2008-06-19 宮崎勤ー2
_ 宮崎勤2
89年に宮崎の事件が起きた時、私は夫婦揃っての2度目の東欧圏音楽探訪の旅から帰国し、資本主義圏と社会主義圏の現状考察の旅行記(もちろんこれも活字にならなかった)を書いている最中だった。私の予想よりも早く、明くる年には社会主義圏が崩壊した。ちなみに、リクルート事件で竹下首相の辞任の報道を目にしたのはウィーンから夜行列車で到着した朝のベネチア駅でのことだった。
83年に新婚旅行に出かけた信州濁川温泉は若夫婦が新婚旅行中だった。翌年84年に再訪した後、逢ったばかりの旅館若夫婦が、長野西部地震で赤ちゃんと先代ともども土砂の下に埋まり、その後訪れた宮城の蛾が温泉も崖崩れで埋まってしまったので、自分は崩壊や崖崩れを予め「察知」して旅をするのかと疑ったほどだった(ちなみに今回の宮城岩手地震の地域は、近年行ってみたいと切望していたところだった)。
私は、文学では生活できないことを悟り、子どもを作って受験稼業に邁進する決定をしていた。
そして、長女を得た。これは、アフガンの砂漠で死にそこなったことやパートナーを得たことと同様に、人生上、最も大きなことだった。
初め宮崎の事件を知った時、私は家庭教師である私こそが解明できる事件だと感じていた。
佐木隆三さんの、傍聴報告には興味深く目を通していたが、氏の「宮崎勤、いったいおまえは何者なのだ?!」という言葉を読んで、これは私こそが説明しなければならないと思い、当時実験中だった抽象構成作文法で作品化を試みた。
それに、私はそれなりに「成功」した(そう思った)。
教育環境上の問題ポイントを40近く挙げてそれで宮崎の環境をあたると、信じられないほどの教育環境設定状の誤りの一致点が見出された。私が家庭教師に行っていればこの事件は起こらなかった可能性が高かったとさえ思った。
この事件は、世間一般の親たちがいまだ認識しない子育て上の誤りが集積した偶然の結果だった。
私は、被害者少女たちを、こういった誤りを世に気づかせるために現れた「天使」たちであると扱って、作品を昇華させようとした。これまで通り、文芸誌の予選にも残らなかった。私はこの後、自ら作品発表の機会を得ようとすることはしなくなった。
その後続々と教育環境設定の誤りに基づく青少年の犯罪が後を続いた。サカキバラしかり、池田小殺害事件、東大寺学園自宅放火殺人、奈良幼女殺害、岡山バット殺人、長崎小六女子カッター殺人、そして今回のアキハバラである。これ以外にも枚挙にいとまがない。これらは、学歴がなければダメだと思い込ませた親たちの「犯行」である。学歴よりも好奇心と感受性の育成の方が大切であることを知らなかったことによるのである。
宮崎勤の事件ほど私に多くのことを学ばせた教育上の事件はない。
私は、これ以降、宮崎的要素が濃くなる方向性のご家庭に勇気を持って苦言を呈し、クビになったり逆に感謝されたりした。鳩山家での家庭教師のお声がけもあったが、最終的に東大卒ではないことからボツになったらしい。
また、第二子が誕生直後に手の甲に大きな苺痣が出た時、「放っておいても治ることがある」と言われても、即座に虎ノ門病院名医によるドライアイス治療を決定したのも宮崎事件のおかげである。
その後、吉岡忍氏の『Mの世界―憂鬱な先端』が出た。私はこの労作を読んで、ここまで真実に迫ろうとした人がいるならそれで善しとしようという気分になったが、同時に吉岡氏に、私の見解をお伝えしたいと思いつつ果たせないまま今日に至っている。
何かに原因があるのではない。原因になる要素が濃くなると発生しやすいのである。
これを避けるためには、集団行動学習、芸術的な表現学習、自然体験学習など、数多くの対処法があるのに、世間はいまだそのことをほとんど認識しないようだ。無明のままである。テレビゲームの広まりはその象徴である。そのことを前提にできないものは、死刑を「是」という資格はない。機械による判定や偏差値による結果や評価に我を忘れて挑む行為は人間を破壊する。特に子どもにはその危険性が極めて高い。子どもがおかしくなるのは、子どもの教育環境に問題があるからなのだ。アマゾンで天然循環生活を送るものには精神病はない。上から示された「こうでなければ」に闇雲になり過ぎるとおかしな人間が出やすくなるのである。
「学歴」が一種の「宗教」であることを客観化できる人は、その判断ができる自己的な価値基準を持っていることになろう。
以上、教育環境設定コンサルタントとして、結構マジで書いた。