2008-05-03 最近教育ビジネス事情
_ 最近教育ビジネス事情
何回か前の当欄に、山口2区の選挙のことを、「山陰補選」と書いたが、「山口は山の陰ではなくて山の入り口だ。それに問題の岩国市は瀬戸内海に面し広島より南だ。」と、「圧力団体」から御抗議があったので、タイトルを「山陰事情と山口補選」に修正させていただきました。ちなみに、「山陰海岸国立公園」は兵庫県ですのでご注意願います。とにかく、山口は「山口」で、山の入り口です。山口県は高速で通過したことがあるだけ。やけに木の多い地域という記憶があります。私は山口県にも興味がある。地域教育活性化コンサルタントとしてお招きいただければ幸いです。
さて、「山陰紀行」の「最中」ではあるが、やはりこれに関係づけずに語りたいことが起こる。
読者もご存知のこととは思うが、東進スクール(永瀬)が四谷を買ったに続いて、ベネッセが鉄緑会を買い、河合がSEGを買い、Z会が城南と提携する。これはおおよそ「メソッド買収」を意味するが、実はそれは、単なる高名講師の買い占めでは、チェーン的には成立しないことを示唆する。
現代児童の驚くべき変化。これに文科省は相変わらず後手的に全く無自覚なままであるが、教育ビジネス最前線は、スタッフ総動員、「カイゼン」、次なるものが「メソッド」であることを嗅ぎつけているようだ。
教育ビジネスについては、「メソッド」が全てであることは、別に禅問答的ダイアローグをしなくとも、容易に想像される。
「JA小作人」を認識する農家同様、消費者も、受験産業のセコいビジネス観に見切りを付けつつある。
どちらも、「欲しい」のは、「メソッド」である。
「賢くなる方法」ではない。「メソッド」である。
「メソッド」は、売りようによっては、「大企業的売り上げ」においては、充分な付加価値がある。10%の投資で、100%の利潤が可能である.
私は考えて来た。
受験産業が、従業員を差別化できなくなるから売りたくなくなるほど優れた次世代メソッドとは何なのか。
今一つの受験産業が、接触して来た。
私は全情報を開示する。
私は知った。
賢くなることのもとは、読み書き暗算能力である。
そして、これを自発的にこなせないご家庭が「受験産業」に金を取られる。
しかし、実は、受験産業に、その解決のメソッドはない。
ゆえに、「受験産業」は、文科省同様、限りなく、「詐欺」に近いのである。
だから、「おたがい」、儲かっているのである。
ここには、「権力」の、「未来的配分」すら匂うではないか。
そして、おそらく、「文科省」同様、「その結果」に、「自覚的」でない。
「エリート意識」とは、庶民を舐めることであるらしい。
私には信じられない「愚かさ」である。
2008-05-07 気づかないこととダマされること
_ 気づかないこととダマされること
今様社会では「気づかない」段階でダマされていることになる。
全ては、そもそもの価値以上に高く売れば売るほど儲かることになっている。
「価値」があるのは、その仕事における能力のある者が誠意を込めて労働する場合であるが、その労働から「搾取」するのが組織団体である。病院等はその最高例であろう。
その仕事に対する基礎能力のないものを能力以下の低賃金で雇い、能力のあるものをその能力以下の標準賃金で雇うこと。そして、限りなく経費や原材料費を低く抑えること。そしてより多く売ろうとすること。
限りなく利潤を追求すれば、つまり、「合理」を追求すれば、必ずそういうことになろう。
我々は賃金を得て働いても、そのお金で消費行動をしてもダマされることになる。おまけに、昨今の汚職や癒着の状況を鑑みれば、どうも税金を納めることもダマされることに繋がるようである。
もし全くダマされないことを望むなら、お金の世界を離れて、ホームレスになれば良いが、そんなことはできない相談であろう。
お金の使い方に自覚的になる。
「面倒くさい」とか、「難しい」とかできるだけ思わない。そのくせ心の余裕を大切にする。
一般教育において、究極大切なのはダマされない言語コミュニケーションの能力と、算数暗算能力である。
気づかないことの善良さを許すことと、ダマされることの無自覚性を許すこと、こと教育においてだけはこのことをタブーとしたい。
教育とはそもそも不必要にダマされることを未然に防ぐためにある。
今重要なのは、組織内の地位よりも、フリーエージェントの素養である。
2008-05-10 臨済禅坊主
_ 臨済禅坊主
世に価値観が備わらぬ場合、我々はいかに行動するべきか。
価値観とは判断の集積である。日常のあらゆる価値判断が重層的に折り重なって、個人の「価値観」を方向付ける。
