ブイネット教育相談事務所


2008-05-10 臨済禅坊主

_ 臨済禅坊主

世に価値観が備わらぬ場合、我々はいかに行動するべきか。

価値観とは判断の集積である。日常のあらゆる価値判断が重層的に折り重なって、個人の「価値観」を方向付ける。

有り体に言えば、ダイアローグと追体験の連続が価値観を構築する。

我々は問い続けなければならない。

自分はどう思うかを。

主体的な判断習慣がなければその人には価値観がないのである。

テレビはどうするべきか。見ないべきである。それは価値判断を曇らされるから。

同様に、自らの価値判断がないものが新聞を読めば、書いてあること以外の考察を捨象する。

拙宅のお隣の一つは臨済宗の寺の駐車場である。およそ14台のスペースで、私の家側にぴったりと高級車の入った車庫が立っている。この駐車場は車庫以外に何もなく、完全にアスファルト打ちっぱなしで一本の木も植えられていない。

ある日若い住職が私の留守に訪ねて来て、娘に、「お宅の蔓草(クレマチス)が、少しこちら側に出ている。フェンスに直接植物を絡ませるのは遠慮して欲しい。ラティスを立ててやって欲しい」と言ったとのことなので、後日フェンスにラティスを針金で付けてクレマティスを向こうに出ないようにした。

すると、今度は私がいる時にやって来て、「図面では塀の立っている部分は当寺の所有になっているから、ラティスを塀に括り付けるのは止めてもらいたい。」と言う。

お巡りさんよりオモロいやつがやって来た。何せ相手は臨済禅の坊主である。ここは思いっきり我が「JOKER様」を楽しむことができそうだ。千載一遇。相手が私の驚くべき「趣味」に気がつくわけはない。この坊さんには、幼い子どもが二人ある。やや談笑して、

―貴兄は、境内に松を植えていた若き臨済が、師の黄檗に、「どうして松を植えているのか?」と問われて、「一つには寺の風致のため、もう一つには後世の目印として」と答えたのを知っているか?

―そんなこと覚えていません。

―それでは禅問答の答えにならない。

―禅問答なんて難しいことはもっと頭のいい人たちとやって下さいよ。ボクはボクなりにやりたいと思ったことをして生きているんですから。

_ 実際の臨済禅ではここで叩いて良いことになっている。なぜかと言えば彼はこの言葉によってちょっと出た植物のことで文句を言うためにわざわざ人を患わすことを自分のやりたいことだと口にしていることになるからである。これでは相手にならない。ゆえに最早完全にふざけることにする。

_ ―そのうち金が入ったらこの土地を買って、若者用のストリートバスケのコートにしようと思うんだがその時はよろしくね。

―何言ってんですよー、うちは法人だからそんなこと無理なんですよ〜。

_ どうしようもないことである。私は昔臨済禅の高僧を三球三振に打ち取ったときの軽い虚しさのような感触を思い出した。この人たちには完全に臨済禅の精神が伝わっていない。ただ形式化した中での寺院経営者たちである。仏教的的大意を尋ねることもない。超お笑いなことに、臨済が末期の席で述べたことが成就していることになるわけである。

このことは曹洞宗や浄土宗でも同じかもしれない。それどころか、真言宗系からは、最近の高野山の僧たちの保守的権力執着にはどうしようもない膠着があり、「JAの小作人」に見切られる自民党同様、見るも無惨な姿であるとの情報も入る。これでは、「オーム」が現れるのも致し方ない。

苫米地が批判するのはこのような仏教界の情けない姿である。

胡錦濤は池田大作には会った。