2009-01-14 「学歴」と「レトリック」について
_ 「学歴」と「レトリック」について
たとえば教職にあるなど、ある程度学識的であるはずなのに、レトリックがいまいちな人たちは、どうして生まれて来るのであろう。今やすでに見えたこと。普通一般に、学歴を上へ重ねることの実態は、文章の書き方に上達する道に他ならない。高学歴でレトリックが苦手な人たちは、資格獲得のために暗記学習に走った人たちがその多くであろう。
また、これが学歴が「中途半端」な人たちの層により多く顕在するするのも事実である。
そして彼らは、レトリックの力が不足されるからこそ、自身のその状態への認識が得られない。そしてそれを「認識」できない。
彼らにとって、「資格」が無力であることを追体験することは地獄以上のものがあるだろう。なんとなれば、彼らにはそれを覆す「能力」がないのだから。
レトリックの力は、「暴力」以上のものがある。
受け身の相手に、こちらのいいようにある観点を強調する。もちろんレトリックに劣る相手はこのことに気がつかない。
「特定の神が実在する」
明らかにこれは「ウソ」であるが、「ウン」と言ってしまうことは容易い。
これは「信じた」のではなく、「信じたことにしてしまった」ということである。
つまり、相手の希望する「金額」で商取引が「成立」したということである。
デリバティブー高価なランジェリーとコロンの香。
こちらがうっとりした瞬間に、相手が「商売」していると認識できないのは、レトリックの力の問題である。
ああ、世界金融恐慌で多額の資金が導入される今、そんなことなら世界の苦しむ地域に余すことなく寄付してやるべきだったと思われてならない。なによりも、農業への資本注入は、確実に地球温暖化の抑制にプラスになるということだ。太陽電池パネルや風力発電よりも、有効な植生構築の方が実は「科学的」なはずだ。地球上、光合成に勝るエネルギー処理があり得ないことは自明の理である。
モノではなくて、カネでカネを得ようとすること。もしこのことが「正しい」とするならば、我々は他者の「内臓」を金で買うことができるということになろう。
「共存」とは、不要な自己利益追求を捨象することである。
真にレトリックに優れるものは、「自と他の関係」の「本質」を識る。
コトバだけでは何も現象しない。
コトバに付随する、あるいは先行する「行動」がなければ現象しない。
祈る以上のことがあるのである。