ブイネット教育相談事務所


2008-06-22 杜若

_ 杜若

扶桑社から出す音読決定本の完成が遅れている。最後に音読テキストに誤植が見つかり、それを直すとすでに録音した音声も取り直さなければならなくなるからだ。日本古典音読のテキストだから細部の正確さに気を使う。この本は、源氏物語研究における市井の碩学、富沢進平先生の御協力に負うところが多いが、極めて明晰の上、説得力のある「頑固」であるから、氏からの意見が出ると抵抗できない。これまで本を作るのにこれほど苦労したことはない。間に入る編集者はもっと苦労していることだろう。ラジオ局との調整もあり、クタクタのはずだが愚痴も漏らさず粛々と対処にあたる。仕事に誠実なので、この男は本を出そうとするものの間で、一気に人気者になっている。つまり、「技術」を認められていることになる。

伊勢物語の『東下り』の段に、官職に恵まれなかった男たちが、東の国に下る途路、三河の国の八橋で、カキツバタがたいそう美しく咲いているのを前にして、「カキツバタという文字の一字一字を句の頭においた旅の歌を抽象構成せよ」というので、ある男が詠んだ歌。

_ からごろも

きつつなれにし

つましあれば

はるばるきぬる

たびをしぞおもう

         (古今和歌集 巻9−410 在原業平)

_ カタムカナ読みを知らない人のために意味をつけると、

_ 「唐衣を着て長年慣れ親しんだ妻を京に残して来たので、遥か遠くまで来た旅をしみじみ思う」といったところであろうか。

ウズラ小池の池端に植えたカキツバタが咲いた。

上品な薄紫にまるで大きな蝶が羽を休めたような美しい姿は、ただちに高貴な女性の静やかなたたずまいを連想させる。私がショウブやアヤメではなく、カキツバタを認識したのは、恥ずかしながらこれが初めてである。

どうしてこれまでこれが分っていなかったのだろう。詰まらぬ技法解釈に終始して歌の本当の意味が分かっていなかった。

カキツバタの姿から、都にいる貴族女性を連想することはごく自然であり、その清楚な感じから、長年慣れ親しんだ妻の存在を思い出し、彼女から離れて来てしまったことを悔やむ男の詠んだ歌が、一行の涙を誘ったのである。離れたときこそ、愛する女性がより愛おしく感じられる。男なら誰でも経験したことがある感情であろう。その着火点に旅の路上で目にしたカキツバタがあるのである。

一人旅を禁じられた男がウズラハウスを作る。そしてカキツバタを植える。それが咲くと、伊勢物語のおかげで、男の旅情を思い出す。メスだけのウズラは順調に卵を産む。池の濁りは取れず、毎日の水換えに勤しむ。その池のクソ水を野菜にかけるとかってないほど野菜が良く育つ。やっぱり必要なのはコイかも知れない。

それにしても古典の世界は深い。本来素人の私が簡単にできる仕事ではなかった。