2005-08-07 倉吉
_ 講演旅行しながら原稿を書いて送るという計画は、スケジュールの過密と接待談笑酩酊疲労のために結局あまり実行できなかった。復習を兼ねてこれからのブログで書いて行こうと思う。
倉吉では、我が不徳のいたすところ、まだ著名度がなくて、人の集まりが少なかった。
27日の夜の基調講演では、最先端の入試の現状と学力低下問題に触れ、要領の良い学習と表現技術の育成に将来性があることを示した。
28日の親子カタカムナ音読会では、20人余りの子どもとおかあさんに囲まれて、暑中の絶叫を行った。しかし、子どもは子ども、1時間が限度。発声法とカタカムナで終了。アフリカ人も参加した夜の部の大人対象の音読会では主要文献を快く音読した。
サイコロ学習法は意外と好評だった。直接多くの子供達に触れたが、これは算数が得意なものの能力を急伸することにも苦手なものの自信回復にも大変優れた教材なのであった。子どもが勝負を意識してムキになるところが良い。でも、際限なく上がいて際限なく下がいるから大丈夫。一応の学年差もある。勉強ではないから負けてもちょっと悔しいだけ、傷つく必要がない。さらに一層遊び教材としての特性を打ち出して行こうと思った。
発案者自ら口にするのはいかにも僭越だが、カタカムナ音読法とサイコロ学習法は、能力向上のホームラン王である。これより上のメソッドは今のところ出ないのではないか。
2005-08-09 大分1 うみたまご
_ 朝7時に倉吉発。米子道→中国道→九州道と順調に走り、午後3時に大分入り。ホテルチェックイン後、「うみたまご水族館」見学。
別府まで温泉に入りに行って、うみたまご訪問の機会がない人は、大分に良い知り合いのない人たちであろう。
ホームページで検索して見ても良くは分からないが、ここには直径10メーター、深さ10メーター余り、厚さ60センチの巨大水槽があり、その中を回遊する実に数多くの魚を、真上から、最上階から、中上階から、中下階から、最下階から、真下からの、あらゆる角度から見られるようになっている前代未聞の水族館なのである。もちろんこれだけではない。この上に、河や海の所々の魚を絶妙の光りのコントラストと観覧者の好奇心があくまで追求できる志を合わせ持ち、さらには、ラッコ、アザラシ、セイウチ、イルカ、果てはクジラまで間近に見られる、センスとサービスが完全一体化した巨大な生態科学研究施設なのである。
水族館見学後に、絶景別府大分の海からの夜景を楽しみながら、隣接レストランでフランス料理。大分の最上産品ばかりを使ってのおもてなしを受けた。大変美味しい。
なぜか知らぬが、レストランは空いていた。やっぱり車で行かないとならないところでフランス料理は無理か。もったいない話である。
ホテルに帰りシャワーを浴びて机に向かいすぐ就寝。
2005-08-13 大分2講演
_ 最近私は講演の際には必ずレジュメを会場に配ることにしている。以下は大分のそれである。
_ 1 自己紹介
教育環境設定とは何か
_ 2 東大・京大並びに一流大学入試の実際
_ 3 首都圏6年制私立の実際
小数の勝者よりも多数の成就を
_ 4 地方と中央ー地方分権並びにグローバル時代の教育戦略
今日的教育問題の究極の実態とは何か
_ 5 イデオロギーより地域発展
地域に人を集めよう
_ 経済同友会の招きとあって、会場は半ば公立を見切った富裕層が目立ち、意外なジョークが適確に受けて心地よかったりした。
私は最終的に、表現教育の重要性と未来ビジョンを伴った現状批判を提唱していた。
大分の人は、言葉の真の意味でフレッシュだった。これは火山と温泉と深いつながりがあると思わざるを得ない何かだった。
2005-08-15 啓蒙
_ 夏休みなので、ブイネット相談事務所には、いつも以上に地方から訪問される方が多い。
既に関東近隣の諸君は、月に一度日帰りでやって来て、主要教科の予習を一気に済ませて行くのが定番になっている。
夏休みになると、さらに遠方の人たちが上京し、2〜3日宿泊して、向こう3ヶ月間の学習計画作成と授業予習をするパターンが増えている。
私のカウンセリングと分析を得て、各教科の先生に当り、弱点補強と予習を行う。これらは、主として、学習が十分でないと落ちこぼれのきっかけになりやすく、かつ先が長いために挽回の時間がない「魔の2学期」を予め見据えての賢明な対処を目的とするものである。親御さんの愛情と智慧の深さに我ながら驚かされる。
最近、初めての生徒や、久しぶりで遠方から尋ねて来る生徒に対して、気がつくと
「啓蒙」しようとしている自分を発見する。限られた時間の中で、できるだけのことをしてあげようとすると、何とかして自分でやって行くことができるようにしたいという思いが強くなるためのようである。好奇心を起こさせ、それを求めて行く自分自身にさらに好奇心を持って成長して行くことが楽しいことを実感させようとする。本人の自覚しない能力を指摘して気がつかせたりもする。こんなことをしていると、若者向けの学習哲学の本を書きたくなる。
2005-08-16 大分3ふぐ良
_ ここでこの一説をここに記するは実は本意ではない。私は大分で過去考えられない贅沢をしたのである。
ふぐ料理である。
回遊するふぐが次第に毒を肝臓に貯えながら豊後水道を北上し、まさに下関に到らんとするその直前に、拉致したるのが大分のふぐだそうである。
言わば地元が昔から喰っているので、厚生省もお咎めなしで喰うふぐがこの大分のふぐなのであった。
そして、その答えは、これで死んでもイイと思う人が出ることがまさに良く分かる旨さである。これは我が人生最高美食の天然自然藷すいとんを危うく上回るほどの旨さである。まさに他に喩えようのない旨さ。最高品質の生ガキ、新鮮絶妙の甘ウニ、天然ウナギの蒸し焼き、最上等のフォアグラ・・・・どれをもっても説明できない。金持ちならばいくら払ってでも年数回は絶対に食べたいというしびれるような旨さ!
