ブイネット教育相談事務所


2005-07-01 橋梁談合と検定

_ 6月30日の新聞報道では、橋梁メーカーに天下りした日本道路公団OBの元副総裁、元理事、元技師長宅の家宅捜査をしたという。不思議なのはここまで書いても当人たちの名前が出ないことである。

夜のサウナ、妙にガラガラの日。日焼けした五分刈り筋肉中年男が、青白い顔をした小太り不機嫌ヅラの一見して管理職者と何やら話し合っている。彼等はその後長時間のマッサージを受けて、ラウンジで会食した。私の天国耳には、「対策」「情報」「来週また」の声が入って来る。

実は妙に神経質な青白小太りが先にサウナ室を出た後、建設男がにっこにっこで私に話しかけてきた。話の内容は、目の前のテレビの画面の巨人戦についてである。確か9回巨人が2点を追うゲームでランナーが出たところだった。

「ここで一発ホームランが出れば同点だね。」

苦心は感じられるが唐突である。私は苦笑した。繊細さとはほど遠い建設マンからすれば、私が通常の域を越えてニュワンスに敏感な人間であることは分からないだろう。何せ自慢ではあるが、かつてうちに泥棒が入ったときに、刑事さんに、「あんたのような人が警察にいれば助かるのだが」と言わしめたほどである。すぐに冗談で、「その上の公安の間違いだろう」と切り返しておいたが。緊張している管理職クンからすれば、絶対に勤め人には見えない得体の知れない人間である私がサウナ内にいるのは堪え難かったのであろう。

「最近の野球は訳が分からないね。何度も同じホームランシーンが出たりするので、どう言う展開なのか一目では分からないよ。サウナでしかテレビを見ないから着いていけないよ。」

日焼け筋肉マンは飛びついた。

「あんたテレビは見ないのか?」

これはかなり安心させる情報のはずであり、私はわざと耳に残るようにこの言葉を吐いている。

「私はテレビを持たない。もう20年以上前に捨てた。」

相手は面喰らった。でもなぜか喜んだ。

「ヘ−、テレビを持っていないの!そうなのそうなの!」

巨人のバッターが打ち取られてゲームセット。これについて筋肉マンは、何も言わずに軽く会釈して出て行った。見え見えでまるで小学生である。

建設関係の知り合いが言っていた言葉を思い出す。

「談合は互助システムだ。今の国家システムで、談合なしにどうやって建設業界がやっ

ていけるのか、その答えが知りたいよ」。

結果、建設業界は天下りを受け入れる。天下り人は、週に1度の出勤で役員待遇の高給や高額の退職金を得る。これは、道路公団に限らず広く行われていることに違いない。警察の風俗取り締まりも似たようなものだ。

ともあれ、ことの実態は「官僚」主導で行われていると言うことだ。談合云々よりもこのことこそが問題なのだと思う。売られているのは「情報」である。

長くなったが、なぜこのことを書いたか。その理由は、目立たないつもりだろうが、文科省でもこの天下りが行われていると言うことだ。センター試験事務局もそうだ。そして、教科書会社もそうである。東京都の教育委員会が教科書会社の温泉接待を受けていたことで摘発されたことはまだ記憶に新しい。そして、これも絶対に止まないことだと断言できる。道路や建設の場よりも、子どもの教育の場がカモにされていることに憤るのは私だけであろうか。「作る会」の教科書なぞ、これにくらべればはるかに可愛い。検定ってホントにもうかるのね。


2005-07-04 太宰治「富岳百景」

_ 生徒に頼まれて、太宰治の『富岳百景』をレクチュアした。

テキストとして用いる教科書は、驚くべきことに、あちらこちら中略の嵐である。

しかも、ここを削るのは「フェア−でない」と感じられるところが削除されている。

どうしてこんなことになるのか?

かつて、生徒の教科書に横光利一の小説が載っていたことがある。それは、横光が短時間に書き上げたつまらない作品であり、他にも良い作品があるのになぜと、思われたので、編集者に聞いてみた。

「それは、先ず編集会議で、横光を取り上げることが決まり、その上で、編集上都合が良い長さのものを選ぶからなのです」とのこと。

冗談じゃあない。生徒を馬鹿にするにもほどがある。

しかしこれが教科書会社の実態である。

国語の教科書に載る文章は、・国文科で実習教材に掲げられているもの、・編集者の知り合いや恩師のもの、・出版社として自社の本が売れるきっかけになるもの、・有名な作家のもので枚数の都合がつくもの、のいずれかである。つまり、学習者に最適のものではなく、教師が指導しやすいものと編集者の利益に叶うものが選ばれているのである。

初めて太宰を読むものに、『富岳百景』は最適であろうか。『走れメロス』同様誤解を与えると思う。私は、『桜桃』や『トテカンカン』の方がよっぽどマシであると思う。つまらない分別で、無難なものを選ぶ文科省編集者魂。貴兄らにはその仕事で生きて行く資格がない。国語教育にたずさわる「センス」がない。


