2009-01-03 苫米地英人内田樹茂木健一郎
_ 苫米地英人内田樹茂木健一郎
12月の中旬以降、ほとんど休みなしに連続一日4〜5件の面接/指導セッションを続けた。
すると、20日過ぎに朝家を出る時、嫌な気持ちが強くなる自分を自覚した。しかし、自分は自分より苦しんでいるものを助けることが仕事である。「考えることは良くない。一切は気のせいだ。淡々と仕事をこなして行こう。」と自分に言い聞かせて自転車に跨がった。
24日を過ぎると、朝寝静まった家族の中、一人で起きて入浴瞑想して朝食をとり、事務所へ出、ここで連続的に仕事をして帰宅しようとすると、今度は「家に帰りたくない」自分がいる。でも寄り道して風邪など引くわけにはいかないから、帰宅入浴食事+アルコール摂取をすると、もう目を開けていられなくて12時前に床へ就いてしまう。寝床で、アリオストの『狂えるオルランド』か『マークトウェイン自伝』か『バガバッドギーター』を読むうちにそのまま「水没」。目が醒めると8時。
つまり、毎日8時間寝てしまう。当然、ゲラ、原稿、メール、連絡といった全てができない状態になる。暮れが近づくにつれて、いよいよ出版社からは情け容赦なくゲラが送られて来る。すでに出版企画は、9月頃まで毎月1冊のペースであるから、片付けなければ溜まる一方である。一昨年は、「春になったら10日間の一人旅に出よう」と思い描いて何とかこれを乗り切ったが、「社長」に一人旅を禁じられて、ガーデニングとウズラ小屋でお茶を濁した。また、定期的に焚火を行い、休みの日を多くしたが、その多くは執筆時間に振り分けられた。12月は焚火に行くことができなかった。その結果、「うめき声風呂瞑想」を開発した。今年はもう、休むこと以外に旅行に出かける気力もない。
ついに仕事納め、すぐゲラ執筆を開始するが、これが全くできない。
31日は実家で8時間、1日は外出後自宅で9時間、2日は何と10時間寝てしまう。通常私は8時間連続眠ると次は3時間睡眠になるが、もはや寝ようと思えばいくらでも寝られるのである。
起きている間は極めて不機嫌で、誰からも話しかけられたくない。まるで坊主のように瞑想を繰り返す。密かに私は怖いのである。もしもいつか書けなくなってしまう日が来ることが。
しかし、3日朝、家族寝静まる中起床入浴朝食後、ゲラ加筆を行うと何とか仕事が進む。勢いでメール解答、諸処懸案を片付けると、午後から外に出たい心境になった。
V-net諸君を励まそうと、吉祥寺リンデで大量にサンドイッチを購入。一駅乗って西荻で飲み物とミカンを購入。
事務所へ出ると、そこにはなんとV-netプロ教師全員がおり、新年ながらいないはずの高木さんもいる。サンドイッチ牛乳は全員に大歓迎された。
帰宅途上、啓文堂で、このところ注目している著者の新刊本を3冊を買う。苫米地英人『残り97%脳の使い方』、内田樹『街場の教育論』、茂木健一郎訳『脳にいいことをやりなさい』の爆発的売れ行きを示す教育本である。この3人は、かねて私がどうあがいても叶わないと思う人たちで、全て超高学歴者たちである。
先ず内田樹本を読む。これは残念な本であった。機会があれば詳しく述べるが、現場が分らなくなっている学者の本だった。私には「現場」から分り切っていることばかりだったが、それ以上はなかった。次に、Dr.苫米地を紐解いた。洗脳が分っているものが洗脳的に書いた本であるが、そこには「池田大作」以上の本質的な覚醒のメソッド伝達はなかった(これは「皮肉」。私は学会信者ではない)。ホメオスタシス(環境への同調機能)のことがきちんと書かれていたが、私から言わせれば、僭越ながら、そのことはカタカムナ対向発生=フトマニで、すでにより深く「抽象化」後であった。この人は抽象化の正しさを語るが、自己以上の抽象化があることに盲目的である。「自然は目に見えるこころ、こころは目に見えぬ自然」(FOUR WINDOWS)よりも、チベット仏教を深めては捉えていないと思った。中沢新一と同レベルである。
茂木健一郎訳は、「脳にいいこと」7つの絶対ポイントと題して、
1ネガティブ思考の「大そうじ」をする。
2プラス思考で脳をポジティブな回路をつくる。
3何ごとにも愛情表現を忘れない。
4全身の細胞から健康になる。
5瞑想などで脳を「人知を超えた大いなる力」につなげる。
6目標をもち、脳に眠る才能を開拓する。
7つき合う人を選んで、脳に良い刺激を与える
を掲げる。
4は何を言っているのか意味不明であるが、後は当たり前の既存哲学のブレンドである。5の瞑想は、私にとって必要不可欠の「排出行為」であり、「人知」にも「大いなる力」も捨象したところにある。
私は結論した。これらの人はかなり優秀であるが、バカな私と同様、本を出し過ぎて疲れている(ホメオスタシス効果による)。
この瞬間、私は二つの新たな出版企画を得た。
それはともかくとして、この人たちの共通項を抽象化すると、大文学が書けないからケチ出版に埋没している、つまり私と同様の人材である。
いや、ひょっとすると私はこの人たちよりマシかもしれない。
それは、私にはドス黒い「冗談」があるからである。
もしも、いつの日か、対面することがあったら、すかさず我が変化球を試してみたい。
今これを書いている瞬間に回復した。
3冊の著者と読者に感謝する。