有り体に言えば、ダイアローグと追体験の連続が価値観を構築する。
我々は問い続けなければならない。
自分はどう思うかを。
主体的な判断習慣がなければその人には価値観がないのである。
テレビはどうするべきか。見ないべきである。それは価値判断を曇らされるから。
同様に、自らの価値判断がないものが新聞を読めば、書いてあること以外の考察を捨象する。
拙宅のお隣の一つは臨済宗の寺の駐車場である。およそ14台のスペースで、私の家側にぴったりと高級車の入った車庫が立っている。この駐車場は車庫以外に何もなく、完全にアスファルト打ちっぱなしで一本の木も植えられていない。
ある日若い住職が私の留守に訪ねて来て、娘に、「お宅の蔓草(クレマチス)が、少しこちら側に出ている。フェンスに直接植物を絡ませるのは遠慮して欲しい。ラティスを立ててやって欲しい」と言ったとのことなので、後日フェンスにラティスを針金で付けてクレマティスを向こうに出ないようにした。
すると、今度は私がいる時にやって来て、「図面では塀の立っている部分は当寺の所有になっているから、ラティスを塀に括り付けるのは止めてもらいたい。」と言う。
お巡りさんよりオモロいやつがやって来た。何せ相手は臨済禅の坊主である。ここは思いっきり我が「JOKER様」を楽しむことができそうだ。千載一遇。相手が私の驚くべき「趣味」に気がつくわけはない。この坊さんには、幼い子どもが二人ある。やや談笑して、
―貴兄は、境内に松を植えていた若き臨済が、師の黄檗に、「どうして松を植えているのか?」と問われて、「一つには寺の風致のため、もう一つには後世の目印として」と答えたのを知っているか?
―そんなこと覚えていません。
―それでは禅問答の答えにならない。
―禅問答なんて難しいことはもっと頭のいい人たちとやって下さいよ。ボクはボクなりにやりたいと思ったことをして生きているんですから。
_ 実際の臨済禅ではここで叩いて良いことになっている。なぜかと言えば彼はこの言葉によってちょっと出た植物のことで文句を言うためにわざわざ人を患わすことを自分のやりたいことだと口にしていることになるからである。これでは相手にならない。ゆえに最早完全にふざけることにする。
_ ―そのうち金が入ったらこの土地を買って、若者用のストリートバスケのコートにしようと思うんだがその時はよろしくね。
―何言ってんですよー、うちは法人だからそんなこと無理なんですよ〜。
_ どうしようもないことである。私は昔臨済禅の高僧を三球三振に打ち取ったときの軽い虚しさのような感触を思い出した。この人たちには完全に臨済禅の精神が伝わっていない。ただ形式化した中での寺院経営者たちである。仏教的的大意を尋ねることもない。超お笑いなことに、臨済が末期の席で述べたことが成就していることになるわけである。
このことは曹洞宗や浄土宗でも同じかもしれない。それどころか、真言宗系からは、最近の高野山の僧たちの保守的権力執着にはどうしようもない膠着があり、「JAの小作人」に見切られる自民党同様、見るも無惨な姿であるとの情報も入る。これでは、「オーム」が現れるのも致し方ない。
苫米地が批判するのはこのような仏教界の情けない姿である。
胡錦濤は池田大作には会った。
2008-05-13 国家のカモ
_ 国家のカモ
文科省の予算大幅増額要求を、財務省が、「他の先進国に比べて遜色ない。質の向上を目指せ」と一蹴。
これは「なれ合い」なのか、それとも「目眩まし」なのか。
文科省にしろ、財務省にしろ、役所は、コンピューター導入によって実現するはずの超大幅人員削減も、大きく人件費予算を喰う天下り法人廃止も実行しなかった。「年金」なんて、銀行並みにコンピューター管理すれば限りなく人員(人件費)は不要のはずの問題だった。だから年金問題は、半ば「わざと」行われているとも言えるのである。人為的「仕事」が増えるのである。
改革をしようにも予算が足りないのは当たり前である。
ガソリン税の特別税源使用を一般財源化すると言う。
我々はすでに、、所得税(法人税に加えて)、それに消費税を払っている。ついでに言えば、年金も健康保険も払っている。百姓が「JAの小作人」ならば、一般サラリーマンは「国家の奴隷」である。ついでに言えば、医者は不動産業者と銀行と医系予備校と医療メーカーの「カモ」である。
