2007-06-19 SEOUL紀行ー連載第10回
_ SEOUL紀行ー連載第10回
記者たちとの食事の後はやっとのことで緊張から解放される自由時間。
我々はチョンボクキン(景福宮)に向かった。
読者はPターンというのをご存知か。右側通行で左折混雑を著しく嫌うらしい韓国では、一遍右折してターンするPターンがあるのである。
道路標示に「Pターン」と出る。絶対左折できないということである。
韓国の運転は、日本同様、かなりその国民性を表す。
できるだけ割り込みはさせない。隙あればより有利な車線変更するのである。
この状態で、「待ち」の必要な左折車線をもうけると割り込み合いで収拾がつかなくなる。
ゆえに、「Pターン」とあいなる。
景福宮は、1394年に太祖李成桂によって建設され、1592年に豊臣秀吉の侵攻により焼失。1865年に大院君によって再建されるも、1910年の日韓併合で敷地内正面に朝鮮総督府が立てられ、興礼門は破壊され、光化門は移転された。この経緯について、筆者は、柳宗悦の「光化門」を読んで知っていた。私は、このことを、旧日本が韓国に対して行ったことの中で、最も恥ずかしい事件であったと認識する。もし、米軍が、皇居二重橋の辺りに総督府を建てたとするなら、どう思われるか。それは詮方なき「恨み」となって日本人の心に蓄積されたことであろう。同時に、もし、日本語が禁止されて、英語を強要されたとするならどうするか。これも忌まわしい呪いとなって残留したことであろう。個人の趣味同様、文化について侮辱されることは、婦女子の陵辱同様、許しがたいことであろう。それを日本人は平気でやってしまった。何という傲慢なことであろう。こういうことがなければ、「靖国」の問題もそう大きなことになっていなかったに相違ない。私はその「現場」を一目見てみたかった。
さて「景福宮」とは、明らかに「景色が佳い宮殿」とのことである。
だが、その意味は、思った以上に深かった。