2008-04-06 音読指導20時間
_ 音読指導20時間
パートナーの経済的締め付けに辟易する毎度おなじみの今日この頃である。
男性としか飲まない私は大の女性苦手者であるが、その実クライアントのほとんどは母親たる女性たちである。
滅多にないことであるが、私的に、「こういう人なら共同生活者は幸せであろう」という人にお遭いする。
「匂い」は関係あるかもしれないが、「器量」はほとんど関係ない。
「美しい」と呼んでも良い。
自己滅却の子どもの幸せを思う心に胸打たれるのである。
「こんな風に子どもや周囲を愛せるなんて、男にできることではない」と、我が母親を想ってしまったりするから、永遠に「客観化」することができないものがそこにはある。
自我より他者愛が優先される美徳。
これは理性的に他者を容認しようとする男性には及ばぬものである。
十代で自殺し損なった私が母親に愛されていたと同様、自身を捨てて子どもを愛する母親がいる。
子どもを通じての「自己表現」を越えて、その存在を愛するものは、皆「天使」である。
自分より他者を愛していることにすることの快感―それを私は知る。
自己愛では「自己愛」が完結しない。
それが「哲学的真理」だ。
全ては他者との関わり合いと、存在自体が自己の存在認識を超越した女性的「真理」である。
してみると、逆転的に、自己の「ワガママ」への無自覚は、女性的魅力への「捨象」である。
愛されることを願うより、愛してしまうことが本道なのだ。
やはり、子どもが母親に愛されていることを前提に成長するのは当然の帰結である。
しかし、「愛」には、「変化球」=「技術」が必要である。
何となれば、愛を伝える言語が不完全なものであるから。
「他者を愛するのは自己が愛おしいから」というのは、我が敬愛する「ウパニシャッド」、ヤージュナヴァルキュア仙の出家の言である。
でもやはり、太宰の「子より親の方が大事」。
3日間で21時間音読指導した。
これがどういうことを意味するかを捨象する家族は、感謝とねぎらいの希求を拒絶した。
まあこんなものである。
「平気」なことが不思議である。