ブイネット教育相談事務所


2008-06-17 宮崎勤死刑囚の刑執行

_ 宮崎勤死刑囚の刑執行

前回ブログのライブドア側に、家庭教師斡旋の広告が多数ついた。で、この各々をクリックしてみると、全ての時間あたりの指導料はV-netより高く、同時に講師給料はV-netより安い。コンピューターが自動的に検索判断しているのであろうが、バカバカしいことこの上ない。

当然の結果である。

中間搾取をしないとは、ここにおける「儲け」を倫理的に捨象するということなのだから。

どの教師もご家庭も歓ぶシステムこそが中間搾取をしないことなのである。

現時点で、V-netの教師斡旋料は一件あたり3万円であるが、いささか安すぎるのかも知れない。

「農作業」の合間、てなつまらないことを書いていると、連続幼女殺人食肉事件の宮崎勤被告の死刑執行の報が入った。

正直な第一感は、「なんてもったいないことを。日本は今後の子どもの教育における大切な研究対象を焼いてしまった。」である。

実は、一番ほっとされたのは、失礼を承知で書けば、被害者と被告の両関係者の「ご遺族」の方だったと思う。

「もう終わりにして欲しい。」

これが本音だと拝察する。

宮崎氏の父親はすでに五日市の橋から多摩川に身を投げて他界している。

どうしてこんなことになってしまったのか。

こういった事件は教育先進国の北欧では極めて起こりにくいことなのである。

「猟奇」と「狂気」は異なる。

「猟奇」には、楽しもうという心が最後まで伴う。

だからこそ、「猟奇」は「狂気」より罪が重いのである。

しかし、これが、たかだか「死刑」で「清算」されるとは到底思われない。

宮崎氏は、学者と作家に開放され、いったいどうしてこんなことが起こったのかを人類叡智の獲得のために利用されるべきだったのである。

我々は死刑以上の刑を考えなければならない。それは「公開処刑」などの残酷なものではなく、悔いて悔いて悔いても悔やみ切れない学習をさせることだと私は考える。なぜそんなことをしてしまったかの究極の答えを出すことを、無期懲役と引き換えに与えるべきだと思う。

以上のような考察をしていると、「罪を犯した究極の理由を他者に説明することができる国語力」があることが前提になっていることが内省され、国語力はあっても犯罪者は出ることが説明できなくなってしまうという矛盾に直面してしまう。

理解しがたい凶悪犯罪を犯すのはバカかキチガイである。

しかし、優れた作家は皆バカかキチガイかヘンタイである。

理解しがたいことを体験してしまった時、その人は芸術家か作家として活動するべきである。

したがって、究極の体験をしたその当人は、最終的に、その心情を表現することに人生時間を費やすべきである。

こうして見ると、作家というものが、他の芸術家と異なり、言葉を使う全ての人がその可能性を内包するものであることが分るだろう。だからこそ、我々は他人の書いたものを「楽しめる」といえるのである。

実は作家とは集団の代表である。

そして、「死刑囚」も集団の代表の姿である。

てなわけで、私は民主主義体制下での死刑制度に反対する。

東大法トップ卒の鳩山君、君はそのことを政治的に処理したのかそれとも法学的に処理したのか。哲学的にはナンセンスであることはすでに西欧で出ている。

それともそれは国会議員の汚職を許さない世の中を作るという決意の表明なのか。

バカをバカと判断するだけではなく、どうしてバカになったのかを極めようとしなければ未来を担う政治家なんてやって行かれるわけがない。

以上当然のごとく、「冗談」で書いた。