ブイネット教育相談事務所


2008-04-01 国語力

_ 国語力

私はタイムマシンの開発にはまだ至っていないが、全ての人間の国語力を急上昇させるメソッド開発はできてしまったようだ。しかしそれは、一つのメソッドではなく複数のメソッドを組み合わせたものだった。 

その第一は、カタカムナ音読法。これによって日本語の正しい音声発音と日本語の年功序列的発展変化形態とその不変化性をベース教養習得させる。

その二は、抽象構成作文法。全ての子どもにあっという間にオモロい作文を書かせる。

以上は基礎編。この二つがかなってこそ,国語力の土台ができる。

そして、その第三は、ダイアローグ法。これによって入試問題出題者と一対一で対峙する。

その四が、選択肢レトリック読みとり法。これによって、正解選択肢を限りなく絞らせる。

その五が、抽象構成記述解答法。無駄なく記述解答の答えを出す。そしてこのことによってこそ、選択肢の最終読み切りが可能となる。

その六は、ただ今開発中であるが、禅問答的正解直感解答法である。もしこれが一般普遍化できれば、日本語は「進化」する可能性が高いとも言える。日本人の「脳」が進化するのだ。

だから、私と「対偶存在」である「行政」が、もし、自分たちの権益保存を超えて国家の未来利益を優先するなら、すでに私に何らかのアクセスをしてくるはずである(アクセスしてくれと言っているのではない)。

おそらく私が開発したメソッドを上回るメソッドを作ることはそう急にはできまい。

すでに国外から注目されているのだから、その国に飛んでその国の国語力増強に示唆を与えても良いぐらいである。

韓国には言おう。即刻漢字教育を復活させるべきであると。

中国には言おう。中国語発声教育を大々的に世界に発令せよと。

漢字は、明らかにヒエログリフやアルファベットより優れる。

英語に対抗できるのは中国語しかないと思われる。

おそらく全ての言語は20億人とも言われる中国語に「意訳」されてしまう。

商業交渉に優れる英語の拡大の背後で,20世紀の認識哲学あるいは数学思考に寄与したロシア語がその輝かしい役割を終焉しつつあるのは、「サブプライムテロ」に破れたブッシュ同様、プーチンのやや浅はかな国家戦略に象徴されていると思う。国家による「弾圧」を容認する声明を出すとは、イスラエルが微妙に避けている北朝鮮的言説である。プーチンは疲れの出た「田舎者」なのかもしれない。トリックスター小泉のように「芸術」を語って見せることができない者のかもしれない。

言語とは人をダマすものではなくて、個人の意見を伝えようとするためのものである。

このことを捨象した時、「民族」は「世界資本」に「身売り」する。

長期的時代予測が実はないのに、驕り高ぶる我が国経済トップ人。

彼らは以後に自分たち以上に優れた世代が現れることに怖れを感じていない。

グローバル下における新自由主義的弱肉強食原理がやがて自らを喰い滅ぼすことについて自覚的ではない。

しかし、何があっても、国語力に優れれば生き残ることができよう。

音読と自己説明力に不備な者は永遠に「支配」を受けよう。

なんとなれば、国語力とは実はコミュニケーションのための能力だからである。

そして、優れたコミュニケーションは、比喩と「変化球」なしには成立できない。

以上全く、「冗談」で書いたと書かざるを得ない。


2008-04-04 禅問答的正解直感法

_ 禅問答的正解直感法

「禅問答的正解直感法とは何か」と、尋ねてくる「暗号解」読者がいる。しかし、それは「企業秘密」的に韜晦するべきものであるから、いささか増え過ぎた読者数を減らすことも求めて、「冗談暗号記述」を試みる。

ここに私が注視するのは、日本海側産にはすまないが、道元正法眼蔵的存在認識把握ではなく、臨済的言語認識的活動である。敢えて言えば、ヴィトゲンシュタインはこの範疇に属す。

もし、執筆者の言わんとすることが、つぶさに認識把握された上で、他者による設問解答に答えなければならない事態に遭遇した場合、「最低点法」的には、いかに短くこれに正解答しうるかが課題となる。