2005-07-05 定期テスト

_ 1学期期末テストの時節である。内申点はあればあるほど有利なので、当然生徒の内申取りに協力する。そしてそのためには、前年度の問題を参考にする手順になる。

例えば統一学力試験で上位の地域では、生徒の得点分布は、80点以上が一番多く、ここに何と半数以上が固まる。平均点は80点近い。この地域の塾ではどこも過去問研究が盛んである。なぜかと言うと、教師の移動がない場合、ほぼ前年と同じ出題内容と言うのが定番だからである。国語、社会、理科、英語、技術、家庭科、保体、音楽、美術、どれもほとんど前年度と出題が変わらない。難しすぎる出題をする教師には苦情が出るのであろう。教師は自ら掲示板に前年度の問題を張り出す。それでも出題内容は変わらない。どうしてであろうか。

私は経験上知る。暗記型の勉強をして資格試験を通って来た教師たちは、テスト問題を作るのが苦手である。しかも問題が親や塾教師たちの目に触れるので大変なストレスになる。結果的に定番のテストになってしまう。

私はこれまで生徒たちに何度も、「いくら何でも毎年同じ出題というわけはないから、変化に対応する準備が必要だよ」と言って来た。しかし、生徒たちは決まって口にする。「半分以上全く同じ問題だよ」。私は先生方に新しい問題を作る能力や余裕がないことを知る。というよりも、教師になってから教え方を変えたこともないし、生徒を良く観察した上での出題をしたこともないことが分かる。そして、もし新傾向の問題を出せば、「難しすぎる」と批判されるに決まっているのだ。テストに無関心な親の子が損したとしても、その人たちは苦情を言う能力はない。だから、前年度と同じ出題をすることが無難と言うことになるのである。彼等はサボっているのではなく、あまり能力がないのに教職に就いているのである。

先日、やけに細かい出題をする美術の教師が生徒たちに言ったそうだ。「先生はアタマが悪いから、そんなに新しい問題は作れないの」。

この教師は前回の期末試験で、試験当日に問題不備で試験ができず、後日に再試験日をもうけた。決して人間的に悪い人ではない。能力が足りないだけなのである。

入学試験の研究を業とする私からすれば、試験問題を見ただけでその学校の教師層の厚みが分かる。名門校と言われる学校でも、能力が劣る教師がゴマンといることも分かる。つまり、通常並みの能力がある人はほぼ教師にはならないことが分かるのである。その理由は、優秀な教師に充分な給料が保証されないからに他ならないであろう。

私は時間給1万円以下の仕事は引き受けない。私の代わりがいないことが分かり切っているからだ。


2005-07-06 なぜ教師になるのか?

_ 時代のニーズの高さに比して、学校教師の能力の低さはどうしようもなく低い。公立校の生徒たちは、「20人に一人しか尊敬できる先生がいない」と口を揃える。あまりに教師たちが気の毒なので、教育問題について語るときには敢えてこの件には触れようとしない風潮ができている。曰く、「フツーの社会人に、フツ−以上のことを求めることは誤っている」と。これは中教審の委員である人の言葉であるが、これではことは解決に向かわない。

なぜ教師たちは教師を仕事に選んだのか。

そこにはいくつかの理由があるだろう。

ざっと、挙げてみると、

_ ・ 楽な割に安定した仕事に思われたから

・ 社会的な地位があると思われるから

・ 他の仕事にはつけなかったから

・ 子どもの前でなら威厳を保てると思ったから

・ 子どもが好きだから

_ こんなところであろう。もちろん、・将来社会を託す子供達を導くのは大切でやりがいのある仕事だから、という本質的な動機もあるだろう。

しかし、実際は、現代社会における教師の仕事は、非常に優れた能力と人間性を同時に必要とする、しかも社会的地位が低い、割に合わない賃金の職業なのである。

我々は、教師に充分納得の行く賃金を保証し、同時に厳しい能力を求めなければならない。つまり能力のある人を増やし、能力のない人には止めてもらう仕組みを作らなければならない。

これはとても難しいことだ。公務員の首を切ることはできないし、給料を能力に応じたものにすることもできない。だいたいからすでに、能力のないものに仕事を与える社会福祉が教育の現場である。

解決方法はただ一つ。教育の民営化である。教育を民営化するとなると、文科省は限りなく権限を縮小し、教育委員会もなくし、教科書会社も改編しなければならない大事になる。

そんなことはできないから、税金でやれる妥当な線を考えると現状に戻ってしまうことになる。

子供達の苦しみは深刻である。能力もない、人間性も足りない人たちに日々忠誠を尽すように求められるのである。大人でも金をもらえなければ我慢できる事態ではない。

教育者には、知性と観察力と人間性と芸術的な表現能力が同時に求められる。しかし、そのような能力があるものは、まず教師にはならない。他のもっと高給の仕事につくことが充分可能である。

以上のことから、教育の現状を憂えることは間違っていることが推論される。

したがって、子供達の苦しみは永遠に続くことになる。子供達の訳の分からない凶悪事件も決して止むことはないだろう。

親たちにできることは、このことの認識によって、自らの価値観と責任によって自分の子どもを教育することである。

でもね、もし仮に、塾や進学期間に支払うお金を、学校経営に回したらどうなるのであろうか。

私は多くの問題が解決されると見る。しかしそれは実行不能であった。


2005-07-07 巨人戦視聴率

_ 巨人戦の視聴率が下がって困っているそうだ。

なぜ下がるのか?