それほどまでには必要のない、しかも「中間搾取」がミエミエの道路建設資金を一般税収では足りずにガソリン税で補足して来たのだと言う。そんな「暴言」は最早通らないから、「一般税源化」すると言わざるを得ない。こんなのはまだまだ「氷山」の一角である。しかたがなしに認めているのであるから、バレなければ言わないことの方がはるかに多いのは当然の予想である。なぜ日本のガソリンがアメリカに比べてはるかに高いのか。なぜイラクを攻撃するアメリカがメキシコ湾を掘らないのか。軽車両に乗る気持ちがよく分かる今日この頃である。
ワーキングプア、末端の労働者は、「他に仕事がない」と言う思いで低賃金で働かざるを得ない。
誰かが儲かるための経済なのか、富を共有するための経済なのか。
貧しい人に適格な収入を得させることや、せめて子どものうちは「機会均等」の教育を与えることに優先させて、「無能」なものが役職にありついて無意味な収入を得続ける。誰でもできるようになる教育を与えるのが役所の仕事ではないか。優れた子どもたちを多数輩出すれば、国家予算の赤字も怖くはないというものではないのか。
「石橋を叩いて渡る」。でも石橋だっていつかは崩れるかもしれないし、世の中を救うのがアイデアとそれを実行に移す人材と能力であることは歴史が示している。
これが「平気」であるとは、高学歴者ほど「痛みを感じない人種」と言うことの証左になってしまうと私は思う。彼らは、少年ジェットや、ウルトラマンや、マグマ大使や水戸黄門を見たことがなかったのであろうか。裁判官をはじめ、役人が「正義の味方」を名乗れないようでは国家は「破産」どころか「破滅」である。
この先の考察はいささか恐ろしい。
以上全て「冗談」で書いた。
2008-05-16 モモちゃん
_ モモちゃん
ついにウズラハウスは完成した。あとはウズラとどぜふを求めるだけである。
一人旅のできない私は、この春以降、庭の大改造を「趣味」として来た。
暇さえあれば庭に降りて、大工作業とガーデニングをするのである。
今、与えられた猫額庭は、許される限り全て耕地となり、しかもバールを立てて、「二階建て」の畑も作った。
自分で発想し、自分で作る作業は、思いのほか精神衛生に良いようだ。おまけに、超ありがたいことに、私が焚火を趣味とすることを知った友人たちが、千葉、五日市、丹沢と、焚火の誘いを次々に持ちかける。嬉しいことこの上ない。
それにしても、次々に庭を改良していると思うことがある。
その一つに、亡くなった父親の次弟、つまり、私の叔父のことがある。彼は外国語に堪能で、極めて初期から運転免許を持っていた。そしてこの叔父は、庭を整備するのを趣味とし、池を作り魚を飼い、そして熱帯魚も鳥も飼っていた。同様の素養を持つものは親族で私だけである。
父の一周忌の会で、この叔父が抱腹絶倒の話をしてテーブル全員をひきつけた。
前からこの叔父は、「動物を飼うことの究極は、しゃべる動物を飼うことである」と言い、オウムを飼って来た。しかしどういうわけか外れっぱなしで、なかなか良く言葉を覚えるオウムを得ることができなかった。ついに大枚を叩いて、大きな真っ白なオウムを入手し、これに「モモちゃん」と名付けて、苦心惨憺、臥薪嘗胆、他のオウムが話さないようなユニークな言葉を覚えさせることに成功した。
その言葉は、「バイバーイ」と「ヤダヨー」である。
客人が来ると、オウムを披露して、これをしゃべらせると、客人が抱腹絶倒して喜んだ。叔父も大満足であった。
しかし、このオウムはさすがにアタマが良く、ある日、自ら掛け金を外して、空へ飛び立った。
そして、叔父の家の裏の桜林の上の方に立った。
下から叔父が懸命に話しかける。
「モモちゃん帰っておいで‥…」。
するとオウムは、「ヤダヨー」と言う。
さらに懇願すると、最後に、「バイバーイ」と言って飛び去ってしまった。
この叔父は、練馬区富士見台に在住しているが、後日、大泉に白いオウムを肩にとまらせる少年がいることを人づてに見知った。
叔父が出かけていくと、それは正真正銘のモモちゃんであった。しかし、周囲の人の話を聞くと、その少年は不登校の中学生であり、しかも、モモちゃんを鳥小屋に入れることも鎖で繋ぐこともせず、ただ肩にとまらせて町を歩いていることが分った。
しかも、モモちゃんは、「サンキュ」が口癖になっていると言うことも目の当たりにした。
叔父は、「負けた」と感じて、その少年にオウムをくれてやることにしたそうだ。
この叔父は推定年齢79歳であるが、極めて多趣味で、絵に描いたように「幸せ」な老後を送っている。それは、この叔父が何でも思いついたことを実行するからである。私は、親族に、「自慢症」と陰で呼ばれる叔父に、「似ている」と言われることを潔しとしないが、こうしてガーデニングに勤しむと、その心根が非常によく分かるのである。
植物にしろ動物にしろ、「育てる」ことは、他に換えることのできない楽しみである..