東大京大には、受からないと思われるのに軽く合格する「部外者」がいる。私は彼らが、国語記述で、「禅問答的正解記述」に成功したものたちであると見る。橋本治は、おそらくその「代表者」である。

断っておくが、これは特定の一者に対して記述されているものではない。複数の読者に伝達せんとして書かれるものである。

読んでいる文章の記者の言わんとすることが隅々まで見通せて、それがおおよそ自己思想範疇内であることが認識された場合、後はそれを「了解」したことが伝達できる最低限の文章で「正解」になる。これは、日能研記述模試同様、採点者が「無能」である時不可能であるが(日能研は、「日能研記述模試で『不正解』になっても、一般私立入試では正解になる可能性が高い」と言うレトリックを使用している)、これは、「禅問答的正解記述」を意識的に捨象した戦術である。日能研は、和田同様、確実に暗記した方が「勝利」に近いと主張しているのである。

もし東大入試の国語記述で、55字相当のところで、20字以内で解答できる場合、そのものは、当然早稲田選択肢や慶應小論文でも「勝利」するから、いかに総長小宮山が低人物だとしても、東大としてはこれから取らざるを得ない「人材」であることになる。

優れた比喩を含意して、筆者を打ち負かす自我行為は、あらゆる国語試験に圧倒的勝利を収める。何となれば、そんな者はこれまでごく少数の世界の者であったからだ。禅的独自判断は否定不可能な事柄なのである。採点官が凍りつく瞬間である。

しかし、今、東大を捨象しても、地方国立やSFCの選択があり得る世の中になった。最早、「東大」は大学院で入れば「充分」の大学である。「内部生は無能の山」とは当然の声である。そして、世の中は、「永久雇用」を捨象するのが「常識」である。

「勝つ者」は優れたコミュニケーション能力を備えた者だ。そして、与えられた事柄で確実に上達する者だ。単なる「真面目」の価値は、「バブル崩壊」で消え失せた。あるのは、「未来型覚醒認識」である。それが何なのかは、同じく「営業上」ここには記さない。ブログでそのことを知ろうとする段階で、その人は「規則」に背いている。