生徒たちに聞くと、「Jリーグブームで、野球を見る人が減った」とのこと。

球場の観客動員数が減っているのだからそれももっともだとは思うが、私はもう一つ大きな原因があると思う。

私はテレビを所有しないので、テレビを見るのはサウナか実家に行った時だけであるが、久しぶりで野球放送を見ると以前に増して目が眩む。

まず、繰り返しホームランシーンがある。もちろん録画によるものである。その上、マンガが至る所に挿入される、シーンが大きく変わって打者やピッチャーの記録が目まぐるしく画面に登場する。目が疲れること甚だしい。

どうしてこんなことになるのか。

その理由は、最新のビデオ録画機器の登場である。最新の機器は、CMをカットして録画することができる。言わずと知れたことだが、テレビは本来CMを流すためにある。CMを流すからこそ、無料であるのだ。そもそも視聴率というものは、CM価値の確認のためのものである。内容の良し悪しではない。しかし、プロ野球ニュースよろしく、CMがカットできるとあれば、皆それを飛ばして見たいと考える。しかし、それではスポンサー側は怒る。それゆえ、スポンサーが納得するようにCMを見ざるを得ない仕組みが必要になる。そのためには、CMと一般放送が区別し辛くする必要が生ずる。その結果が今の野球放送(巨人戦)なのである。

80才の老父は言う。

「もう巨人戦は何をやっているのかゴッチャゴチャで見る気がしない。疲れること甚だしい。それに比べれば大リーグの放送は良い。昔ながらの野球観戦の趣がある。」

自業自得、馬鹿丸出し。

視聴率に評価基準をもうけた画策により、視聴者に忌避されている事態なのである。

これが、偏差値ばかりに左右されて、人間の本質的な価値を見失うことによって瓦解寸前の入試の現状と同様に見えるのは私だけであろうか。やけに難しく下らない試験に埋没することにより、人間性をないがしろにすることによって、実質低下する能力の若者を量産することに自覚的でない、入学試験作成者の断末魔に到る道と同じであると、いつまでも国民が気がつかないと思い込む馬鹿な連中と同じである、と言うのは当然すぎる帰結ではないのか。

大人が自省的ではなく、恥を知らぬ時、子供達のより多くが暴発しはじめる。そうではないものは、自らの価値判断を所有しない「奴隷」の道を歩み始める。


2005-07-08 義務教育費国庫負担問題

_ 中教審の義務教育特別部会で国庫負担金廃止の是非を巡り委員の意見対立が続いているため、中間報告素案では、存続・廃止の両論を並記する玉虫案になる意向である。

国庫負担金は、公立小中学校教員の給与の半分を支出している。有識者で構成される存続賛成の多数派は、「教職員確保の最も確実な財源保証制度」としているが、負担金廃止意見の地方代表者は、「国庫負担金は、将来の削減対象になるに決まっており、負担金を廃止し、税源移譲と地方交付税で教職員の人件費をまかなえば、教育現場が当事者意識を持つようになる」と主張している。もちろん文科省は、予算縮小に繋がる廃止案に強く抵抗していると思われる。

この問題は、一般読者には読み辛いと思われるが、どう思われるだろうか。税金の使い方を地方毎に任せ、教育の現場を活性化し、地方における教育を自由化することは許すべきことであろうか反対するべきことであろうか。

地方代表者の主張を良く見ると、彼等の言うのは、今のままでは教育の現場を税を払っている国民が当事者としての強い意識を持つことができず、結果的に教師の質の向上のための競争ができないということらしい。

教育政策や教育学者の多くのアタマが古いために、役立つ教員の養成や意味のある教育内容の検討は絶えず後手に回って来た。その結果、子供達は柔軟性を欠くカリキュラムの中で実際性も内容の深さもお座なりなテキストを使用されて尊敬できない教師に指導され、内申点で縛られ、人生の初期に出来不出来を決定されて健全な成長を阻害されて来た。そこに文科省の権力志向と利権が絡んだ体制は最早末期的な段階にある。こうした「知識人」たちの能力が危ういことは、高学歴者や大学院生たちが判断力や倫理観をしっかり持たないという社会問題として現象している。そして、現場で苦しんでいるのは子供達である。最近では理解不能な事件も多発している。我々はこれらを子どもから大人へのシグナルとして受けとめなければならないはずだ。

