2005-09-07 虚偽報道
_ 反省を口にするものに、敢えて苦言を加えることは潔しとはしない。しかしそれが、普段傲慢な言及を絵に書いたような新聞が、しかも社説のトップで急に行うとなると心中は穏やかでない。
朝日は、31日付の朝刊社説で、新党結成に向けて亀井静香氏と田中康夫氏が会ったとする取材メモでっちあげ事件について、「朝日新聞が問われている」として自己反省した。
そのレトリック、特に興味深いのでここにそのまま引く。
「これらの問題は一つひとつ性格も原因も違う。しかし、こうも続いて起ると、何か構造的な問題があるのではないかと感じざるをえない。
このくらいならという気のゆるみやおごり。社内外での競争がもたらす重圧や焦り。朝日新聞という伝統と看板がかえって組織の病を生んではいないか。
こうしたことにきちんと目を向けて、病弊を根本から取り除く。日々の取材や紙面づくりで地道に努力する。それしか読者の信頼を取り戻す道はない。
あらためて、そう誓いたい。」
この発言は痛ましい。これは朝日新聞が全くの虚業になっていることについての一種の敗北宣言である。
第一に、①このコラムの筆者はこのレトリックでやりきれると思っているか、このレベルのレトリックしか扱えないものを編集委員に据えざるを得ない新聞組織の限界を、まるでNHKやフジテレビと同様に「告白」しているかのどちらかである。
高学歴者に倫理観が伴わないことは、採用試験制度の欠陥である。このことは段差をつけてみれば教育組織の問題と同様である。
②「何か構造的な問題があるのではないのか」とは何事であろうか。これは書いてはいけないことである。これを書いても許されると判断するのなら、まだ完全に読者をバカにしていることになるからである。構造的な問題があることはかねてより明らかである。それがなんであるのかを認識しなければ反省文の意味がない。「気のゆるみ」と言うのなら、以後警察不祥事については語れなくなる。ジャーナリスムの良いところは、「正義」の視点を行使できるところだ。ここにおいてこそ、ジャーナリスムは、国家行政を凌ぐ。それが、「捏造」では、問題は構造的ではなくアタマが悪いということである。
③「朝日新聞という伝統と看板」、おまえらもNHKの職員と同じ意識なのか。「新聞」などというゴミ集めから始まった事業の良いところは、「伝統や看板」を隠すところではないのか。
④「地道に努力する」。こういう言葉は、金取って読ませる文章の書き手としては最低である。これを読ませたゆえに、「金を返せ」と言いたい。
21世紀において、新聞ジャーナリズムはついにその力を失おうとしている。単なる「報道」であったのなら、「怒り」をエネルギーにすることなぞできなかったはずだ。「怒り」があったからこそ報道せざるを得ないのではなかったか。このコラムには「反省」はあっても「怒り」がない。そんなものは我々は金を払って読まないことに気づかないのだから笑わせる。
ふざけるなって言うんだ。新聞報道が「作られたもの」であることぐらい、我々はとっくに了解済みである。お前たちが書くよりオレたちが書く方がずっとましだよ〜ん。
私は敢えて言うが、このことはセンター試験と深い関係がある。