歌舞伎で「型」が決まる。

政治で、「詭弁」が通る。

知識人が、セルバンテスやバルザックを読む。

哲学者ベルグソンが「笑い」を書く。

そしてそれを、林達夫が訳す。

浅田彰が芸術大学長になる。

なんて明瞭なこと。

「冗談」で国語入試に勝つのがこれからのトレンドだ。


2008-04-06 音読指導20時間

_ 音読指導20時間

パートナーの経済的締め付けに辟易する毎度おなじみの今日この頃である。

男性としか飲まない私は大の女性苦手者であるが、その実クライアントのほとんどは母親たる女性たちである。

滅多にないことであるが、私的に、「こういう人なら共同生活者は幸せであろう」という人にお遭いする。

「匂い」は関係あるかもしれないが、「器量」はほとんど関係ない。

「美しい」と呼んでも良い。

自己滅却の子どもの幸せを思う心に胸打たれるのである。

「こんな風に子どもや周囲を愛せるなんて、男にできることではない」と、我が母親を想ってしまったりするから、永遠に「客観化」することができないものがそこにはある。

自我より他者愛が優先される美徳。

これは理性的に他者を容認しようとする男性には及ばぬものである。

十代で自殺し損なった私が母親に愛されていたと同様、自身を捨てて子どもを愛する母親がいる。

子どもを通じての「自己表現」を越えて、その存在を愛するものは、皆「天使」である。

自分より他者を愛していることにすることの快感―それを私は知る。

自己愛では「自己愛」が完結しない。

それが「哲学的真理」だ。

全ては他者との関わり合いと、存在自体が自己の存在認識を超越した女性的「真理」である。

してみると、逆転的に、自己の「ワガママ」への無自覚は、女性的魅力への「捨象」である。

愛されることを願うより、愛してしまうことが本道なのだ。

やはり、子どもが母親に愛されていることを前提に成長するのは当然の帰結である。

しかし、「愛」には、「変化球」=「技術」が必要である。

何となれば、愛を伝える言語が不完全なものであるから。

「他者を愛するのは自己が愛おしいから」というのは、我が敬愛する「ウパニシャッド」、ヤージュナヴァルキュア仙の出家の言である。

でもやはり、太宰の「子より親の方が大事」。

3日間で21時間音読指導した。

これがどういうことを意味するかを捨象する家族は、感謝とねぎらいの希求を拒絶した。

まあこんなものである。

「平気」なことが不思議である。


2008-04-08 鬱病回復

_ 鬱病回復

4月8日、4:30に近地点(361079km)通過。強い雨が、ここ屋根裏部屋をザーザーと襲って気持ちがよい。

相変わらず苦しい精神状態が続いていたが、今日、「実はこれは働き過ぎから来る一種の鬱病ではないのか?」というダイアローグが生まれ、「どうもそれは正しい可能性が高い」という答えが返った。

22歳の時、大旅行で何もかも吹き飛ばしたはずなのに、10代の自殺願望がフラッシュバックしたことがある。

その時に、「ああこれは、行動しないことを容認するために、考えごとの世界に逃げ込んでいるのだな」と認識すると、その瞬間に立ち直ることができた。

以来、鬱病は完全に自己コントロール下になった。

広告業界等では、約半数が働き過ぎで「鬱病」だという報告がある。

考えごとをし過ぎるからこそ鬱病になると断を下していたのに、別の原因があるのがどうも腑に落ちなかった。

しかし、今はそれも理解できる。

私は、昨年以降、充分な休みがない状態で、「これに耐えれば三月以降に10日間の休暇が取れて、久しぶりで大好きな一人旅に出ることができる」と念じて、かろうじてこれを乗り切ったが、家人が全くそれを理解してくれないという「甘え」によって、精神不調に陥ってしまったらしい。体重も減って、ズボンがゆるゆるである。情けないことである。

だが、

―自分は働き過ぎで、脳が疲れて鬱病になりかかっているのではないか?

と、強くダイアローグすると、まるで乾いた植物が水を吸収して行くがごとくに、頭の中の体液がこれまでと逆方向に流れ始めるのを実感することができた。

まずかったのは、「家族に理解されたい」という「甘え」であった。

その甘えを意識的に捨てると、新しい原野が広がった。

私はその前に立つ一人の人間である。

―確かに疲れてはいるが、私にできることは前向きにやっていくことだけだ。

疲れも精神不良も関係ない。

そんなものは気のせいである。

私はやりたいようにやる。

やらねばならぬことはたくさんある。

執筆も、講演も、指導も、教育相談も。

人は、ヒマな時だけではなく疲れ過ぎの時にも考え過ぎになる。

そしてそのことに無自覚であると、「鬱病」になる。

_ ―私の小屋は良く葺かれ、風も入らず心地良い。

天よ、思うままに雨を降らせよ。

_ スブーティーの言である。


2008-04-12 ウズラパウンド

_ ウズラパウンド

新学期になっても相変わらず身辺慌ただしい。

ウズラハウスは超難航。

休みの日に雨が降るのが痛いが、「天よ、思いのままに雨を降らせよ」と言った手前、それを憂えるわけにはいかない。

「部分と全体集合」、私はその考察に長ける者であるが、このことは、抽象アートに親しんだことにより「加速」された。

全てのことを「現象学的還元」すると、「アジア的真実」が見えてくる。

アジアは、上から読んでも下から読んでもアジア的に正しい。

そもそも「西洋」とは、「東洋」の対立概念に過ぎない。

アジアは「人種の坩堝」をも「包含」する。

私は「哲学結果冗談人」で、宗教と政治を「アウトサイドするもの」であるが、「拘泥」をよんどころにする人たちには「得体の知れぬ存在」であるに相違ない。

「価値」とは自己決定するものである。

この「哲学的命題」に、自ら挑むことのないものは、「プヨプヨした存在」になる。

「存在」とは、「自己決定」である。

教育相談の仕事以外にも、執筆、加筆校正、講演レジュメ、コンテンツ作り、企画原案、メール解答、ビジネス決定判断、会談‥etcとあるから、ほとんどの私用電話に応じられない。しかも、暇さえあればウズラハウス。とりあえず晴天本日、7時間かけてだいたいの骨組み構築終了。後は網を張ってウズラとどぜうを買ってくるだけ。おっと、蝶番で戸も付けなければ。