そのことを思い知った時、それを実践し続けた叔父に親しみを禁じ得ない。
叔父は私の庭を見たらいったい何と言うであろうか。
2008-05-18 小沢征爾新日フィル
_ 小沢征爾新日フィル
あまりに書くべきことが多くあるのに、それを皆書くことはできないから「抽象化」する。
これが私の基本的な執筆スタンスである。
私にとって「アイデア」とは、別次元別範疇の事柄を同一平面に結合してオモロがる、抽象アート的所作に他ならない。というよりも、その「認識」である。
「アイデア」は間断なく起こる。
でも私はそれを書き留めようとはしない。
書き留めれば、それは「固定化」する。
まるでコンポスト内のシマミミズのように、常にゴニョゴニョしている状態が正着である。
正しいのは、いつもアイデアが出るように脳を活性化し続けることである。
これには遊びやリラックスする状態が欠かせない。
家族で、アークヒルズサントリーホールで小沢征爾指揮新日フィルを聴いた。
パーカスの山田徹がパートナー系親族なので良い席に座れた。
曲目は、モーツァルトディベルテメントD majorとオーボエ協奏曲C majorと、チャイコフスキーの「悲愴」である。
新日フィルは、N響の堅さと違った「柔らかさ」が味わいであるが、なかなか良い「御馳走」であった。
小沢は、「福田」と違って相変わらず若々しかった。
さすがにカラヤン的やや「過去」の演奏を感じさせたが、各楽器の鳴らせ方には相変わらずの驚くべき繊細さがあった。
モーツァルトディベルトメントは、25年前の結婚式のBGMにかけた曲である。弦のみの演奏とナイフフォークの音の調和が美味しいと思ってのことだった。
オーボエはなかなかよかったが、必要以上にハンカチを使う演奏はマイナスだったと思う。楽に演奏してもらわないと、聴く方が疲れる。でも一応満足。
チャイコの悲愴は、実は内心私が評価していない作品。
しかし、小沢の手により、ファゴット、クラリネット、フルートと良い雰囲気で、おまけに金管が、チューバ、トロンボーン、トランペットと、良くその特質を示した演奏。敬愛するマーラーがチャイコなしにはあり得ないことを確信することができた。。
オーディエンス中、十代男子がバカ息子に限られることを観察して不思議に思って帰宅して、‘65年のカラヤンベルリンフィルでD majorを聴いて見たが、はっきり言って古くさい演奏だった。アークヒルズも「カラヤン広場」とか恥ずかしい名前を止めて、「オザワ広場」に変えれば良いのに。
花も美しいが、芸術も美味しい。
というわけで、明日より新緑下丹沢山中にキャンプに籠る。
天よ思いのままに雨を降らせよ!