やはり、育ちの良さには個人勝手の体験は叶わない。同行の山上は、文句なしに旨いと思って無言でこれを食している。まさに旨いという必要がない旨さ。
そして、まさに絶妙のタイミングでビールを過ぎてヒレ酒が入る。
何と贅沢なことに、酔わずに味わい続けるために、可能な限りアルコールを火で飛ばして味わうのである。もうそのまま春の草原に横たわって空を眺めたい旨さ!いや決して大袈裟ではない。大分のふぐは世界一のふぐなのであった。
もしこれが「接待」であるのなら、その人は完全にやられているのである。
これからは、大分のふぐを喰ったことがない「美食家」は見下すことにあいなる。
2005-08-17 霧路等ー博多行
_ もし高速道路に濃い霧がかかるとどうなるか。
その答えは「通行止め」である。しかしこれは、正面衝突を避けるためではなく追突を避けるためであるところが奥ゆかしい。注意する能力のない後続車が、先行車のオカマを掘るのである。
霧のかかるのは部分であるのに通行止めになる。このことは人が注意しないこともあり得ることを示唆する。
大分は、高速道が霧のために通行止めになることが多い地である。
いたるところで温泉が湧く地温の局所的高さ。これが人に現れる大分のエネルギー過剰である。
雨が強いので、本命の宇佐八幡をわざと外して、一路博多天神へ。
ありとあらゆるS・A、P・Aで、名産シイタケ売るところなし。
博多では旧友宅に宿泊。深夜まで話し込む。
朝一番で京都に向かい、これまた古い知り合い宅に一泊して大徳寺と竜安寺観光。
中央道諏訪湖S・Aで温泉に入って、予定通り道路の空いた夜9時東京着。
以上、この旅の様子は、別に読み物を作って紹介の予定。乞う御期待。
2005-08-19 総選挙
_ 郵政民営化法案が否決されて、衆議院解散となった。
進行することの実態は、利権に絡んで当選した議員の集まりである自民党派閥政治が確実に終焉に向かっていることであろう。全国区型である参議院議員の方がより
「保守的」であったことが知れたことも象徴的だ。
家族も派閥もない男の心理は、国家を家族や子どものように捉えるものだろう。
すぐに処女王エリザベスⅠ世を想起するが、これは国家元首的な立ち場ともとれる。
失う個人的な利権がなく、自己の歴史的名誉だけをかける男。
マスメディアすらも捉え切れない男。
旧自民党政治を終わらせようとする自民党総裁。そして、この男の人気に頼らざるを得ない自民党。
我々はこの男の心理と思想を捉え切らなくては、参政権を駆使したことにはならない。
ともあれ、未来社会のために最優先してもらいたかった教育改革は、またしても蚊帳の外に置かれた。そもそも中山を選んだ段階で、首相には、教育に深い関心がないことは明らかだった。
価値観の不在から生まれた受験教育、無能で自覚のない教育関係者、地位に胡座をかく古いアタマの大学関係者、そしてあくまで利権と地位保全にすがる文科省。これらはまたしばらく首が繋がったことになりそうだ。
民主党のマニフェストを読んでも、これらについて全く配慮がないことが分かる。
最前線の子供達は意見を聴いてもらうこともできず、ますます大人に対する不信感と諦めをつのらさせることだろう。彼等には、まるで在日外国人のように「参政権」がない。
2005-08-21 読書感想文
_ 例年のことであるが、夏休みは、学校宿題をかねての作文・感想文指導が多い。
読書感想文は、指定された本についての感想文が定番である。筆者のかねてからの見解からすれば、これは些かナンセンスである。
そもそも読書感想文は、よい本を読んで感動した時に、それを人に伝えるために書くべきものである。そのためには、自分で本を捜して読む必要性がある。ここには普段から自ら本を選び、それを読む習慣が欠かせない。つまり本を何冊も読んだ中で出逢った興味深い本についての報告が読書感想文であるはずである。
しかし、今の子供達にはそう多く本を読む習慣も時間もない。とくに受験を意識して猛勉強中のものにはなおさらである。また本人や御家庭がよい本を見つける能力もない場合が多い。だから、学校の先生方は、自分がそれなりに良いと思った本を指定して感想文を書かすことになる。しかしそれは、自分の感動した本についての読書感想文からは一段劣る。そして、学校が指定した本が生徒の関心や感動を呼ばないことも充分あり得る。