それにしても、手先が器用の逆の自分には(技術家庭、中3二学期のみ4)、ものを作る作業がこんなに愉しいとは信じられないこと。あっという間に時間が経って日が暮れる。

ダライ•ラマ14世は聡明なる現代的「聖者」であるが、ただ「暴力はいけない」では「暴力」に会い続けている「現場」には理解しがたいことだろう。「なぜ暴力がいけないのか」を語らなければ、中国政府には「田舎のお人好し」と目されることだろう。ただ、全人代政権が、資本主義的に行き詰まりつつある米国既定政権同様、「民主化」的に「崩壊」するのも当然の方向性であろう。中国では、歴史的に、時代の変わり目には、官僚の蓄財的汚職が蔓延する。

長年、中国の真似をして来た我が国でも同様である。

国民リテラシーを低下させる方向性。

これを、「保守」という。

ついに、文科省汚職が大きく明るみに出たが、これが、道路交通省同様、「支配」の一般結果の「氷山の一角」であることを、冷静に認識する視点が欲しい。

「支配」とは、集めた金の分配権と人事権のことである。

私は、低給に甘んじる下層労働者を気の毒に思うが、彼らはそれに気づくだけのリテラシーを、すでに奪われてしまっている。

メディアは、「スポンサー」の味方である。

私はクライアントの味方である。

クライアントたちは、「ダマされるのはまっぴらだ」と感じている。

18日より山陰講演絡み旅行。

5月10日に、自然育児友の会主催で、午前が基調講演、午後がカタカムナ音読会。場所は代々木の旧オリンピックセンター、興味のある方はネットで問い合わせて欲しい。フラットに本音を語る予定である。


2008-04-14 国語記述模試

_ 国語記述模試

4月13日は、父の一周忌だった。墓前に集合した親族と祈りを捧げ、その後会食した。月日の経つのは速い。「光陰は百代の過客、浮世は夢幻」である。カイドウの咲き誇る頃父は逝った。

夕方帰宅後、最早花まで付け始めたホウレンソウを全部収穫して、サグチキンを作る。同時に、ブロッコリーが好きという来日中の妹のために、ブロッコリーも収穫して、サブジを作る。息子に手伝わせてプーリも揚げる。意外かもしれないが、私にはインド料理の心得がある。

明日より母と妹と伊豆へ小旅行だが、ゲラ持ちである。帰って水木と事務所で仕事をして、金曜から山陰へ飛ぶ。ウズラハウスのヒマはない。

前に日能研の記述模試について書きかけたが、これを含めて最近の(既定の)記述模試状況についての考察を書く。

日能研の記述模試は、約1600名を集めて行われた。3000円でおよそ500万集めたことになる。でもこれでは、制作費、人件費を考えると、収益はあまりに少ない。ご存知の通り、日能研は「模試での復習がすぐできるようにその場で機械採点してコピーを渡す「サービス」を行っている。

四角いアタマをコンクリで固める。顧客ニーズに合わせたレトリックを意識的に用いる。

しかし、この試験は「茶番」である。日能研は、「日能研でバツになっても一般私立の試験ではマルになることがある」と、暗に意図的に採点を辛くしていることを示唆する。これを聞くと、親たちは、「採点が厳しいと子どものためになる」と錯覚する。

どの塾でも記述模試で頭が痛いのは採点である。国語記述の採点には手間と能力が要る。忙しい選任講師を使うことはできない。ゆえに東大等の優秀君がバイトで採点することになる。でも、国語採点の驚くべきところは、「禅問答的正解答」を書くものが現れることである。これは通常の教師には採点できない。東大の採点官は採点できると私は踏む。というよりも、「おっ、これは!?」という答えが見つかったら、採点者同士で意見を交わして正否を決定すると思う。合格者の50人に一人以下の優れた記述解答を、想定模範解答を逸脱したからと言って×にするのでは本当に優秀な者を逃すことになる。そんなことをすれば未来型の法文書を作るものを得られない。ゆえに、出題者がうなる解答をするものはとても大切な存在なのである。私は体験的に知っている。真に優秀な生徒は若年にして教師をはるかに上回る解答を思いつく。