2008-05-20 満月キャンプ
_ 満月キャンプ
午前4時半起床。降雨予想3時より「本降り」。
入浴後出発するも、忘れ物多し。
6時、深沢で、サバイバルキャンプ焚火名人の写真家をピックアップ
6時半海老名で参加メンバー4人全員合流。
8時丹沢着設営。雨と川の増水を想定して、流れより約5m上の「台地」に場所を決める。他のキャンプ客はゼロである。事前にこの予報下でキャンプを止めると誰一人言い出さなかったから不思議である。
午前は小生得意の焚火ソーセージに、友人用意の焼きそば。新緑が超美味しい。
3時よりの降雨予報だがその気配は全くない。
シャンパン、ビール、フランスのリンゴ酒サイダー(名前は忘れた)、ワインと飲み継ぐ。
新緑と焚火と酒で完全なる癒し。
午後は超凝った本格カレーを作る。
雨は降らない。その気配すらない。
午後6時半。カレー出来上がり直前、車と煙を見た役場の若い人間が二人やって来て、
「午前3時をピークに、予想降水量200ミリ以上のお知らせです。」
―お疲れさまです。夕食が済んだら撤退します。
このメンバーにそんな気があるはずがない。我々はもっとひどい目も経験している。
午後7時。やや降り始めた小雨の中、またしても役場の人間が来る。さっきとは異なり中年二人組である。テントの数と人数を確認して、河原に誰かいないかチェックを行う。
―毎度お疲れさまです。夕食が済んだら帰ります。
「そうして下さい。もし雨が降り始めたら絶対に河原に近づかないで下さい。大雨の予報です。ダムの放水もあり得ます。」
女性たちに呆れられる中年4人男に、ここで帰る気持ちがあるわけがない。
午後7時半。やや強くなり始めた雨の中、最上出来のカレーをパクついていると、もう一度最初の二人組がやって来た。
―お疲れさまです。何度も言う通り、夕食が済んだら撤収します。
彼らが帰った後、ミーティング。
すると、40を過ぎて愛娘を得た友人が、「俺は冒険はしない」と真顔で言う。この人物は、あの「無鉄砲」と言わざるを得ない、30年前のインドムンバイ〜パリフランス間の自動車旅行を提案した男である。
で、近くの温泉宿で素泊まり飲み直しということで、強まりつつある雨の中、びしょびしょになりながら「撤収」。
ところが、車に移ると、「締め切り」から脱出して来たプログラムデザイナーが、「僕はできたら今日は帰りたい」と言う。
あっという間に東京に戻り、深沢で写真家を下ろして、高井戸温泉につかり、午前0時帰宅後、深夜デスクワークをする合間にこれを書く。
外は殴りつけるような雨である。
「天よ、思いのままに雨を降らせよ」とは、キャンプの前に唱えるべき言葉ではない。
以上とは別に、「中年男」がなぜ嫌われるのかを観察考察できた一日であった。
男が「主体的」に生きるのに、女を気遣わずにやりたいことをすることに、いったい何が「問題」あるというのか?
我々は主体的に撤収帰宅した。
天よ、思いのままに雨を降らせよ!
自分の家ではみんなそう思っているに違いない。
20日午前11時11分、最遠満月である。
2008-05-24 贋作
_ 贋作
_ 昔、シュルレアリスムの大御所、サルヴァトール=ダリ氏が、当時氏の贋作が世に多く出回っていることについて、新聞記者のインタビューに答えて曰く。
「それは実にありがたいことだ。何しろ、勝手に私の名声を高めてくれるのだから。」
最近事務所宛に、次のようなメールが来た。
―私の読んでいる無料ブログで、「松永先生の講演会で、『衝撃的な事実』の公開があった。それを読みたい人は、有料ブログに入会して下さい。」と言うのがありました。そういう利用のされ方をされていることに先生はどう思われますか?
即座に脳裏に浮かんだのが冒頭のダリ氏の言葉であった(ダリ氏とは月とスッポンであるが)。
ライブドア側ブログ(そのうち止める予定)にも、さもありげな広告が勝手に付くが、筆者の立場からすると、その方がよほどタチが悪いと言える。筆者は、これらの広告主たちとは一「面識」もない。
「衝撃的な事実」とは何なのか?あるいはそう思わせるものは何なのか?筆者には「愉快」の一言である。
「笑劇的な」の変換間違いではないかと思うが、だとすると、このブログの方がよほどそうとも言える。
私は地位立場のない人間で、おまけにいかなる組織にも属さない「アナキスト」で三矢ならぬ「アウトサイダー」ある。もし私の言に、「衝撃的な事実」があるとするならば、それは、「冗談の冗談」か、今様ジャーナリズム同様、「冗談を了解しない生真面目さ」の結果であるかのいずれかである。
私が「冗談」で望むことは、全ての国民のリテラシー向上の機会均等化である。
文科省は、これほどの「冗談」はないと思うと思う。
アホなニヒリストが、半ば「冗談」で書いたり話したりすることを、「衝撃的な事実」とするのは、笑劇的である。
当然のごとく、以上、全て、「冗談」で書いた。
