2007-06-24 SEOUL紀行ー連載第12回
_ SEOUL紀行ー連載第12回
興礼門をくぐると、白い石畳が広がり,その先に韓国最大の木造建築物の勤政殿がある。光化門も興礼門も勤政殿も、反り返った二重の屋根瓦がかぶさる建築物である。勤政殿では即位式などの大礼が行われたという。さらにその奥に王が政務を執ったという思政殿、学問所である千秋殿と続く。さらに、康寧殿、交泰殿、慈恵殿と王の在所が続く。いずれも思いっきり派手というのではなく、仕事や生活がしやすいことが優先されているように見え、しかもどれもが床下がオンドルになっていることから、冬期はかなり寒いことが知られる。建物群の北側には、大きな灯籠のような形をした赤いオンドル煙突がある。
それにしても宮中がこうして自由に拝観できるというのは面白い。この国の皇族子孫は今どこで何をしているのかと思ってしまう。以前に京都御所を見学したいと思ったことがあるが、事前の申し込みがなければ見られないということで諦めた覚えがある。しかし、たとえ事前に申し込んだにしても、規制が厳しくてこうは自由に見させてくれないことだろう。
2001年12月、明仁天皇は、「私自身としては桓武天皇の生母が、百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と発言した。これは、ワールドカップ日韓同時開催を意識してのお言葉であろうが、極めて重要な発言である。だが、我が国では、その時もその後もほとんど取り上げられなかった。天皇の「失言」なのであろうか。私は、この天皇の、歴史的真実をねじ曲げて国家的アイデンティティーを保とうとするあり方に反論する姿勢に強く賛同する。どうして歴代の天皇名が、古代より中国名なのか、多くの人々が不思議に思ったことだろう。どうして平安貴族には漢籍の勉強が欠かせなかったのか、理由が知りたいと思った人も多いことだろう。なぜ繰り返し遣唐使が派遣されたのか。どう考えても日本人の元は、漢字を知る民族の大陸からの侵入によるものなのである。桓武天皇といえば、平安遷都を定めた人物であり、古事記の編纂(改編)にも深く関わった人物とされる。長い間の混血で、我々の遺伝子にも大陸系の血が混じっていることは明らかであろう。その証拠に、朝鮮人と日本人は驚くほどにており、言葉も近いものがあることは明らかである。建築物や民族的な舞踏などの音楽も驚くほど類似している。この二つの民族が「兄弟」であることは明らかである。戦争が終わってすでに60年以上が過ぎようとしている。両国家の政治的主要部が、自国のアイデンティティーの主張により、求心をはかるのは幼稚なことではないか。私には、天皇がそう思ったとしか思われない。両国の問題は大きいが、互いに兄弟である事実を認めて積極的に仲良くすることを考えることが子孫のためになるのは明らかであろう。韓国の一般人はどう見ても親日的である。日本で流行っていることを取り込むことが大好きだ。そのことは、日本の教育コンサルタントの本がベストセラーになっていることでも伺い知れるというものだ。逆に日本人も韓国の文化が大好きだ。焼き肉、キムチを口にしたことがない日本人は皆無であろう。それどころか、我が家のクソガキに「何か食べに行こうと思うが、何がいい?」と尋ねれば、決まって「焼き肉!」と答える。余計な考えがなければ、我々の味覚はそれを求めてしまうのである。また、今回知ったことだが、キムチなどに含まれる唐辛子が最初に朝鮮半島にもたらされたのは、秀吉の朝鮮侵攻の時だという。密かにこれを聞いて私は愉快な思いを禁じ得なかった。私の老母は、異常なほどの韓国ドラマのファンで、その録画コレクションの増え方には驚くべきものがある。彼女が涙を流してそれを見る姿には、異国のものを見ているという感覚がほとんどない。
私は、例えば、共産党と公明党のように、似たものどうしはその差別化のために互いに非難し合う習性があることを知っている。学校でも、成績が近いものどうしが張り合う。つまり、人間には、似ていると反発を感じるという習性があるのだ。このことに自覚的になることにより、それを利用しようとする政治的プロパガンダに両国民が乗せられないことを心より願う。また安直な手口を用いて飽きることのない政治家を心からバカにすることもお薦めしたい。同時に、両国に共通の「儒教主義」の相対化、客観化をお勧めしたい。