すると、もし日能研でバツを食らえば、その生徒は自分の能力に自信が持てなくて「愚鈍化」することになる。センター試験文科省教育と同様である。いやそれでもつぶされない強さが「本物」であろうが、純な子どもの中には、大人が自分よりアタマが悪いとは喝破できないものも多い。

日能研主催の一般センター試験でも同様のことが起こる。訳の分からない字数指定と、センスのない抽象語利用が義務づけられる。これも明らかに採点の労を少なくするためである。

このことは、サピや早稲アカ等の記述に絡む模試でも同様である。疲れて能力が低下した教師が採点しやすいように作るのであるから、優秀君は、眼が点になる。

日能研は当然このブログに眼を通しているだろうから、いつも通りすばやい対処をしようとするだろう。サピや早稲アカにはその「余力」も人材もあるまい。

偏差値だけに一喜一憂する親たちを「カモ」にする戦術(営業方針)は、今後も連続するだろうが、模試を利用して力をつける方法を示唆する私には頭が痛い問題である。結論から言えば、真の記述力は塾の授業や模試の復習では到底つかない。最近弁護士の相談が多いのはこの辺りを踏んでのことだろう。

麻布、武蔵、筑駒、などの入試問題を題材に、本当に力がある人間に直接学ぶしかないと思う。

以上些か日能研のためになってしまったが、すべて「冗談」で書いた。


2008-04-21 危機一髪

_ 危機一髪

旅行前に「サーバーメンテナンス中」とかでupできなかったので、事務所の人にメールで頼んでおいたが今見ると更新されていない。1日早く帰って来たのでこのままちょっと掲載する。

どんな本を出すと売れるのかは永遠に謎である。扶桑社から出した本は相変わらず売れ続けているが、PHPやグラフ社から出した本は、オモロいことが書いてあるのにいまいち売れない。

この後ろで出す予定は、扶桑社から3本と、主婦友から1本、三笠から1本である。実は他にもあるが、「多忙」により応じ切れない

以下、23日まで、東京を離れるので、いつもより長く時間を取って記す。

伊豆旅行は「成功」のうちに終了した。

結婚前、式根島教員の経験がある母は、子ども二人と揃っての旅と、下田を満喫した。最後は下田漁協に寄って、大喜びで大伊勢海老をつまみ上げて、大漁購入。それを引っさげて拙宅に寄り、生きている海老に嫁孫どもが仰天するのを楽しんで、自ら厨房に立って料理した。

母が悦ぶのは、子どもが歓ぶのと同様に、分別なく嬉しい。

行きは東名小田原厚着有料道路。真鶴方面、相変わらず実は元漁師、伊豆人が客を「獲物」と印象させる馬鹿な私用希望の有料道路。宿泊は伊東一碧湖。帰りは、下田街道、川津ループ橋直前、登り直線斜線でイエローラインが切れた瞬間、前の紺色ロングワゴン、その前にミニバンを、MINIがお得意の高速時走行時急加速でワンアクセルで追い抜いて、坂道を軽く駆け上がると、対向車よりパッシング。速度計は90を越えていた。しかし、バックミラーのワゴンは、全速力で背後に付いて来ているので、急ブレーキが踏めないところであえなく「御用」。40キロオーバー、レーダー、スピード違反である。

まあしかたがないと思って免許証を用意して下車すると、

「本当は速度違反なのですが、後ろの車の車間距離が近かったので、前の車しかチェックできませんでした。不公平になるので免除しますが、前に停車中の名古屋ナンバーの書類処理が終わるまで待って下さい」と、まるで連休明けの観光客をも気遣うような言。判例があると直感認識する。

