2009-01-02 謹賀新年’09
_ 謹賀新年。
読者におかれましては、この混迷して先が読めぬ世情下、何がいったい正しいのかを、教育という視点を持って共に考察して行こうとする好奇心ゆえに、このお粗末な拙ブログをクリック下さると存ずる次第。
しかし、私は学才的ではなく、また明晰な思考をものするでもなく、ただただ市井の人々の相談に身を投ずるに過ぎぬ存在である。
経済も政局もひどいが、教育もある意味でそれ以上にヒドい。
資源である石油が半年間で乱高下する。
誰がやっているのか知らないが、デリバティブやファンドが大損する。
これに大量資金を投入する政府は、間接税を上げざるを得ないと認識する。
何も悪いことをしないでそもそも低賃金に甘んじた上で、リストラされて喰うに困る人々。
恥知らずの二世議員と、自ら生産しないで税で喰う驕り高ぶる官僚。ちょいとばかりレトリックに優れるからと言って人をバカにするメディアと企業。
そして、我が国の未来を左右する教育には、国家は全く資金を投じない。
どうしてこんなことが続くのか全く理解不能であるが、我々は、アキハバラ的な事件にも、イスラエルの空爆にも全く「無力」である。
苦しみを訴えるものが救えなければその社会内での存在の意味が限りなく「欺瞞」になることは必定だ。我々はグローバル社会においてより良く遠方他者の境遇を直感しなくてはならない。
なぜゆえに我々は他者の「狂気」を解放できないのか。
否、「狂気」であることを自覚させられないのであるか。
「弱者」を「弱者」と切り捨てれば、論理的には、最終的には「強者」以外の誰もが、地上に存在しなくなることは明らか。
太陽が照り過ぎて、金星同様生物が住めない環境になるのと同じだ。
そんなことはあり得ないことである。
弱者切り捨ての考え方はエコロジカルでないからこそ誤っているのである。
「弱者」は賢くすべき対象である。
今年は新たに、どんな子供でも伸ばす教育メソッドの開発を心がけたい。
文科行政が変わらないからしょうがない。
今年こそ、経験的倫理観を語れぬ大人が、死ぬほど痛い思いに苦しむ年になるに違いない。
そして、「支配」に甘んずる大人を尻目に、賢い子供たちは、自ら覚醒して自己の魂の最大限の向上に身を投じ始めるであろう。
それが「生存」を第一義に掲げる生命体のなす技ということだ。
既成の判断を超えた決断。
自己の成長を実感する営為。
他者との関係の認識。
精神の真の健全さ。
それにはアタマが生理学的に良くなる技術―「瞑想」が欠かせない。
苦しみや悩みは単なる気のせいでどうでも良いことである。
考えても始まらない。
何となれば、いずれ「象は満ち、気は転ずる」。
過去を追うことも未来を願うこともできない。
あるがままの自己存在の究極的確認。
自らのアタマの状態を、自らの意志と感受によって改善しようとすること。
「自然は目に見えるこころ、こころは目に見えぬ自然」の認識。
我々は、自然の認識以上のことができない
新年おいて、相変わらず誠に至らぬ我が身ながら、最大限の自己向上を今年も心がけたいと思う。
読者諸兄には、本年もよろしくお願い申し上げる。
新年巻頭につき、ややマジに書き過ぎた。