こうなった時。読書感想文は苦痛そのものとなる。学校は、いくつかの参考図書を掲げ、その中から選ぶか、本人が書店で選んだ本のどちらを選んでも良いようにするべきであるが、そうすると、感想文の対象になる本が多岐に渡り、感想文を読む側の教師の仕事が重くなる。また、もし指定図書がなければ、本来文章を書くことが苦痛でならない、本を読む習慣がない子供達は、「どんな本を読んだらいいかわからない」と文句を言う。
本来文章を書かせることが目的であるならば、「自由作文=エッセイ、あるいは小説執筆、ないしは自分の読んだ本で感動を与えた本についての感想文のどちらかについて書きなさい」とすべきである。
自ら本を選んで読む能力のないものは大学に行く資格がない、と言うのは筆者の日頃の主張であるが、そうなると、大学に行く資格があるものは、全体の10%を切ってしまう。
ここでは、生徒に本を読ませる斬新なシステムの構築が必要になる。
2005-08-22 橋本治著『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書)
_ 生徒たちには苦痛であろうが、私は学校指定図書のいくつかを興味深く読む。今年の夏は、S女子大付属高校のこれが面白かった。このコラムの読者にも是非一読をお勧めしたい。
この本のテーマは、まさに書名通りなのであるが、初め、「美しい」とは何かを規定して行き、徐々に、「美しい」が分からないことが、人間として如何につまらないことであるかを語って行く。そして、この世の中に美しいと感じるものが沢山あるからこそ我々が自殺せずにいることを指摘する。
これは若い時に自殺願望の強かった私が前向きに生きれるようになった理由と一致する。私は、21才の時のアジア旅行中に、世の中にこんなにも美しい景色が沢山あるのなら、どんどん生きて旅行して、飽きるまでそれを見てやろうと思って前向きに生きることができるようになった経験がある。優れた芸術作品についても同様である。こんなにも美しいものを作り出すものたちがいる世の中はなかなか素敵ではないか、こう思うのが常であった。つまり、美しく感じるものがなければ自分はこうして生きてはいないと言えるのである。
しかるに本日、その女子高生と感想文を作ったが、彼女曰く、
「この本はつまらなすぎる。読もうとするとすぐに眠くなってしまう。だいたいから美しいとか美しくないとかグチャグチャ言うのは男の人。いいじゃあない。個人が勝手に美しいと思えば」。
やっぱり、図書を指定するのは止めた方がよさそうだ。
2005-08-23 天皇制
_ もし、日の丸君が代を教育の場で徹底することが不可能であれば、それは、天皇制が確実に終焉の方向に向かうことを示唆する。いや、日の丸は残るかも知れない。残らないのは君が代の方であろう。
上野千鶴子東大教授は、17日付朝日夕刊で、女帝論の議論に関係して、天皇制を終わらせることを主張している。天皇制主義者を、「権威の好きな人たち」と呼び、最早、保守派の中にさえ、天皇抜きのナショナリズムが台頭していると書く。また、戸籍も住民票も参政権も言論の自由も職業選択の自由もプライバシーを守る権利も持たない皇室の人たちに同情も示している。私もかねがねこの件については、皇室関係者に生まれてしまったことの不運に同情を禁じ得なかった。精神的に追い込まれる立ち場にあって、自ら止めることができないというのは何とも辛い。我が身の自由に感謝したくなる始末である。
最近、イラクの戦争について考える。長引けば長引くほど、その戦争行為を支えるイデオロギーは、一神教たるキリスト教とイスラム教の思想であり、どちらも古臭い権威主義を暴露させる。しかも両者はともに、元祖一神教たるユダヤ教から発生している。これら一神教の国家に生まれた人たちは、生まれながらにしてその「洗礼」を受け、ほとんどが他の一神教を受け入れることができないように教育される。そして、国家としてのまとまりを得やすい環境下で、繰り返し戦争に結びつく役割を果たす。私は、戦争が長引けば長引くほど、これらの宗教が弱体化の方向へ向かうことは歴史的に見て明らかだと思う。あたかも前世紀の天皇制のように。逆に、平和の中での一神教も衰退に向かうことも明らかである。
我々は、生まれた国で受ける宗教的な教育から逸脱することはまずできないことに自覚的であろうとすべきだ。