「ご職業は?」と聞くので、「著述業」と答える。沼津ナンバーワゴン車ドライバーは、「解体業」と答える。前の「名古屋」は怒り心頭で激しく抗議している。

許された時間内で、最大限の警察情報を引き出す。「セコムさん」はありそうなこと、しかたがないとの「供述」。

母は言う、「あなたはホントについているね」。

18日より山陰講演旅行。紀行文希望者が3名を越えたらこれも試みる予定。

ここで禅問答問題。

岩波文庫『臨済録』より、

黄檗和尚のもとで3年修行中の臨済は、修行者リーダー首座の助言のもと、黄檗に、「仏法的的大意」を尋ねて、その質問の終わらぬうちに叩かれることを3度繰り返す。その後、隣山の大愚を尋ねて、「黄檗が老婆心のような心でクタクタになるほど教えているのにそれが分らないのか?」と返されて、即座に大悟する。黄檗山に帰った臨済は、黄檗をぶん殴って、認められる。

読者に問う。

なぜ黄檗は、仏法的的大意を尋ねた臨済を叩いたのかを。

答えは22日以降。


2008-04-24 山陰紀行

_ 山陰紀行

空から鳥取へ降りようとしたが悪天候で伊丹に降りられた場合、どうするのが正解か?

予感的中。この3日間、繰り返し脳裏に浮かぶのは「時刻表」。前日吉祥寺で本買うついでに求めたが手に入れられなかった。

午後2時。土砂降りの雨の中、バッグ以外に、東女前アテスウェイのチョコレートケーキを手に、傘を差して駅まで。ここからJRで東京経由浜松町東京モノレール羽田へ。用が済んだ傘は東京駅でそのまま車内に「捨て」た。

空の上は晴れ。しかし、45分後に、‘This is the captain speeking.’

「天候不良で鳥取空港の着陸が叶わない場合、米子に着陸しようとしますが、それも叶わぬ場合は、伊丹に降りることもあることを予めお断りします。しばらく地上と交信しますのでお待ち下さい。」

で、結局、グルグル3回。米子もダメで伊丹に降りたのは、6時過ぎ。バッキャロー、軍事的強行着陸訓練のないものは機長になるな!6時半より鳥取料亭で会食予定。この問題を解決するにはテレポーションしかないが、私にはその能力はない。電話して「勝手に始めてくれ」と伝える。

空港外へ一番に出て、そのままタクシーに。雨は降っていない。

「新大阪!」

約25分で新大阪。とりあえず最善策。JR窓口は長蛇の列。何も考えずに券売機で姫路までの乗車特急券を買って下りのこだまに乗る。これで相生先の上郡で、智頭急行特急電車に追いつこうというわけだ。ここでついに時刻表購入。

京都発のスーパーはくと11号は、通過直後だった。次は2時間以上待たなければ来ない。では、岡山から米子方面やくも号か。しかしこれも時間が合わない。そこに登場したのが、岡山鳥取間を走る「スーパーいなば」である。これだと鳥取に9時半に着く。

広島行きこだまで姫路の二つ先の相生まで移動。いちいち「のぞみ号の通過待ち」のため、長時間停車する。西明石では何と9分も停まった。相生で切符清算。現地までの乗車券を買う。いなば9号の指定席券は「完売」とのこと。そこから15分待ちで山陽線下り電車に乗る。上郡で、3分待ち。20時21分、私は向かいのホームに停車したスーパーいなば9号に乗り込んだ。列車は何と、2両編成。前が自由席後ろが指定席である。自由席は満杯。こういうときの「手」の、グリーン車はない。指定席車両の空いたところに座り、車掌から座席移動条件付きで指定席特急券を購入。