すいません。一般の人たちまで、「鷲田清一化」させて。
2008-05-27 教育再生懇談会
_ 教育再生懇談会
首相直属の教育再生懇談会(安西慶応義塾塾長座長)が、文科省の予算を現状の全体国家予算の3,5%から5%に引き上げるように要請したが、財務省にはむべなく断られた。
そもそも安西氏は、大学への援助金を増やすことを目的にする人で、公教育の本質的な改善に関心を持つ人ではない。
筆者は、最初、不要な道路建設に何十兆円も投入する余裕があるなら、少しでも教育に回すべきだとの考えから、一瞬賛同しかけたが、実は、質の低下が疑われている大学教育への資金投入のためだと知ってがっかりした。ここには、自ら血を流す改善よりも、既存権益保全のためにまず資金を得ようとする文科省との思惑の一致がある。ろくな努力もしないうちに金だけ要求するのは、躾の悪い金持ちのバカ息子とやることが同じである。
大学の教師には、権威にあぐらをかき、学生のためになるような教育を真剣に考えているものが少ないことは明らかだ。研究者の給与が少ないことは明らかだが、その前に教育の質を上げようとする努力がもっと行われるべきだと私は考える。文科省が最早不要な権益法人をたくさん抱えることも周知の事実である。そしてマスコミは巧妙にそのことには触れない。
むしろ、教育再生はまさに底辺部からこそ行われるべきではないか。
現場の子どもたちは、システムやメソッドの古さに辟易しているのである。
教育においては、「機会均等」が合言葉であることを忘れてはなるまい。
再生懇の主張の要は、子どもに携帯電話をできるだけ持たせないことと、英語教育の初期導入である。英語教育に多額の資金を投入するなら、しっかりと読み書きができる教育に力を入れるべきだ。しかも、それならさほど資金も要らないはずである。
我々は、中教審、再生会議が、実は文科省の利権には巧妙に触れないような施策提言をする文科省主導の組織であったことはとうに気づいている。文科省が無駄な権益組織を整理するつもりがなくて、どうして教員の質の向上を唱うことなどできようか。英語教育の初期導入の陰には、本格的な国民リテラシーの向上を抑える目的があることを忘れてはなるまい。ゆとり教育でもそうだったが、文科省には、底辺部に、未来の低所得労働者を準備するために、どうしても日本語がよく分からないものを作る意図が、経済界と一体になってあるのだ。
再生懇は、学生バイトの賃金増加でも提言する方がよっぽど利口ではないのか。
民主党はグローバル社会化における「国家主権の委譲」などと馬鹿げたことを提言しているが、選挙に勝ちたければ、「どこへ行っても日本人はなかなかできる」という「国民全体のリテラシー向上」を掲げるべきであろう。日本語でしっかり考えることができないものが、小手先の英語力で世界に対応できることなぞあるわけがないのは明らかではないか。
携帯電話を槍玉に挙げるなら、その前に、拙劣なテレビ番組を見せないようにすることを主張するべきであろう。また、川島隆太の任天堂ロイヤリティー24億円の全額寄付に裏付けされるように、子どもへの害が明らかになったテレビゲームの禁止や親子や地域の対話が深まる焚火教育でも主張してみてはどうか。
以上当然のように「冗談」で書いた。
2008-05-29 理想と現実
_ 理想と現実
今年で結婚25年になる我がパートナーは、筋金入りの現実主義者であり、常に私の言うことに反論する。そのせいか、彼女は私の書いたものを一切読まない。
その彼女に、前回ブログに書いた内容を話すと、「それは安西さんが正しいと思う」と言う。
彼女は息子の公立中学校の授業で行われている「衝撃的な事実」を紹介し(この内容については、当ブログを学校の先生もチェックしている可能性があるのでここへは書けない)、「だからね、教師にしろ生徒にしろ、自分のことしか考えられない人たちを救うことにお金をかけることは、あまり意味がなくて無駄なことなのよ。それくらいなら一生懸命勉強している人たちに援助の手を差し伸べることにお金を使うことの方がよっぽど現実的なはずよ。国民全体のリテラシーを上げようとすることなんて、その人たちには気の毒だけど、無理に決まっているでしょ。」と断じた。
リテラシーがないのは、品性同様、家庭の問題、学校が解決することができるわけがない、というのである。私はなぜか昔トルストイが自著で、取材料を払って貧困者を救おうとして嘘ばかり話されて落胆したことを書いているのを思い出した。
暗澹たる気分になる。
だったら、貧しくても懸命に生きている人たちはどうなるというのか。
私はいかなる人間のリテラシーをも向上させるメソッドを考案/実践して来た。それを公教育で伝達しようとすることが無意味であるというのである。
自分の考えることが理想論に過ぎないとは、まさに「衝撃的な事実」である。
さて読者の皆さんは、この問題についてどう思われるか?