税源を委譲しようが委譲しまいがどちらでも構わない。子供達に良い教師と良いテキストと良い教育システムを提案することこそが、中教審の役割だったと思いたい。しかし、彼等は眠ったままである。彼等は、政府与党に月百万円の手当てで雇われた人たちで、中央集権が弱まる施策を認めるわけがないことは予め分かり切っている。なぜかと言えばそこには利権が絡むからである。ここで驚くのはまたしても新聞である。新聞には誰が反対して誰が賛成しているかの具体的な記述は一つも出て来ない。どういう役職のどういう人が賛成をし反対をしているのかを明らかにし、今後彼等がどのような役職につくことになるのかを追跡調査することこそが新聞の役目だと私は思う。

皆さん、有識者や地域の代表者や知性あるはずのマスコミ人として、現場の子供達の声をもっと真剣に掬い上げて下さらぬか。大人として子供達に恥ずかしいと感じないのは理解し難いと思うのは私だけであろうか。


2005-07-09 憂歌団

_ 友人の家で久しぶりに聞かされた音が忘れられずに、CDを買いに行った。昔聴いたことがあるブルースバンド『憂歌団』である。しかし、近所のCD屋には見当たらない。娘に、「ここらで一番大きなCD屋はどこだ?」と尋ねると、「タワレコ」というので、吉祥寺の東急の裏のTower・recordに行ってみた。