第三セクターの作ったラインは確実に距離を稼ぐ。斜面に強いディーゼルカー。京都倉吉間を3時間半で結ぶスーパーはくとと同様の走行である。

山陰側は雨。しかも川の水量からするとすでに結構降った気配。まるで居座った低気圧のお迎えを受けているようだ。

21時30分鳥取着。伊丹から3時間半。予定より4時間30分遅い。山陰は遠い。

ここまで食事のチャンスがなかったが、料亭の折り詰めが待っていた。

羽田で買ったトップスとアテスウェイのチョコレートケーキを比較。

これは比較にならなかった。次回よりアテスウェイだけにすることになった。

筆者多忙のため、この記述はできるだけ短く済ますことを「目的」にしている。また、今回の山陰行きはまだまだその本当の「目的」を伏せておく方が良い、と心の中の誰かが言う。つまらないと思う読者もいるかも知れないが何回か不定期にお付き合い願いたい。


2008-04-27 三朝

_ 三朝

東伯郡三朝温泉木屋旅館は私の最も愛する宿である。

明治元年創業。大正ロマンの香り高い、渋い木造3階建て。

温泉は最高級天然ラジウム泉の川湯。何せ旅館の真下から湧いている手掘り温泉だから、「元湯」も何もあったものではない。湧出温度が70度以上と高いので薄めずには入られず、意地悪なメディア情報で一時期誤解を呼んだほど。初心者で敏感なものは思わず気絶し、浴後にぶっ倒れて3時間以上轟々と鼾を立てて寝入る。

私はこれ以上の温泉をいまだ知らない。しかも、ここには伊豆修善寺も及ばない文人の香がある。何とこの温泉一家は皆、正真正銘の「文人」なのである。

それもそのはず、女将たる御舩道子は、かの宮沢賢治の文学同人で、『銀河鉄道』の、溺死するカンパネルラのモデルである河本緑石の娘であり、文人にして染織家、環境活動家にしてカジカガエル復活の仕掛人。口を出る話の数々は、その一風とぼけたのどやかな語り口とは逆に、あっと驚く含蓄深いオモロい感動話ばかり。これなら「芸者」も不要だ。自称「宿六」旅館主人の、息子の御舩秀は、常に上機嫌で画を良くする。特に得意なのが、なんとフィジー仕込みの、客人即席の似顔絵水彩画。サービスでモデルを若く描き過ぎるのが難。この人の地元消防団体験話は抱腹絶倒。バカらしいほど心から笑える。

この宿は、カント分析の「歓待」の理念を極めて良く了解する。宿のものが全員上機嫌で迎えてくれるのである。これも「山陰」という遠い地で客を迎える「知恵」なのかもしれない。

そして、ここの料理は本当に美味い。特にかに鍋コースの美味さは絶品に値する。いつもお腹がいっぱいになって、御飯にまで手が届かない。でも、これまた美味いので、お新香だけは食べてしまう。

大の温泉好きの私にとって、温泉旅館のご子息の家庭教師は、この世で最甘美の仕事である。

かつて私はこの旅館のお二人のお子さんの家庭教師をしに来ていた。ほぼ一日中指導をする代りに、いつでも温泉に入っても良いのである。それなら遠方出張も引き受けてしまうではないか。

「あっ、キミこの問題解いておいてくれる」とか言って、最高級温泉につかる背徳行為の甘く華美なこと。湯上がりに生徒に詫びると、「うちのお風呂だったらしかたがないですよ。だってあまりにいいから」と許してくれる。指導にもさらに力が入る。

湯屋の外に広がる景色は三徳川の川瀬である。 

河鹿鳴く 三朝川瀬の 木屋の湯屋 (冗兆)


2008-04-28 山陰事情と山口補選

_ 山陰事情と山口補選

山口2区補選で自民党が敗北した。町村官房長官は、その敗戦理由をメディアの不親切のニュワンスで語ったが、データを握る政治家が真実を知らないわけはない。また、「この結果は全国的なものではない」との発言もしたが、薩長連盟保守王国岸安倍の山口でのこの敗戦は単に痛い以上のものがあって動揺を隠し切れないのであろう。事実は単純、東北同様、農業関係者が自民党に投票しないのである。

農業関係者と言えば、極めて保守的な存在。毛沢東を困らせたのも土地を手に入れた農民だった。しかも平均年齢が高いため、さらに保守的であるはず。その人たちがなぜ自民に投票しないのか。

