2008-06-27 アートレス
_ アートレス
一般に、受験勉強の背後で究極捨象されることは「アート」することであろう。
事実、進学塾では習い事をやめるように要求されることが多い。
受験勉強はせいぜい1〜2年の短期の目標を掲げてそれに必要なことをこなそうとすることである。そして、これは明らかに自分自身のためにやることであり、世の中のためにやることではない。というよりも、世間や周囲に自分を認めさせようとすることで、人を楽しませようとしてやることではない。秋葉原の男のしたことはこうした意識の延長線上にあった。
世間に認められることはどうでもいいことである。
大切なのは自分が生きているという実感である。
高まっていることの確認である。
人の人生90年、若いうちにこそ高まりの習慣を身につけさせるべきではないだろうか。
これからの教育の本線は絶対にここにある。
「自然状態」にある原住民は、いかなるものもアートを行う。
限界的都市環境にあるものが自覚できないもの、それはアートしない自分である。
偏差値も学歴も関係ないのである。
必要なのはたった一つだけ。
自分が高まっているという実感だけ。
勉強は自分から進んでやらないと、本質的な効果が得られない。
もし、勉強することを、アートすることと同様に、自分の高まりを感じるために行うと、その学習効果は受験勉強をはるかに上回って充分な「おつり」をもたらす。
実はこれからの社会が欲するのはそういった人材である。
学力があっても研究対象を見つけられないものは不要の時代に入った。
自らの知能が伸びながら、同時に人間的な深みを得ること。
それには自ら学ぶことが欠かせない。
自ら学ぶ環境が欠かせない。
それにはアートすることによる高まりの認識が欠かせない。
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