2008-10-31 読者
_ 読者
以前にクライアントの建設業者の男親から、「実は教育の世界のことがてんで分らない私が、先生にお願いする根拠は、先生が忙しいことであります。我々の業界では、忙しいことが仕事をする力がある証左だととらえているのが普通です。」と言われたことがある。最初はその意味が判然としなかった。
ある編集者が言う。
「先生は基本的に締め切りを裏切らない。どんなに忙しくても、書く作業は遂行する。出版社としては非常にやりやすい相手です。」
私の座右の銘は、「臨機応変、出前迅速」である。気の短い私にとって、「他にしようとすることがあるのか」というのが正直な感覚である。「仕事を他者状況に合わせて適宜に前に進める」、他にはなにもすることがないと思う。「完全」の「捨象」とも言える。
ともあれ、私が忙しいのは、書くことが「速い」からだということになる。
ブログ読者もご存知の通り、私は命令に従って直球で仕事をする人間ではなく、相手の要求の裏を読んで、適宜に「変化球」を投げて済まそうとする人間である。ある意味、適当なことを書き散らしてそれで済ましている人間と言える。
しかし、それには、書こうとすれば、そこに適当なことを書く能力が前提になるらしい。世には適当なことをそれなりに書いて済ます人が意外と少ないことが暗示される。
信じられないことである。
どうせ便所に行くなら、「空想と思考」を同時に済ますことが合理的である。楽や「節約」をしようとするのは、人間本性ではないのか。
できる時にできるだけ出し、出ない間はそのエネルギーを得る活動をすることが正着である。
しかし、それを実行すると、すぐには書けない人より優先順位が高いことになるらしい。
こうして、「キチガイ」=「理解不能な人間」が現象することになるらしい。
私には、いまだ「世間」が知れない。それどころか、「個人にとって世間とは、永遠に分らないものだ」と認識している。
同時に、その「世間」を対象に書く作家の仕事の本質も分らない。
思うことを小説に書けばそれは出版されない。つまり、金の入らぬ「趣味」と化す。
読者にとって、究極金を払って読むだけの価値がなければ、子どもの作文と同じである。
私は己の愚かさを痛烈に自覚して生きる人間である。
何度試みても本当に賢くなる実感を持ったことがない人間である。
その私が書くことは、「試行錯誤」の過程に他ならない。
「結果」ではない。
ゆえに私は、自分の本当に書きたいことを知るために文章を書き続ける人間ということになる。
私は、私の読者に、本当に、心の底から感謝する。
多くの人が苦痛であるらしい「書くこと」が、私にとって何とかできてしまうこと。だとすれば、人に比べてそれは楽なことであるはずである。
しかし私は、こういった自分に忸怩たる思いを禁じ得ない。