小泉流新自由主義的改革による地方交付税の削減、加えての町村合併。これが農家を目覚めさせる大きなきっかけになったことは明らかだが、実は自民票をまとめて来たJA(旧「農協」)が農民の信頼を失ったことが大きいのではないか。

収穫物は、JAに預ければ売ってもらえる。補助金もつく。しかし、JAから配給された農薬、化学肥料、農業機械のローン、年金、健康保険料、その他を引いて農家が手にする収入は、「これでどうやって生活するんだ!」という金額である。おまけに、農薬による肝臓がん等を初めとする健康被害は思いのほか大きい。若い世代は当然とうに見切って、都市労働者として故郷を捨てる。そして、地獄のような「過疎」が押し寄せる。金が入らず老人が増える。どうしようもない。

「JAにダマされた」、「JAは自民党の下部団体だ」、「道路作っても儲かるのは会社だけ」。

これが山陰の人の多くの声だった。  

私の目には、これは「国家公務員」と「地方公務員」の戦いにも見える。

国家と地域のどちらを優先するか?

「地域」であるに決まっている。それも「地方」であるほど。

自民党は速やかに農家に受ける政策を提言をしようとするだろう。

しかし、その「法案」が通る見通しはまことに少ない。いちいち「再可決」を踏むのでは、人気取りの政策なんて、簡単にできるわけがない。

最早自民党は、次次回を鑑みて、たとえ惨敗するのが見えていても衆院選挙を行わなくてはならなくなろう。トリックスター小泉はまず登板しないだろう。ということは一か八かの舛添でも負けるという姿が次回衆院選の自民党の姿だろう。アソーは本を出して頑張っているが、外務大臣に「さいとうたかを」据えることはできないだろう。

考えてみれば、民主母体がトップ層ではない公務員であることを思えば、負ける自民は「天下り」と「公共事業」、つまり、人事権と配分権を失うことになる。しかし、公明党がこれ以上に社会福祉資金を失うことはないだろう。彼らは耐えたのである。地方同様に。

でもね、小沢は権益の美味しさを知る旧田中派出身。だからこそ、自民民主合同に色気を見せた。ということは、小沢は「後ろ盾」に自信があるというわけだ。

さて、もし皆さんが「高級官僚」であれば、次の打つ手は如何なさいますか。

ダイアローグの練習に使って下さい。

ローカル車内で見た山陰は本当に貧しかった。旧西ベルリンから東ベルリンに入った感覚に近かった。そこには、都会とは異なる意味で、「耐えて生きる」人たちがあった。

生きることに耐えている人たちは、ダマされて生きることに耐えることはできなかろう。

「百姓一揆」を感じさせる今回の選挙の結果であった。


2008-04-30 旧友家族

_ 旧友家族

芸術家の子どもたちは元気だった。

上は小学三年、下は1年。どちらも男の子である。

元甘えっ子の上の子は、このところやけに体の発育が良く、同時に周囲の状況を的確に把握する能力に優れる。

下の子はいつもニッカニカの上機嫌。悪い癖があって、誰かまわず、いきなり男性の股間を突く。約15分おきに水戸黄門のテーマソングを歌い始める。

六歳が歌うのである。

〜人生楽ありゃ苦もあるさ〜

―おまえそれが分ってんのか?

―わかりません!

―続きは?

―知りません。

と言って、間髪入れず、「ちんぼぼぼぼ〜」とか言って、いきなり股間を突かれる。

―キミねえ、そういうことは普通は人にしないことなの、お願いですからもうしないで。

と言うと、かえって喜んで、隙さえあれば股間を狙う。

―ボクねえ、きれいな女の子を見るとチンポが立つよ。

小学1年でこれではこの先が思いやられる。

二人ともカタカムナ音読が驚くほど上手い。

上の子は顎の形も完璧である。

―しっかり稼いでまた来てね。

と、上の子。

―今度来たときは、おにいちゃんとボクの間に寝かせてあげるからさ、ねっ。

と、下の子。

芸術家の子どもは「健全」である。

_ 何名からか問い合わせがあったようだが、5月10日の講演については、以下に直接問い合わせて欲しい。

_ 自然育児友の会

(TEL) 042−361−8565