神と宗教が否定された時、そこに残るのは一体なんなのであろうか。
それは、祈りと瞑想であろう。
2005-08-26 新聞のインチキ
_ 20日付朝日新聞土曜日の一面見出しは、「ヒラより軽い役員ストレス」である。
思わず、「ホウ!」と思って読んで見ると、「現在の仕事に精神的なストレスを感じる」と答えたものは、役員が54.9%に対して平社員は57.7%であるそうである。
仕事に慣れない平社員がストレスを感じるのは当然であろう。しかしその差は何と2.8%である。一面見出しにするようなことだろうか。
また、「職業生活の先行きに希望が持てない」と答えた者は、27.1%で、「わからない」と答えた者は53.4%とある。「希望が持てる」と答えた者は、17.1%だそうである。朝日はこれを、「わからない」と答えた者と「希望が持てない」と答えた者を合わせると「8割を超える」と書く。希望が持てるものと持てない者の数値の比率は、27.1対17.1で、そんなに疑問を感じる数値差ではない。
どうしてこのようなインチキ社会学者にも劣るデータの扱いがなされるのであろうか。
という疑問を持った瞬間、「またしてもやられた」と思うのは私だけであろうか。
読者はお分かりであろうか。どうも朝日は、本来一面に載せようと思った記事を、直前にデスクが不味いと判断し、急遽この記事に差し換えたのではなかろうか。だからこんな稚拙な記事になっているのではあるまいかという疑問である。
私はどうしたら良いのであろうか。朝日は情報操作を露骨に行い続ける。読売はすぐに読み終わってしまう。毎日はさらに記者の質が劣る。これは新聞が、まともな読者は、読むのを止めた方が良いと言っているのに等しくはないのか。
もし私がテレビの情報に満足できるのなら即座に新聞を取るのを止めるだろう。しかし私はテレビを見ない。その理由は、あまりに情報操作が露骨で内容が拙劣であるからである。
テレビも新聞も読まないのであれば世間音痴もいいところになってしまう。いったいどうしたら良いのか。
2005-08-27 刺客
_ 今回の小泉首相の衆院解散について、新聞報道が追いついていないことはこのブログでも書いた。
郵政民営化法案に反対票を投じた綿貫氏が、対立候補を「刺客」と呼んだのが気に入ったのか、新聞記者は、「刺客」という言葉を好んで使うようだ。
しかし、新聞報道で「刺客」という言葉を、無自覚に繰返し乱発するのを目にすると、やっぱり新聞記者もかなりセンスとレベルが下がっていると考えざるを得ない。
書く記者も、それを認めるデスクもかなり古い思考パターンである自分達について自覚的でない。私からすれば、高学歴者の断末魔がここでも暗示される。しかも彼等が、我々読者をバカにしている気がして嫌気が指す。
同様なことは、「ホリエモン」という言葉を使い続けるメディア全体にも言える。
「流行語を作れ、そうすれば少しでも読者を獲得できて、その結果広告収入が上がる」ーこれではサイトアクセス者を増やすことが目的であることが見え見えの堀江氏と同次元であることを自ら宣言するにも等しい。小泉首相を、「ポピュリズム」と規定するのも同様である。
どうやらテレビを見なくなって20年の私も、そろそろ新聞を取るのを止めて、無料のインターネット情報に移行するのも時間の問題なのかも知れない。活字好きの人間としては甚だ悲しい今日この頃である。
メールの発達によって、郵政事業が無意味化するのと同様に、質を下げ続けることに自覚的ではない新聞やメディアも過去の産物と化す日が来る気がしてならない。
些かこのことと関係ないかも知れないが、17日付の新聞で、記者が、本来満月は20日なのに、ガザ地区の入植者排除に関して、「空には満月が輝いていた」と記す誤謬を犯すのもそういった無自覚の現れの一種であろう。記者やデスクは、月の運行が世界共通であることを知らないらしい。
2005-08-31 高校野球
_ 前回ブログことを書いたすぐ後、朝日朝刊は、駒大苫小牧の優勝の報。3面を開けてもスポーツ欄でも大合唱。
この高校野球新聞、読者をなめるな!と、駒大苫小牧の優勝に涙していた癖に、勝手に怒っておると、筋金入りの野球少年が笑って言う。
「だって先生、主催が朝日新聞なんだからしょうがないですよ。」
上手出し投げ読売ジャイアンツ。