なるほど広い。しかし広すぎて目的のものがどこにあるのか分からない。店員に聞くと、この階ではなくて上の階だという。

それにしても当たり前ながら、若い人ばかりである。しかも、電車の中とは違って、自分の若い時のように一癖ありそうな生意気そうな連中ばかりである。

上の階でもどこにあるのか皆目検討がつかない。再び店員に聞く。

「あのう、初めて来たんですが、『憂歌団』のCDってありますか?」

「はいこちらです。」

といって案内されたところには目標のものがない。

「あの〜『17/18』とかいうタイトルが付いているものなんですけれども・・・」

「じゃあこちらへどうぞ」

壁に薄型のパソコンがある。それで調べると、在庫はないことがわかった。

しかたがないので、『complete best』という二枚組を買うことにする。

家へ帰って早速聴いてみる。

う〜ん。思ったより良くない。しかしなかなか良い。

僕が聴きたかったのは、歌い過ぎて咽が枯れた感じになった頃の録音だ。

でも、なぜか、そこに、大阪都市部の差別の暗さが感じられて妙に味わい深く感じている自分がいた。


2005-07-10 あらゆる学習の本質

_ アタマが良くなることが目的ではなくて、自己の社会的地位の向上を目指す前提とした時、あらゆる学問は無意味化する。これは、孔子・ソクラテス以来の「常識」である。

社会の99、9%の人は「衆生」であり、周囲を見据えることを未来を見据えることに優先する。

他者より優れることはどうでも良い。生命体たる自己が納得する方向性を選択すること。それなくしては「学問」の意味はない。同時に、人生の「幸福」もない。

アタマが良くなることとは、現実に相対して「覚醒」することである。

このことが了解されぬ限り、いかに社会的地位が得られても、学問の意味は限りなくなく無意味化する。

自己の存在価値を追求する実戦を選ぶ時、あらゆるものは「聖者」と化す。

だが、「悪魔」が囁く。

「他者に勝らなければ、意味がないではないか」と。

この謂いに埋没するものは、終わることなき因果論的輪廻に埋没し、「覚醒」を得ることはない。

多くの衆生に埋没することなく、自己の存在の本質覚醒を目指すものは、V-netに名乗りを挙げよ。

自己の本質から発する好奇心と追体験、このことを見失う時、全てのものは「傍観者」と化す。


2005-07-12 第二回イヤシロツアー

_ 去年8月に、V-netの先生方と、神社巡りをしながら鳥取へ行った話を書いた。題して『イヤシロ紀行』という。

A4びっちり15枚くらいの作品であるが、これがなかなか評判良い。

読んだ人から、「自分も今度同行させて」という声がいくつもあった。

そして、なぜだかしらぬが、今年も同時期に行くことになってしまった。

先ず、大分の経済同友会の招きで九州に講演に行くことが決まった。

大分に行くということは宇佐八幡に寄るということである。

どうせなら、伊勢参拝をして、またしても玉置山に行こうとすると、熊野でも講演をすることになった。

さらにまた、大好きな鳥取三朝温泉に寄ろうとすると、ここでもいくつか講演をすることになった。

おまけに、伊勢近くの久居市のクライアントさんが、伊勢周辺の神社スポットを案内して下さるとのお誘いを受けた。

今年も断然『イヤシロ紀行』を執筆しようと思う。

ちなみに日程は以下の通り。お近くの方は是非参加されたい。詳しくは、、V-netホームページで近々お伝えの予定。

_ 7月24日 伊勢参拝→熊野講演『今どきの男女事情』

25日 熊野講演『カタカムナ音読会』

26日 三朝温泉木屋旅館泊

27日 倉吉講演『大学進学を視野に入れた小中学校での学び方』 

28日 午後1時より講演『子どものためのカタカムナ音読会』

    4時より講演『サイコロ学習法』

    7時より講演『カタカムナ音読法』

29日 夕、大分入り

30日 午後 経済同友会で講演『最先端受験教育コンサルタントから見たこれからの教育の方向性』

31日 福岡講演『カタカムナ音読会』


2005-07-13 教育の問題の認識

_ なぜかは知らぬが、この日曜日の朝刊は、各紙が教育問題にシフトして来た。

日経では、一面で「どうする義務教育」として、社会面に関連インタビューで、元文相有馬朗人氏と文科庁文化部長の寺脇研氏へ、総合学習やゆとり教育に関する「責任」を問うたりしている。

朝日では、「保護者の無理難題に悩む先生」と特集を組み、いつものように玉虫色的な掲載を試みている。

月刊誌「世界」では、巻頭の「読者談話室」で、学校教育の劣化は、家庭や地域の文化水準が落ちたためで教師の責任ではないとする教師の投書を掲げた。

私は、新聞記事は読者を想定した「やらせ」として読む。雑誌も同じである。教育についての欄の一番の読者は、教育関係者であり、その人たちを読者として引き付けることを前提にした書き方がなされるのは当然のことであろう。学校も経営、新聞も経営。そんなことは当たり前であるという認識はすでに多くの人がものにしている。敢えて日曜日にそれをすることがその証拠である。

マスコミは、その大切な読者の一翼を担う教職者の決定的な悪口は書かない。また文科省政策がもう完全に無意味化していることも書かない。おまけに広告を載せてくれる教科書会社系の悪口は絶対に書かない。結果的に、現場で無意味な教育に苦しむ子供達の立ち場を意図的に無視した印象を与える言説を取る。

こういうことを書くと、「右翼」が喜んで私に近づいて来るが、私は片寄ったイデオロギーを否定するものである。あらゆる思想には良いところと悪いところが共存している。イスラムもキリスト教も創価学会も日本共産党もそうだ。そして、こと教育に関する限り、私は、右翼以上に「愛国者」である。私たちの国の未来を担う子供達に一刻も早く最大限の教育援助を行うこと、それこそが大人としての私たちの役割であるということを一歩も譲る気持はない。子供達のことよりも自分達の立ち場を前提にするものは皆教育の敵である。

文科省も教育組合もどちらも「保守」である。マスコミも「保守」である。こうしてまたズルズルと月日が流れて行く。詮方ない思いをするのは私だけであろうか。私は、子どもたちが、大人のやっていることを受け入れない実情を受け入れない姿勢大人たちが吐露するをこそ痛烈に批判する。全ての子供達には、平等かつ健全に成長をする機会を与えられる権利がある。良い機会と教育さえ与えられれば、ほとんどの子が前向きに成長するという私の確信は、私個人の経験からのみ来るものであろうか。


2005-07-14 『高校生のための哲学』

_ 言語が不全だから、哲学することはナンセンスであると言うのは、20世紀を代表する哲学者のヴィトゲンシュタインの見解だ。 彼の友人兼師であるバートランド・ラッセルは、その「集合論」の中で、「一つの集合を規定するにはその集合外の要素が必要だ」と指摘している。

10代の若者は、「何が正しいことか?」を探し求める。

しかし、実は、その問いかけに用いる言語も哲学も不完全なのだ。臨斎禅では、言葉で真理に迫ろうとするものを打ち据えて覚醒をもたらそうとする。

_ この世における最も尊い物である、真善美と言った究極のものは言語では求め得ない。真も善も美も、その反対のものがないと規定され得ない。もし我々が、神の存在の可否を問い、「神は、絶対に存在しない」と、強く主張すると、「君は何が存在していないと言うのだ。」と問われる。「神だ」と答えるとき、その質問は神の存在の可能性を前提になされていることが発覚してしまう。以上のことからも、言語は不完全なものであることが暗示される。言語では、存在の是非を問うことはできない。従ってそれを説くものは、言語以外の表現メソッドを求めていることになる。

_ 世界の宗教教典を読むと、そこには驚くべき人間真理の一致が見られる。キリスト教のアガペー。仏教の慈悲。儒教的仁愛。イスラムの喜捨。これらは、みなほぼ同一のことを語る。「善く生きなさい。そして成長した自己を他者のために役立てなさい。」これは人類普遍の真理であろう。

ソクラテスは語る。「財産や社会的地位を第一義にして、自己の魂の最高向上を目指さないものは、真の人間ではない」と。しかし、彼はこの発言により死刑を宣告される。現代と同様、当時のおおよその社会人が求めるものを否定したからだ。

