2008-05-18 小沢征爾新日フィル
_ 小沢征爾新日フィル
あまりに書くべきことが多くあるのに、それを皆書くことはできないから「抽象化」する。
これが私の基本的な執筆スタンスである。
私にとって「アイデア」とは、別次元別範疇の事柄を同一平面に結合してオモロがる、抽象アート的所作に他ならない。というよりも、その「認識」である。
「アイデア」は間断なく起こる。
でも私はそれを書き留めようとはしない。
書き留めれば、それは「固定化」する。
まるでコンポスト内のシマミミズのように、常にゴニョゴニョしている状態が正着である。
正しいのは、いつもアイデアが出るように脳を活性化し続けることである。
これには遊びやリラックスする状態が欠かせない。
家族で、アークヒルズサントリーホールで小沢征爾指揮新日フィルを聴いた。
パーカスの山田徹がパートナー系親族なので良い席に座れた。
曲目は、モーツァルトディベルテメントD majorとオーボエ協奏曲C majorと、チャイコフスキーの「悲愴」である。
新日フィルは、N響の堅さと違った「柔らかさ」が味わいであるが、なかなか良い「御馳走」であった。
小沢は、「福田」と違って相変わらず若々しかった。
さすがにカラヤン的やや「過去」の演奏を感じさせたが、各楽器の鳴らせ方には相変わらずの驚くべき繊細さがあった。
モーツァルトディベルトメントは、25年前の結婚式のBGMにかけた曲である。弦のみの演奏とナイフフォークの音の調和が美味しいと思ってのことだった。
オーボエはなかなかよかったが、必要以上にハンカチを使う演奏はマイナスだったと思う。楽に演奏してもらわないと、聴く方が疲れる。でも一応満足。
チャイコの悲愴は、実は内心私が評価していない作品。
しかし、小沢の手により、ファゴット、クラリネット、フルートと良い雰囲気で、おまけに金管が、チューバ、トロンボーン、トランペットと、良くその特質を示した演奏。敬愛するマーラーがチャイコなしにはあり得ないことを確信することができた。。
オーディエンス中、十代男子がバカ息子に限られることを観察して不思議に思って帰宅して、‘65年のカラヤンベルリンフィルでD majorを聴いて見たが、はっきり言って古くさい演奏だった。アークヒルズも「カラヤン広場」とか恥ずかしい名前を止めて、「オザワ広場」に変えれば良いのに。
花も美しいが、芸術も美味しい。
というわけで、明日より新緑下丹沢山中にキャンプに籠る。
天よ思いのままに雨を降らせよ!