの事態を予測していた私も心底肌寒く感じる。
全ての学校ではないし、全ての授業ではないが、公立でも私立でも「防腐剤的学級崩壊」は大きな広がりを見せているようだ。
生徒たちの教師判断の基準を聞くと、一に「授業内容=教科指導能力」、二に「人間性=ウソ、ゴマカシ、エコヒイキをしないこと」と、昔から変わらない。
読者お気づきであろうが、本来両方とも「努力」でほぼ解決が可能な事柄のはずである。
「鏡」という漢字が思い出せなくて立ちすくむ国語教師。声が小さくて何言ってんだかさっぱり聞き取れない英語教師。教科書の足りないところを解説するのが仕事のはずなのに、黒板に教科書と同様の内容を写す数学教師。真面目にプリントを作っては来るが、「10分で」という声でやってみれば、クラスの半分が5分以内で終わり、残り半分はいつまでたってもできない。
現在のところ、学校教育の場に、「有能」な教師は、どこでも半分もいないだろう。いや、「二割」以下かもしれない。彼らは、相手があって成立する職業の客観化ができていない。
「学級崩壊なんてしない。授業中はただ静寂が支配する」と口にする、ややレベルの高い地域の公立中2生。「誰も授業を聴いていない。内職、読書、パズル、落書き、「雲見」、空想、電子ライターで刺激し合い、誰もしゃべらない。」
読者はなぜかお気づきか。
今、実は、学校では「耳栓」が流行っているのである。「睡眠」や「読書」が容認されるのであるから、次は「耳栓」である。その次は多分、i-podとDSであろうが、この生徒たちの決定的な方向性は何を示すのか?
その答えは単純である。
「聴くに堪えない」である。
落語家ならば「失業」である。
ストリッパーなら、「引退」である。
昔、かつての「文科省のプリンス」の寺脇氏(現在は京都造形芸術大学教授に「天下り」中)と杉並公会堂で客席から対峙したことがある。
―問う。貴兄は、現在の中学生たちの多くが、「自分の理想とする教育をすることが不可能なことが予め分っているのに、敢えて教職試験を受けて教師になっている人を軽蔑する」と思っていることをどう捉えるか。
寺脇は言った。
―そういう人もいるし、そうでない人もいる。
私が彼を「文科省のやらせスパイ」であると見抜いた瞬間であった。
―ちがうぜ。そういう生徒が多いということにあんたはどう思うかと聞いているんだ。
彼は詰まった。そして口にした。
―参考にさせていただく。
文科省が「参考」にしなかったのは明らかである。
いや、「鈍い」と言うか、「勇気ある」と言うか、驚くべきことである。
「敵」が「必敗」なのを見る時、「憐憫の情」を禁じ得ないのは私だけであろうか。
すいません。以上、「冗談」で書きましたです。