_ 諸君の多くは、「なんのために勉強するのか?」という質問を発したことがあるだろう。それに対する一般的な答えは、「良い学歴を得て良い社会的地位を得て、他者から見劣りのしない人生を送るため」と言うものであろう。しかし、それは、古代からある聖者たちの見解とは全く異なるものなのである。彼等の見解からすれば、「自己向上の習慣を身につけ、他者のためになる自分を作るため」ということになるのだ。

_ 学問や芸術は、己を高めるためにある。そして、己を高めた先には、社会に役立つ仕事がある。社会に役立つ仕事は楽しい。なぜなら、他人が喜んでくれるから。それが全てである。他者に喜ばれないための知識や芸術表現などあり得ようか。

_ では、そういった尊いことを始めるきっかけは何なのであろうか。それは、意外なことに単に善良な心にあるのではなく、若者なら誰でも持ちうる純粋な心にあるのである。純粋な心とはどのように現れるか。それは純粋な好奇心によって現れる。純粋な好奇心とはどのように発現するか。それは、あるとき、突然、「これは、自分にとってどうしても素通りできない」という思いに立ち止まることによる。そして、そのことに没入することによる。そのことの妨げになるのが、財産や社会的地位と言った価値観なのである。

純粋な好奇心による追体験を繰返す「旅人」となったとき、人は、「聖者」であり、その境地は永遠に増大し続ける。

有名な仏典の一つである般若心経は、智慧を完成させるための真言を伝えるものである。その真言は、「往けるものよ、往けるものよ、彼岸に往けるものよ、彼岸に全く往けるものよ、悟りよ、幸あれ!」というものである。

純粋な好奇心から起るはずの人間として最善の試みは、脇目を振らず徹底的に求めることというのが正しいようだ。諸君はどう思われるか。


2005-07-19 アキハバラ

_ 旅行に行く際に、普段使っているBook型パソコンも携行し、しかも行った先々で書いた原稿をすぐホームページで、できるだけコストをかけずにアップするにはどうしたら良いのか。

その答えは、携帯電話とノートパソコンの間をチップスで繋ぎHPに送る形を取るのだそうである。「そうである」というのは、小生にはニューメカについてうとい振りをして面倒なことを周囲の人にやってもらおうという「秘密」があるので、以下すべて自分で考えて実行した結果ではなく、人に任せてなった好結果らしいということのようなのである。

秋葉原は、「アキハバラ」になっていた。

20数年前に、ここが若者の溜まり場になると思っていたオヤジは稀だろう。

浅草にストリップ。

心斎橋にコーヒ−屋。

秋葉原にコスプレ嬢。

訳の分からないほど入り組んだコンピュータキッズのニーズに答え続ける情報資本。

あちらこちらに素人ねえちゃんが出没して、写真の激写を乞い、

これ幸い!と、しゃべれない理系オタクがシャッター切り、

女も「ソフト」と、一段対象遮断幕を置いた性風俗。

男も女も「ヴォランティア」。

アメノウズメのFucking!

やろう!と思うココロとやろうとさせようとするチカラ!

いつもあとで知ったことは、

良くわかっていたつもりのことのほぼ逆ばかり。


2005-07-22 「佐藤学インタビュー」

_ 雑誌「世界」が、7月号の巻頭の読者寄稿欄冒頭に、小生も評価した5月号の佐藤学の論説に共感したと言う高校の教師の、「教育現場の問題を教師だけに負わされるのは堪え難い」というニュワンスの文章を掲げるのは、これも新聞同様、読者の大きな比重を占める教師たちへの配慮なのかと思われて悶絶する。

日経で3日間だけ特集したー「どうする義務教育」ーで、東大教育学部長の佐藤学は、記者インタビューに答えて、明瞭に「学力低下の主因は教師の質の低下である」と述べている。彼の現在の仕事は東大内に作る教師養成大学院の構築である。

佐藤は、極めて「政治的」である。左翼の味方を視野に入れつつ次の展開のためには当然のように前言ニュワンスを撤回する。調査数値を見た後は、見えていたかのような発言を絶えず可能にする、この人は見えているのかレトリックが巧いかのいずれかである。この知能が高い人は今でも上からの教育改革が可能だと思っている人なのであろうか。

教師を我々と時代のニーズに合わせたものにすること。実はこれは即座に実行されることでなければならない。我々は、教師の生活より子孫の発展を優先する。するとそこに、能力の良し悪しを問わなければならないわけには行くまいという問題が提示される。これは然るべきである。しかし、もし能力を持った人材が不足している状況が浮き彫りになった時点で、その補填を何をもって行うのかというのはなかなかキモな質問である。多くの人がこの価値の多様化した困難な時代において次世代への教育的な価値観を持つことができない状況において、「何が正しい」は、はっきり提示されねばならない。それが日の丸君が代教育勅語儒教教育であるのだとしたら、はっきり言ってその人たちはとんでもない時代錯誤の迷妄な人たちであって、親しむべき古いお考え方の素朴善人ともいえるほどである。

