2008-10-06 劇団 無=魂第 10回公演
_ 劇団 無=魂第 10回公演
六本木のアトリエフォンテーヌで、劇団 無=魂 第10回公演〜漢達の祭り〜を観た。
ストーリーは、開発の波が迫る海辺の町の漁師たちが過去の葛藤を越え、12年ぶりで祭りを開き、海と漁を守り続けて行く誓いを打ち立てるというもの。
神田3兄弟は、長男が良く目が見えず、次男は良く耳が聴こえず、三男は難病で余命幾ばくという限界状況でも漁を続けている根性一家。ライバルの漁家(すいません名前を忘れました)は、長男がテキ屋に身を落として半ば捨て鉢になりながら糊口をしのいでいる落ち目の三度笠。
実は、12年前、両家は各々2艘の船に乗り嵐の中、神田家の先代の先導無理が祟って、高波で転覆。乗組員12名のうち生き残ったのは神田の長男次男と、ライバル家の長男の若い三人だけだった。
町に開発の波が押し寄せ、港湾の埋め立て開発計画で、さびれいく漁業に終止符が打たれる直前に、神への信仰厚き難病の三男が、神社の神主や境内にいる酔っぱらいの老人に元気づけられながら、命を賭して両家の軋轢を解き、太鼓祭り実現を成就する。この過程で逆に神田兄弟の遭難救助を受けたライバル漁家も漁業を再興する決意をする。他に政治家一家も登場し、これを総勢8名の男で演ずる。
この劇団の公演はこれで3年連続観たことになる。友人に誘われるからであるが、ご存知の通り、私はつまらなくなるとその場所にいられなくなるという「習性」がある。また谷川俊太郎でさえ白ける性分なので、涙なしには見られないこの劇団の公演に、誘われるとまた行きたくなるからいささか内心不思議である。
この劇団は男優だけで構成される。メンバーは、超ハンサムではないが、みな味のある顔をしたカッコいい男たちである。『7人の侍』や『太陽に吠えろ』の世界を思い出す。『大脱走』もそうかも知れない。女優が出ないのだから、女性客が多いと思いきや男性客も多い。思うにそれは、この劇団の芝居が、観る人に「元気」を与える力があるからである。この劇団は、少なくとも2〜3日のエネルギーを与えるのである(だから私も今書いているのである)。
少子化社会で男が純粋に群れてやり合うことが少なくなった世の中で、男ならではのこだわりで一つのものに向かって行く世界は、前々回のペンキ職人の話も、前回の特攻隊員たちの話もそうだが、単純な友情/努力/勝利の少年ジャンプ的モチーフをもたらしながら、見るものに新たにフレッシュな感動を与えるのである。
今回は、中心となる宇都照洋が公演直前に怪我をして、細部を詰める稽古が不足したか、あるいは脚本の完成度が低かったからか、前半は、良くある揚げ足取り的な低調なコントでやや退屈させたが、素人っぽさを残しながら全体構成に良く考え込んだものがあるので、後半に入ると劇的な効果を次々に展開し始める。特に最後の祭太鼓のシーンで、舞台二階上の神殿を模したところで、境内の酔っぱらい老人が神と化し、兄弟の目と耳を癒し、死んだ3男を連れて天に昇る構成は、あくまで重くなり過ぎないようにしながらも、能の要素も取り入れて行こうとする意気込みが感じられてますます今後の大きな発展を期待させた。これは公演を重ねるとますます良くなる要素だろう。頑張ってくれ。脚本を俳優のキャラクター作りが上回っているぜ。何と言っても、ここで今度はつか劇団を思い出させてしまうのだが、各々の役者の役作りにかける執念が互いを刺激し合って、これが本人の本当の持ち味なのかもしれないと感じさせる深い人物造形に成功しているところが魅力だ。役者の力は余り余っている。脚本は、「地獄」を覚悟して、本質的なメッセージの深化と、細部のコントの「詰め」を目指して欲しい。構成観には才能が見られて、「波動」というコトバの使い方もまあしっくり来た。九州弁に着目したのは秀逸であったが、玄界灘の歌は練習不足だった。歌が上手くなることはいずれこの劇団の「課題」となろう。また滑舌についても、これ以外の方向性があることを捨象するのは、やや「田舎的」である。これは「持ち味」で開き直れることではないと思う。ゆえに私はこの人たちにもカタカムナ音読法を勧める、なんちゃって。