国家の衰退は上に立つものの考えが甘かったからに違いない。多くの国民が、自分の立っている大地全体よりも、自分だけの富を優先する。国民全体、ただ金さえあれば好いという思いに浸り切っている。こんな考えの大人たちを見て育つ子供達は、大人のやっていることにしらけて元気が出なくなる。すると今度は、「学力低下」と大声をあげて来る。しかし、何も解決されない。忌わしい試験制度、やる気のない教師、古い考えを押し付けて自己確認をしようとする大人。現場が変わらないことに無頓着なのは、彼等が別のことを考えている証拠である。

私は現代を大きな激動の最中と見る。ここでは明らかに古い価値が捨てられて新しい価値が構築されようとしている。意見ボケているようで実際すごくクールな文化、そう言えるようなものが始まっている気がしてならない。


2005-07-26 機関車トーマス

_ 御台場にフジテレビ主催の機関車トーマスのミュージカルを観に行って来た。これは、このBlogの兄弟Blogである『火山的心』の筆者である上野火山先生の日本語翻訳脚本によるものだった。上野先生、招待券ありがとうね。

私は御台場に行ったことがなかった。不思議な気分だった。

舞台はすごかった。と、これを説明する前に、会場のことを説明しなければならない。

ビルはいっぱい立っているが、あちらこちらに大きな空き地がある。その中の一つに、黒っぽい仮設小屋がある。大きな体育館くらいのスペースである。入口近辺にも巨大なプレハブが関連グッズ売り場として作られているが、どうやら夏だけの特設会場であるらしい。

暗幕を2度くぐって中へ入る。

正面床に舞台があり、客席はその向いに階段状になってある。

その舞台は見たことがないものだった。

正面奥は、全部トンネルの穴。機関車の車庫であるらしい。その前の方に広場があって広場の中や先に道がついていて、そこを人を乗せた機関車たちが縦横に走り回る。

子供達は夢中である。悲現実なトーマスから現実の像を空想するのではなく、現実のトーマスが目の前を走り回る芝居を目にするのである。しかもこのトーマスは表情を変えることができるカラクリなのである。小さい子供達は完全に感情移入。パーシーという小さな機関車が脱線するときなど、泣き出す子どもが出る。

これはテレビではないのである。目の前の芝居なのである。しかしそこにあるトーマスはかつて見たいかなるトーマスの複製よりも実物大リアルなのである。

それにしても外は炎天下。見事に外部光を遮断した中、数十台の大型エアコンを稼動させているが、天井の上から熱気が漏れて来ているような気がする。

ショーは、子供達に、自己判断と優しい心の大切さを強く訴えて大きく盛り上がって終わる。子供達の多くが満足そうだった。

外に出て階段を上ると、右手に一面に緑の畑が広がる。向日葵である。まだ50cmくらいの彼等は太い幹の先に拳骨のような花を形成しながら、炎天下まるで太陽光発電のように光合成を繰り替えして大成長を遂げようとしていた。

御台場は暑かった。今度は秋に来よう。


2005-07-27 熊野行き

_ 熊野までは東京から約700キロ。深夜に東京を出て伊勢参拝後、近くのTサンの御案内で鏡石、伊雑の宮、水穴と見学。予定より1時間半の遅れで4時新宮着。雲取温泉で汗を流して講演会場の東牟婁の役場へ。

7時より講演『今どきの男女事情』。参加者は約50名。男性は1人しかいない。和歌山県は、本年、「男女共同参画事業」を掲げているそうで、本講演はその一環である。『選ぶ女、選ばれる男』の内容について話す。

熊野は女性が強い地域だと聞いていたが、都市に比べてやはり男権が強く残っているようだった。その意味で、都市における若い世代では圧倒的に女性上位が進みつつあることは新鮮なことのようだった。

会後に恒例の拙著販売。良く買っていただいた。いささか寝不足であったが、何とかそれなりに話ができたようである。以下参考までに講演内容レジュメ

_ 『今どき女性事情 今どき男性事情』

_ 序 自己紹介

_ 1 都市先端部における圧倒的な女性上位ー女性の社会進出の結果と世代交代

2 ピンチだぞ、男の子

3 テレビとテレビゲーム

4 追体験と好奇心ー外で群れて遊ぶことの大切さ

5 現行の「学力向上」に潜む罠ー暗記学習とつまらない人間の多出

_ 6 Neetー自立できない子供達

7 感受性と自己表現ー芸術教育の重要性

8 最先端の入試の実情ー文章力の大切さ

9 表現教育−平和な時代における自己表現とコミュニケーション力 

_ 10 男にはない女の良さー感受性とアワ波動

11 女にはない男の良さー観察力とサヌキ性

12 教育コンサルタントから見た夫婦関係の大切さ 

13 少子化社会の子育てーどういう子どもが未来的に幸福か


2005-07-28 講演ツアーの実態

_ 今回のツアーは、各地で講演をして本を売るもので、夜に旅先の布団で横になると、どさ回り巡業の気分がそれなりに楽しめる。そうである。これは、筆者がいつも夢見る、日々変化連続する旅なのである。

帰京後に「イヤシロツアーⅡ」を書こうとするアタマがどこかにあるので、このブログになかなか連続的テーマを見出せないのであるが、本日当然のことが判明した。

実はこれは教育相談ツアーなのである。どこへ行っても人々が私に話し掛けることの中心は、いつでもわが子の教育のこと。

熊野では、Wさんのお宅に泊めていただいた。ここは、自分達で設計して建てた木造りの住宅で、一階リビングが吹き抜けで天井が高く音のヒビキが良い。カタカムナ音読にピッタリの場所である。

久しぶりで再会したWさん御夫婦は、女男男の3人の子持ち。彼等は何事も自分達で判断して自分達で解決しようとする未来型日本人である。教育活動に興味を持つようになったのは御長男の不登校がきっかけとのと。

御長女は大学3年生で家を離れている。感性鋭敏な御長男は、バイオリン演奏に打ち込んだが限界を意識し(実際はかなりのもの)、イタリアへバイオリン製作の技術を学びに留学中。今この家に残るのは小学5年生の男の子である。末の子は可愛いというが、本当に可愛い存在の男の子である。子どもらしさと自分の意見をしっか お二人は、多分上の男の子の心配があるのであろう。ユニークなこの子の順調な成長を願って止むことがない。はっきりいって全然心配ないのに、随所で不安を口にする。この子で教育の仕事が終わるという思いなのか、真剣である。

り口にできるところが備わっていて、新鮮である。

音読とカラムとサイコロのコーチ。物事に夢中になって自我を忘れる子どもの姿は本当に美しい。「きっとまた来てね。」と言ったこの子の関西弁の背後には暖かい人柄が充満していた。子どもの成長のためを想って鋭意する親御さんの心が充分に伝わっていると感じた。


2005-07-31 鳥取三朝

_ 熊野で2泊後、玉置山参拝を経て、田辺から高速道。米子道湯原ICを経て、予定通り午後7時過ぎ鳥取三朝着。熊野よりおよそ550㎞の行程である。

ここの温泉は私が知る限りで最高である。日本一と言っても良いほどに泉質が良い。温泉国の日本で一番なのだから、三朝温泉は世界一のラジウム温泉だっと言っても良いだろう。

しかしこの世界一には最近悩みがある。泉温75度で宿の下から直接涌いて来る温泉は、水で薄めなければ入れたものではない。私は先年台で河が増量して温泉が涌きやすくなった時に敢えて地下の壷湯に入浴を試みて、ホースで10分以上薄めても入ることができず、しかもその待っている足の裏のタイルが熱くて難渋したことがある。やっとのことで入るも後から後から下からどんどん熱いお湯が涌いて来るのであっという間に石川五衛門。

ところが最近、温泉を薄めることが悪いという世間の風潮になっている。これは温泉量の足りなくなった地域が水を足して循環させて沸かし直して使うことが多くなったためであろう。マスコミでもさんざん取り上げられた。でも薄めなくては入れない温泉はどうするのであろう。三朝ではこれを「温める(ぬるめる)」と呼ぶことになったそうであるから笑える。

熱湯壷湯もすごいが、私が最高に愛するのは「河瀬の湯」である。ここは常に上手に「温めて」ある。さらにここの湯舟に深く切ってある槽の形が腰を伸ばすのにピッタリにできているので大変心地よい。しかもその泉質は、飲むこともできるなめらかなものであるのに、まるで体に浸み込むように良く効く。そしてこのお湯は湯当たり

しないから何度でも入れる。

木屋旅館

_   かぢかなる みささかわせの 木屋の湯屋

この温泉が科学的にも優れていることは、国立大学の温泉治療病院があることから

も明らか。http://www.misasa.co.jp

夕食は美味しいを越えて楽しかった。料理の一つ一つが夏の風物を具体的に語っており、イカそうめんは竹の枝に下がって出て来る。日本料理は生のものを活かすと同時に、そこに絵心を加えていく巧みさではこれまた世界一であろう。目を楽しませる遊び心。以前から感心して来たが主人に問うと、最近板さんが変わったそうである。

今いただいているのは、新しい弟弟子が作っているものだそうである。ということは、彼等に共通する「大先生」がいることになる。主人の話によると、やはり大先生がすごいのだそうである。ここらの旅館はこの大先生が弟子達を配分しているとのことである。その大先生はと問うと、「長い髭に和服姿で仙人さんみたいです」とのことであった。料理の一つ一つに必ず遊び心を加えることを徹底することの確信をどこで学んだのか興味は尽きなかった。